Zero Trace「いってらっしゃい」
いってらっしゃい。
最後の見送りにしては、ずいぶんと軽い声だった。
いってきます。
明るく答えるだけで振り返らなかったのは、誰も手を振っていなかったからかもしれない。
――海を越えた先は、もう終わっている。
そう聞かされてから、どれくらい経っただろう。
崩れた街並みを前にして、私はふと、似た景色を思い出す。
似ているだけだった。
私たちの救ったものは、もうどこにもなかった。
「いい朝だね。おはよう、リアナ」
彼が白い歯を見せて、そう言った。おはようございます、アレン。私も微笑み返す。
空は清々しいほどの晴天だ。雲一つない。
明日はびっくりするくらい晴れるから、今夜はここで野宿にしよう。彼の予報は外れた試しがない。
そういえば、あの日も快晴の下、一番に起きた彼が笑って、「おはよう」と言っていた気がする。
「ラディスは今日も、お寝坊さんかな?」
一晩を超す温もりの足しにするために、昨夕かき集めてきた布切れを火にくべながら、アレンは言った。
「昨日も見慣れないものばかりで、興奮してたから仕方ないわ」
「それにまだ成長期だったね」
二人して、私の隣で眠る青年を見る。成長期というにはもう少し遅い気もするが、ここ数日、はしゃぎにはしゃいでいたラディスの姿を思い返して、私は微笑んだ。
「どうしようか。二人を置いて、食料を探しにいくわけにはいかないし」
アレンは片手を腰に、片手を額で傘にして、辺りを見渡す。緑が芽吹き始めている見晴らしの良い公園の先は、崩れかけた石や鉄の群像だけだった。
「仕方ありませんね、可哀想ですけど、起こしましょうか」
人の気配はないと言っても、彼があちらまで行って戻ってくるまで、時間がかかるだろう。
終わりを迎えた世界は、私たちにとっても未知だった。
私はラディスの肩を揺さぶった。唸るばかりで起きる気配はない。心地よさそうに眠っている彼を見ていると、もう一日くらい、ここで夜を超すのも悪くないかもしれない。
そう思った矢先、アレンがラディスの耳元で声を張り上げた。
「勇者ラディスよ! 目覚めよ! 冒険が始まるぞ!」
「うわっ!」と跳ね起きたラディスに、「やっと起きたね、勇者ラディス」と、アレンはニヤリと笑う。
「もう、アレンおじさん。そのからかい方、いい加減にやめてって言ってるのに。大人げないですよ」
「こんな素晴らしい朝を、寝過ごそうとしている君が悪いね」
「たしかにいい天気ですけど、最悪の目覚めになりました」
服についた草を叩きながら、立ちあがったラディスは、大きな伸びをしながら、辺りを見渡した。勇者伝に没頭して、木の棒を振り回していた少年の姿は、もうそこにはない。
立派な青年に成長した彼が、大きな手を差し伸べてきた。
「じゃあ……、今日はどの方向に行きますか?」
欠伸を噛み締めながら尋ねてきた彼に、「あちらにしましょうか」と、事前に決めていた一番大きな廃墟のある方角を指差した。
ローテス三番街の十。足元に転がった小さめの看板が、息も絶え絶えという風に、かつての通りを示していた。
立ち並ぶ鉄骨と瓦礫の中は、ほとんど空洞だった。もともと舗装されていた形跡のある通りは、皮膚を突き破った骨のように凹凸が激しく、真っすぐ歩けないほどだった。
瓦礫の山を見つけるたび、二人は私を気遣って、迂回することを選んだ。
「超えるのはきついでしょう? こっちからでも通れるみたいだから」
どちらかが手を掴んでくれれば、登って越えられそうな崩壊の跡に出くわした時、ラディスが右側を指して言った。
二十、いや三十も若かったときは、このくらいひとりで平気に登っていたはずだったんだけど……
妙な葛藤を覚えてアレンを見ると、彼はさっと石に足をかけて登り、こちらへと手を差しだしてくれた。
「リアナはまだ若くてきれいだよ」
「まだ、は余計なんですけどね」
不満を言いながら、その手を借りる。私が登ってから、先に向こう側へ下りようとしたアレンが、ふいに足を踏み外しかけた。
驚いている間に、どうにか無事着地した彼は、恥ずかしそうに頭を掻いた時、後ろから一部始終を見ていたラディスが、笑いながら声をあげた。
「俺はリアナさんだけじゃなくて、アレンおじさんにも言ったつもりだったんだけど! おじさん、自分が何歳か忘れてるんじゃないんですか!」
ラディスは軽々と飛び降りると、残された私に手を差し伸べてくれた。
「おかしいなぁ、僕もまだまだ現役だと思ってたんだけど。歳には勝てないね」
高笑いを響かせたアレンが、こちらを見た。賛同を求められているようで、私はふいと顔を背けた。
私たちは、滅びた街の障害をひとつずつ搔い潜りながら、運よく取り残されている保存食を、拾って来た袋に入れて、歩き進めた。
開けた公園からは一変、灰と砂埃が風に攫われる街の中は空気が悪い。空も心なしか、暗く霞んでいるように見えた。
幾度も首を回し、どれほど街の面影を探しても、どこに何があったのか、ひとつもわからない。どうにか崩壊を免れた建物を見かけるたび、記憶と照らし合わせてみるが、私の知っている景色はなかった。
最初こそ、珍しさに四方八方首を回していたラディスも、同じような光景に飽きたらしい。
「ちょっと休憩しましょうよ。ずっと歩きっぱなしだし、お腹が空きすぎて」
そう言って彼は、アレンよりも逞しくなりかけている体躯で、私たちの前を塞いだ。
私とアレンは顔を見合わせた、その間にも、愚図りだそうとしている彼に、私は失笑を堪えて、わざとらしい溜息を吐き出す。彼もおなじようにして、首を振っていた。
急ぐ理由は何もない。問題があるとするなら、食料だけだった。
私たちは建物の崩壊に巻き込まれる危険のない、開けた場所に出ると、アレンが袋から三つだけ保存食を取り出した。商品名の文字が読み取れなくなった箱の中は、銀の紙で包まれたビスケットのようなパンだった。
「これと同じものがあと三つと、缶のやつが……」アレンは袋の中を指差しながら数えると、「七つもある、大漁だね」と言って、嬉しそうに笑った。
「これ、ものすんごく固いですよ。ヘレンおばさんの作ったパンより固い。歯が砕けそう」
がりっという、パンには似つかわしくない音が聞こえてきた。ラディスが顔を顰めながら、それでも次々と噛み砕いていく。
私は膝元に保存食を置いて、手を組んだ。
「豊穣神デイメルよ――」
考えなくとも口から出て行く祈りは、ふと途中で途切れた。パンを砕く音が隣からした。
「ああ、ごめん。邪魔したかな?」
アレンが言った。
「いいえ、なんだか少し……」
私は祈りを途中のまま、銀の紙を剥いで、顔の額の上に掲げる。たまには省略しても、寛容な豊穣神は怒らないだろう。
ほとんど小麦の味しかしなかった。小麦粉と水、少量の塩でしか作られていないのだから当然だ。噛み締めるたび、わずかに小麦の甘さが舌に広がる。それに少しのなつかしさを感じた。
「昔もよく食べましたね」
「やっぱりそのままだと、さすがに固いね。鍋に出来るものを見つけたら、次はスープを作ろう」
これはスープに浸して食べるのが醍醐味だ。そう言ったアレンに私が頷くと、もうすでに手の中を空にしたラディスが、訝しげな表情で私たちを見てきた。
「二人がまだ外にいたときって、こんな不味いものばっかり食べてたんですか? ヘレンおばさんのパンより不味い」
先ほどから島で一番、料理下手だったヘレンを引き合いに出す彼に、私も少しだけ彼女が恋しくなった。
料理こそ下手だったが、誰よりも面倒見の良い女性だった。
私が逃げるように海を渡り、偶然辿り着いた孤島で、初めて声をかけてくれたのも彼女だった気がする。
「こらこら、ヘレンおばさんに失礼だろ」
アレンが苦笑と共に言う。
「だって、僕たちのいた島なんて、比べ物にならないくらい広いんだから。そう、蟻と太陽ってやつですよ。
……もう少しマシな保存食があってもいいのに」
「こっちの缶は上手いと思うぞ。次の楽しみだね」
意気消沈したラディスに、アレンが袋を叩く。私は、二口しか食べていなかったパンを半分に割り、ラディスへと差し出した。
彼はパンと私、そしてアレンを目だけで順に一瞥し、あれだけ文句を言ったパンを受け取った。




