Trace Ⅰ
私たちは数日をかけ、街を探索した。アレンの背負う袋はひとつでは足らなくなり、二つ目をラディスが背負った。
「ラディス。つまみ食いは厳禁だからね? 外に来たときの約束は覚えてるね?」
「だからアレンおじさん、僕はもう子供じゃないんですよ」
「ならばよし!」
一日少量を二食では足りないラディスは、何度も自分の背負う袋を見て、その度に濡れた子犬のような顔で、こちらを覗き見ていたが、私は素知らぬふりをする。
質素ではあったが、少ない住民に潤沢に行き届く食料のあった島での生活しか、彼は知らない。
どうしてラディスは、外へ行く私たちについてきたのか。やはり彼は、胸の内にいまだ、勇者への捨てきれない憧れを秘めているのではないか。
島で終わりを待つのではなく、最後に冒険を選んだ青年の心境は、私たちのものとは違っている。それだけしか、わからなかった。
食料をかき集めながら目にした中に、ふたつだけ私の知る景色があった。
街の中央広場だっただろう場所に、仲良く崩れていたふたつの石像。ラディスが石像であったことすら気づかないほどには、それらは形を留めていなかった。
石像の下に刻まれていたはずの名前も、雨風に晒されたせいか、崩壊に酷く傷ついたのか、どこにもその存在を知らせるものは残っていない。
そこから南に降りた場所には、中腹で綺麗に、真っ二つに分断された瓦礫があった。
かつては頂上から街を一望出来た、時計台の長い針は瓦礫に刺さり、天を向いていた。短い針は見当たらなかった。
「リアナ、危ないよ」
「わかってますよ」
背から声をかけてきたアレンが、すぐに後ろへやってくる。
唯一、形を留めている時計台の地盤は、私の知らない灰色の素材で補強されていた。
手触りは煉瓦とも、石とも違う。固めた粘土に似ていた。
「気になるものがあったのかい?」
「いいえ」
そうか、とアレンは上を見る。彼の口元は微笑まれていた。
「もうすぐ雨が降るだろうからね。ここから離れよう」
彼は袋に縛り付けている軽い素材の鍋もどきを叩いた。軽快な音が鳴った。
「今夜はスープを作れるよ」
「無事に火を起こせればいいんですが」
「それは火の神に祈るしかないね」
溜めた雨水と、手慣れた手つきで火を起こしたアレンのおかげで、私たちは肉の缶を一つ溶かして味付けをしたスープにありつけた。石のように固いパンも、今日は柔らかいものに姿を変えて、体を温める。
「体は覚えてるものだね」
起こした火を見て、誇らしげなアレンの隣で、ラディスは羨望のような視線を送っていた。食事を終えると、ラディスは、アレンから火の起こし方を学び始めた。
吟味して選んだ寝床だったが、崩壊の危険を考慮して、私たちは入り口に近い位置で眠ることにした。アレンは当然のように、私たちが眠るまで起きて外を眺めていた。
起きても外はまだ、雨だった。おはよう、と一番に声をかけてきたアレンは眠っていないことを言わなかった。
困った人だ。私は口の中で呟きながら、被っていた布切れを渡す。それだけで十分だった。
彼が眠ってから、しばらくして雨は止んだ。私は消えていく火を見つめながら、燃やせるものがないかを探した。
足元には昨日食べたパンの銀の包み紙だけがあった。
手で綺麗に伸ばし、三枚揃えて火によせる。少しでも足しになればと思った。しかし、銀の紙は燃えずに、くしゃりと歪み、先だけが黒ずむと、あろうことか、消えかけていた火は完全に消えてしまった。
その時気づいた。これも私の知らないものだった。火にくべずに捨て置いていたアレンは、このことを知っていたのだろうか?
私は鈍く光る紙とアレンを見比べる。ふいに全く未知のものと遭遇した時に感じる奇妙な感覚を覚えた。
しばらくしてラディスが起きてきたが、雨で湿気てしまった材料では、彼がいくら頑張っても火は起こせなかった。
「そんなに寒いわけじゃないし、大丈夫ですよ。最悪おじさんが風邪ひいたら、俺が背負っていきますよ」
汚れた手をズボンで拭いた彼は、幼い笑みを浮かべて胸を張った。
この地にやってきてから時間は曖昧だった。今日のように太陽が見えない日には、私は時間から置いて行かれているような感覚になった。
島にも、正確な時刻を知らせる時計は存在していなかった。けれど、これはそれとはまったく違った孤立感だった。
雨の気配は遠ざかっている。やたらと静かだと思った時には、退屈を持て余したラディスは再び眠ってしまっていた。その彼よりも、アレンが起きる方が早かった。
寝ぼけ眼を引きずっていたアレンは、近くで眠っているラディスと空を見比べて、不思議そうに首を傾げる。
「待ちくたびれて眠ってしまっただけですよ」
「それは、すまないことをしたね」
私が言うと、彼は首だけを屋根の外に出して、空を仰いだ。いまだ分厚い雲だけが覆っている。風はほとんどなく、太陽が顔を見せるのには、まだ時間がかかりそうだった。
「それなりに降ったからね。念のため、移動しないでおこう」
私が頷く前に彼は立ち上がった。彼の中では決定事項だったらしい。
「すぐに戻るから」と外へ出て行った彼の姿が見えなくなってから、私も少し外を歩いた。
ラディスを見失わない範囲に留めて、左右を往復する。
陽の光を失った街は、昨日とは違う雰囲気に包まれている。この世ならざる者が、いつ出てきてもおかしくない。そんな異様さだった。
雨に濡れた瓦礫たちが、普段見せない輪郭を纏うその姿は、踏み入れたら最後、引き戻せない境界線のようにすら思えた。
得も知れぬ身震いが肩を震わせたとき、突然、遠くから崩壊の音がした。大きな音だった。
私はその方向が、アレンが歩いて行った先であることを、ひと呼吸あとに気づいた。
「――アレン!」
一瞬響いた声は、すぐにどこかへ吸い込まれていく。一度、二度、彼を呼ぶ。返答はない。
「どうかしたんですか?」
振り返ると、ラディスが目を丸くしてこちらを見ていた。彼は怪訝そうな表情で歩み寄ってくると、もう一度同じことを私に尋ねる。
再び、崩壊の音が響き渡る。それが説明の代わりになった。
私たちはアレンの安否を確かめるため、急いで荷物を背負う。たしかにあちら側だった。
私が指差した方へ、ラディスが混乱を抑えきれない顔で駆けようとしたとき、あらぬ方向から重いものを引きずる、耳障りな音が聞こえてきた。
向かうべき場所から身を翻したラディスが、私を守るように前へ立ちはだかる。
音はまだ遠い。それでも確実に近づいてきている。
ラディスが息を呑む音がした。その肩は震えている。
ずるずるといった奇怪な音と、彼の震え、それが唐突に私を現実に引き戻した。
私はラディスの前へ進み出る。曇天の下、鉄骨の傘に覆われた影の中から露わになるだろう正体は、彼岸のものではない。
見つめた一点から現れたのは――ドラム缶と、それを一生懸命押しているアレンだった。
その後、雨は降らなかった。
アレンはあちらこちらに溜まった水を、昨晩スープに使った鍋で汲み取り、ドラム缶の中に溜めた。
ラディスがいくら頑張ってもつかなかった火を、アレンは数回試すだけで、見事に着火させる。
彼の火の起こし方は原始的で、しかし独特だった。過去にも、彼のこの技術を私たちはとても重宝していたことを思い出す。
「出来たよ、リアナからどうぞ。僕たちは向こうで、ゆっくりしておくから」
ドラム缶からは湯気が立っていた。彼は手で湯加減を確かめて、燃えている火を外してから、私に言った。
星も見えない曇天の下に、大勢の人々の往来があっただろう、通りの真ん中に出来た即席湯舟は、数日体を洗えていなかった私にとって、贅沢なものだった。
苦労した人が一番じゃなくていいのか。そんな私の問いに、「僕は最後に、好きなだけ入りびたるつもりだからね」と、彼は笑うと、ラディスを伴って、昨夜の寝床へ戻っていった。
どこかへ落ちていただろう、石鹸を拾ってきたらよかったと、後悔したのは、湯が冷めはじめてからだった。
世界の終わりを見届けようと始めたこの旅が、いつまで許されるかわからない。
それでも、今すぐ終わるわけでもない。
私はドラム缶の中の湯を拝借して、髪を流すと、古び汚れた布の中でも、厳選したもので全身を拭きとる。それから布に湯をかけて、出来るだけ綺麗に洗うまでして、二人を呼んだ。
寝床でひとり、髪をゆっくり拭いていると、二人が騒ぐ声が聞こえてきた。
親子ほど年が離れた二人は、どんな時間を共有しているのだろうか。
ほとんど聞き取れない騒ぎ声を子守歌にして、久しぶりに熟睡した。




