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揺れるヘルト内政

 ヴォロフクス三番街の路地裏にひっそりと佇む中世建築。軒先には確かに『クラブ・ソルマン』の看板が掲げられている。その外観は、リリアンとよく足を運んだ会員制クラブとも異なるようであった。扉は固く閉ざされ、窓の向こうに見えるはずのランプの灯りも見えてこない。いや、あらゆる窓という窓が新聞紙や木板で塞がれて、外に灯りが漏れ出さないようになっているのだ。


 俺は意を決して扉をノックした。すると扉が開かれて、中から一人の中年男性が顔を覗かせた。額に傷のある、ギャング風の威圧的な表情を見せる男であった。


 「要件は?」


 「T・D・E・A・L どうやら親愛の証らしい」


 「中へ」


 ぶっきらぼうな男の案内にいざなわれ、俺は店の中へ足を踏み入れた。店内の様子は薄暗く、お香の煙が立ち込めている。光源は僅かなロウソクと、弱々しい灯りを発するランタンのみである。バーカウンターのようなものも用意されているが、席に着く客は二人しか見当たらない。


 いや、二人か。一人は俺をこの場所へ呼び寄せた第二皇女ダリヤであり、もう一人は……。


 「よく来てくれたわね。さあ席に着いて。ここには私たち三人と、店主の他誰もいないわ」


 ダリヤが席を立ち、手招きしながら俺をカウンターへと誘う。俺は躊躇いがちに彼女の席へ座り、横目でもう一人の男の姿を盗み見る。


 「あの、そちらの方は……」


 すると男は身を乗り出し、力強い声で名乗りを上げながら右手を差し出した。


 「ゲルオギー・ドズゴフスキーだ。君の名声はヘルト国内にも届いているよ、ニック。一目会いたいと思っていた」


 ……ゲルオギー・ドズゴフスキー。ヘルト帝国中央銀行総裁を務める財界の怪物。ブルガール人特有のオリエントな顔立ちながら、その表情にはどこか彼女の面影が見えるのであった。


 「あなたが、アナスタシアの……」


 「なるほど、既に話は聞いているようだね。説明の手間が省けて助かる」


 ドズゴフスキーは安心したように頷いて、そのまま店主に声を掛けた。


 「ツァリーヌを三つ。最上級のものを用意してくれ」


 聞き慣れぬ名のカクテルだと思っていたら、用意されたのはスパークリング・ワインのようであった。壁に並べられた数々のブランデーやウイスキー、そして綺麗に磨かれたグラスを見るに、どうやらこの店は普段から営業しているらしいことが分かる。


 「あまり知られていないが、酒の種類ならヘルト一の品揃えだろう。今日は僕が貸切ったから、好きなだけ飲んでもらって構わない」


 すると店主が忌々しげにドズゴフスキーを睨みつけ、吐き捨てるようにこう告げた。


 「とりあえず3杯で12万。貸し切り代金とは別だぜ」


 「おい、流石に高すぎやしないか?」


 「通常料金で1杯2万のシャンパンだ。こんな危険な会合に場所貸してやってんだぜ? 倍額程度でグダグダぬかすな」


 店主はそのままカウンター奥へ引っ込んでしまった。ドズゴフスキーは苦笑いを浮かべながら、俺たちの方へ向き直る。


 「まあ、とりあえず乾杯といこう」

 

 シャンパングラスを掲げ、一同は乾杯の合図をとる。すると早速ダリヤが口を開くのであった。


 「まずは貴方をここに呼んだ経緯をお話しするわ、ニック・ロビンソン。貴方のことはアナスタシアの手紙で良く知っていた。どうやら王妃と側近以上の関係にあるようだけど、その話は後ね。貴方も知っての通り、こちらのドズゴフスキーさんはアナスタシアの実の父親よ。無責任なプレイボーイで、つい先ほどまでもこの私を口説いていた」


 「……ちょっと、ダリヤ様?」


 ドズゴフスキーが焦り気味に、ダリヤの肩へ手を伸ばす。彼女はその手を払いのけると、再び次のように続けるのであった。


 「実は私も、この男と出会うのは今日が初めてよ。本当はこんなクズ男と顔も合わせたくなかったけど、事態はそうも言ってられない状況に陥ってしまった」


 その事態とは一体何なのか。今度はドズゴフスキーが説明を始める。


 「ユトダインの英雄ニックよ。ブルガール民族戦線という名に聞き覚えは?」


 「……あります。ヘルト帝国訪問の初日、宮殿へ向かう道中に」


 我々は皇女の帰還を認めない。国賊の売女に怒りの鉄槌を。奴らの掲げる横断幕にはそう書いてあったという。


 「やはり君も見たか」


 「ええ。しかしあの横断幕を掲げる連中は、ブルガール人ではないと認識しておりますが」


 「驚いたな、そこまで把握しているとは。君の言う通りあの横断幕を掲げていた連中は皆、ブルガールの民ではない。我々ブルガール人はヘルト帝国内でも特権階級に位置している。当然皇帝一家との繋がりも深く、皇女アナスタシアを非難する理由などどこにもないのだよ」


 するとダリヤは冷めた目線をドズゴフスキーに送り、ぼそりとこう呟いた。


 「貴方は例外だけれどもね」


 「あ、ああ。僕はね、宮廷への出入りを禁じられているけど。いや信じてほしいのだが、僕は今でもアナスタシア大公女を実の娘だと思っているし、会えるものなら会いたいさ。しょうがないじゃないか。エカテリーナ皇后はとても魅力的な女性だった。僕は自身の愛を抑えきれなかったんだよ」


 ……こいつ、全く反省していないな。先ほどもダリヤが口説かれたと語っていたが、今現在の彼の様子を見るに、恐らく冗談ではないように思えてならない。


 「もういいわ、その件に関しては今後一切口を開かないように。説明を続けて頂戴」


 「すまない。ともかく、ブルガール人にヘルト皇室を恨むものはいないだろう。しかしブルガール人は金の臭いに敏感だ。中には大局的な民族の利益を顧みず、はした金の為に身勝手な商売を始める者もいる」


 「というのは?」


 「ブルガール人の中には、ヘルト帝国の裏社会で妙な活動に身を投じる人間も、少なからず存在するということだ」


 「それが、ブルガール民族戦線なのか?」


 「民族戦線などと大層な看板を掲げてはいるものの、その構成はブルガール人が四から五名程度。パット・ウギルなるギャング崩れの男が親玉で、裏金を用いて貧民街のゴロツキを雇っているに過ぎない」


 パット・ウギル。シャーリーが掴んだ情報にも、その者の名が現れていた。


 「そのウギルとかいう男は、一体何を企んでいるんだ?」


 「ウギルは単なる駒に過ぎない。ブルガール民族戦線の活動資金は、とあるヘルト貴族の男から流れているんだ。男の目的は僕のようなブルガール人を国家の中枢から追放すること。そのために、数名の愚かなブルガール人を金で釣り、ブルガール民族戦線の旗印を挙げさせて、アナスタシアを襲撃させる。さすればどうなると思う?」


 「ブルガール人の信用は地に落ちる。しかし何故アナスタシアを狙う? アナスタシアをピンポイントで狙う必要があるのか?」


 「ブルガール民族戦線を先導する男。その男の名は、ミハイル・トレチャコフ……。ヘルト帝国において最も強大な力を有する貴族にして、帝国政府の外務大臣を務める男だ……」


 ここでも出て来やがった。一昨年のアナスタシア暗殺計画に関与するだけに飽き足らず、今度はブルガール人を利用して、彼女を殺そうとしているというのか……。


 「ミハイル・トレチャコフ。奴は一昨年のアナスタシア暗殺計画にも関わっていた。一体奴は何がしたいんだ? 前回はアナスタシアの暗殺を口実に、ユトダイン侵攻を企んでいたんだろう? じゃあ今回の件は何だってんだ? ヘルトの内政問題にまで、アナスタシアを巻き込む必要があるのか?」


 すると暫く口を噤んでいたダリヤが、次のように所見を語るのであった。


 「これは私の予測に過ぎないけど、ミハイルはアナスタシアに対して、個人的な恨みを抱いているんじゃないかしらと思うの」


 「個人的な恨みだと?」


 「三年前、ミハイルの息子イゴール・トレチャコフが謎の失踪を遂げてから、トレチャコフ公爵家と私たち皇室の関係は疎遠になってしまったの。それからミハイルは議会における影響力を強めていった。そして、皇帝であるお父様の方針に度々反発するようになったの」


 ダリヤの話に付け加えるように、今度はドズゴフスキーが口を開く。


 「世間では、皇帝陛下がアナスタシアをユトダイン王室へ送ったことにより、トレチャコフ家との溝が深まったと語られている。実はもともと、アナスタシアはミハイルの息子イゴール・トレチャコフと結婚する予定だった。いや、予定ではない。ミハイル・トレチャコフはそれを狙っていたと言うべきだろう」


 「まて、話についていけない。そもそもイゴールの失踪とは何なんだ?」


 確かにアナスタシアは、幼馴染のイゴールと急に連絡が取れなくなったと語っていた。それもアナスタシアの結婚が決まった直後から、イゴールは彼女の前に姿を現さなくなったと。


 「行方不明になったのよ。アナスタシアの結婚が決まってから数か月後に、その事実が明るみに出たの。でもイゴールの失踪には奇妙な点が多すぎるのよ。新聞発表では警察隊による大規模な捜索が行われたと報じられているけど、どの新聞社も事後発表で、その事実を裏付ける証言が一つもないの。大貴族の一人息子が失踪したのよ? それなのに、捜索の経過について何一つ情報も無く、捜査はすぐに打ち切られてしまった」


 「まさか、そのイゴールの失踪が、アナスタシアのせいだと……」


 「アナスタシアの結婚にショックを受けたイゴールが、自ら命を絶ったのではないか。そんな噂も囁かれているわ。どちらにせよ、トレチャコフ公爵家はイゴールの失踪について何かを隠している。そして、ミハイル・トレチャコフはアナスタシアを恨んでいる。そうとしか思えないのよ……」


 確かに、もしアナスタシアがヘルト訪問中に襲撃を受けたとなれば、現在進行中の外交交渉など全てご破算になるだろう。普通に考えれば、当の外務大臣であるトレチャコフにとって何のメリットも無いはずである。単なる私怨以外に、彼女を襲う利点があるだろうか。

 アナスタシアはユトダインの王妃なのだ。そんな彼女がヘルト訪問中に暗殺されたとなれば、最悪戦争にも発展しかねないのだから……。


 いやしかし、それはそれでトレチャコフにとっては、都合の良い出来事であるとも言えるかもしれない。彼はかつてユトダインへの侵略を企んでいた男である。もしユトダインが宣戦布告を仕掛けてくれば、堂々とそれを返り討ちにできる、と考えていてもおかしくない。

 もしかすると、ユトダイン首相のランカスターが好戦派であることを知っていて、あえて戦争を仕掛けさえようとしているのではないだろうか。


 「色々疑問は残るが、トレチャコフがアナスタシアを狙っていることに間違いはなさそうだな。で、君らはそれを阻止したい。ダリヤは妹の為に。ドズゴフスキーは、保身の為ってところか?」


 ドズゴフスキーは苦笑いを見せながら、見え透いた弁解を述べようと俺に向き直る。


 「アナスタシアは実の娘、僕だってダリヤと同じ気持ちだ。血の繋がった家族を守るために、トレチャコフの陰謀を阻止したいと考えているのさ」


 「この男の口八丁は気にしなくていいわ。でも彼にとって一番大事な地位と名誉がかかってるから、当然本気でしょうね。……ニック、私たちに協力してほしい」


 ダリヤの嘆願に対して、俺は思考を巡らせることなど一切なかった。むしろこちらからお願いして、彼女の協力を仰ぎたいぐらいである。……気に食わないがドズゴフスキーの協力も大きな収穫だ。彼の地位と影響力、そして財力は俺たちにとって大きな後ろ盾となる。


 「当然だ、俺の使命はアナスタシアの命を守り切ること。その為なら何だってやってやる」


 「……ありがとう」


 「それとドズゴフスキー、お前は一発殴らせろ。まるで父親としての自覚がなっちゃねえ」


 「え、ええ?」


 一瞬にして青ざめたドズゴフスキーは、両腕で頭を抱えカウンターテーブルに突っ伏してしまった。こんな情けない、自己中心的な男がヘルト帝国の重要人物であり、ましてやアナスタシアの父親だなんて。とてもじゃないが信じられない……。


 「冗談だよ。だがこれだけは肝に銘じておけ。お前が思っているより何万倍も、アナスタシアはお前のことで苦しんでる。父親なら少しは自覚しろ」


 「……そうか、そうだよな」


 彼の呟きにどれほどの思いが込められているのか、今はまだ分からない。この男の妙な軽薄さに一抹の不安が残るのだ。しかし彼が俺たちの協力を求めていることはハッキリと分かる。


 「……僕からも、一つ約束してくれないか」


 「何だ?」


 「僕は君たちを全面的に支援する。その代わり、僕が支援に回っていることを、アナスタシアには言わないでくれないか?」


 「当然だ。今のアナスタシアに、そんなこと言えやしない……」


 俺が彼女の父親と面会したことも含めて、今の彼女には言うべきじゃない。彼女には今、精神的な余裕など残っていないのだから……。

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