道徳の聖堂
ユトダインの経済発展は飲食業界にも革新をもたらした。冷蔵技術の発達は新鮮な肉や魚介の提供を可能とし、王都の各地に酒場や飲食店が数多く出現したのである。また製氷機の普及は、これまで貴重品であった氷を世間一般に広めることとなり、酒場ではコールド・ドリンクが大流行しているのであった。加えて蒸留装置の改善により質の良い酒が巷に出回るようになり、夜の街は空前のカクテルブームに沸いていたのである。
「マティーニを一つ、あとはトムコリンズを」
王都四番街の裏通りにひっそりと佇むカールトン・ビルディング。その地下に位置する名も無き酒場は通称『道徳の聖堂』と呼ばれていた。ここはいわば会員制のバーであり、政治家や官僚、起業家や投資家、著名な芸能人や芸術家、そして貴族の子息に連れられた王立大学の大学生たちまで、中流ら上流階級に位置する様々な人間が出入りする、サロンを模した酒場なのである。
俺とリリアンは、グラスを傾け乾杯の合図を告げた。恐らく俺たちはこの酒場で最年少の部類に入るだろうが、辺りを見回せば歳の近い学生たちも優雅にアルコールを楽しんでいる。ここには巷で見られるカクテルパーティーの様相も無く、金持ち学生による不躾なナンパも、フットボール選手たちの粗野なダル絡みも存在しない。若き青年文士は著名な芸術家諸氏と文学論を交え、その隣席では革新官僚と老活動家が論戦を繰り広げる。
こう語るといかにも文化的な、そして上品なサロンの風景を思い浮かべるだろうが、その内実は大いに異なるものであると忠告せねばならない。たった今俺の隣に腰掛けた男はインサイダー取引に手を染める成金の投資家であり、そのまた隣に座る男は賭博師なのである。賭博師の男は二年前、世間を賑わせたフットボール全国大会の決勝戦において、選手七名を買収し八百長試合を仕掛けた張本人でもあった。
「やあニック。君がここにいるということは、何か面白い情報を掴んだと見ていいね?」
投資家の男が下卑た笑みを浮かべてそう尋ねてきた。彼の名はアレサンドロ・ヴィスコンティ。大陸南部に位置するサルデーニャ王国の出身であり、大金を求めてここユトダインの地に足を踏み入れたという。俺はこの男を心底軽蔑しているのだが、彼の人脈と情報網は大きな武器となる為、無理をしてでも彼との関係を築いていた。
「ユトダイン政府はヘルト帝国との友好関係を強化する。選挙後、近いうち政府声明が出るだろう」
「なるほど。リトラス紛争の影響で暴落してるけど、ヘルト関連企業株は買いってところかな?」
「勝手にしろ。それより経済界の動向はどうだ?」
「ちょうど、君の興味を引くような情報を掴んだところだよ。……近頃何やら軍需産業の動向が慌ただしい。僕が知る限りでは、ノースロップ社が極秘裏に新型戦闘機の開発を始めたってところだ。試作段階が完了すれば、即座に増産体制へ入るらしい」
ノースロップ社とはユトダイン王国の航空機メーカーであり、軍用機から民間旅客機まで王国の航空機開発を一手に引き受ける会社であった。しかし我が国は航空機の分野で他国に後れを取っており、軍の航空隊も未だ旧式の複葉機を配備しているといった始末なのであった。この現状を打開するべく、ノースロップは新型戦闘機の開発に着手したのであろう。
しかし戦闘機の開発ならまだしも、既に増産まで視野に入れているとは。恐らくランカスター周りの政治家、若しくは軍関係者が指示を飛ばしたのだろうか。いや、軍人だろうが政治家だろうが、どちらでも変わりはない。もはやランカスターの選挙戦勝利は確実であり、軍も政界も彼を中心とした国家運営を見越して行動を始めているのだろう。やはりランカスターは、本気で戦争準備を整えようとしているのだ。
「なるほど、いよいよキナ臭くなってきたな……」
俺はグラスの酒を一気に飲み干した。リリアンはそんな俺たちの様子を横目で見ながら、ちまちまとグラスに手を添え、カクテルを飲み進めている。
すると突然、背後で大きな衝撃音が響き渡った。驚いて振り返ると、ズートスーツを身に纏ったギャング風の中年男が拳を握りしめ、盛大に倒れ込んだ学生相手に何やら怒声を浴びせ掛けている。
「ハハハ、道徳の聖堂とは良く言ったもんだね。ここに出入りしていると、表通りのバカ騒ぎが可愛く見えてくるよ……」
ヴィスコンティが苦笑いを浮かべながらそう呟いた。裏社会を上手く渡り歩いてる彼であるが、正直年齢はそこらの学生と変わらないようにも見える。年端もいかぬ若造が、よくもまあこんな世界で生きていけるものだ。華やかな繁華街で肩を怒らす不良学生も、ガラの悪いチンピラの恫喝もここには存在しない。より危険で、より入り組んだ社会の闇が、ここには蔓延っているのである。
「そろそろ世話見切れねえからなあ……」
ギャング風の男はそう言って、泣きべそをかく学生の首根っこを掴み上げ、引きずるようにして店外へと出て行った。慌てて後を追う連れの学生達。その表情は青ざめ、計り知れない恐怖に怯え切っている。
ひと時の静寂に包まれた店内であったが、客はすぐさま興味を失ったように向き直り、中断された会話を再開した。こうした出来事はさほど珍しくない。ギャング絡みの悪徳商売に手を染めた若者が、利益をちょろまかして詰められる、大方そんなところであろう。
「お二人さん、確か占いで儲けてるんだって? 他の事業に興味は無いかな?」
ヴィスコンティの奥に座る賭博師の男が俺たちに声を掛けてきた。この手の勧誘は幾度となく聞いて来た為、今や慣れたものである。どうせロクな話では無いだろう。
「あいにく間に合ってるんでね。他を当たってくれ」
そう言って俺は財布を取り出し、カウンターテーブルに料金を置いて席を立った。のんびりとグラスの酒を飲んでいたリリアンもいそいそと立ち上がり、俺の後について地上へ出る。
「ちょっと、まだ飲んでたのに」
「あの賭博師に絡まれると厄介なんだよ……」
「まあ、確かに。今日はゆっくりできると思ったんだけどなー」
リリアンが不満げな表情を見せる。俺たちは情報を集めるために道徳の聖堂を訪れるのだが、いつも必ず顔見知りと出会えるわけではない。特に客の少ない時などは、二人でのんびり会話でもするのだが……。
「いやあ、これも仕事みたいなもんだから」
そう答えながらも、俺は彼女の態度に少しばかり動揺させられていた。俺と二人の時間をそんなに楽しみにしているのだろうか。この半年で彼女との距離は随分と縮まったものだが、同時に緊張させられる機会も増えたのである。特に二人で話している時など、彼女はいつにも増して楽しそうに振舞ってくれるようになったのだが。そんなとき俺は、どう振舞っていいか分からなくなることがあるのだ。
表通りは相変わらずの賑わいを見せており、煌々と輝くネオンサインが夜闇を照らし上げる。車道を走るタクシーを眺めながら、俺はなんとなしにこう呟くのであった。
「なんだか今日は、歩きたい気分だな……」
「奇遇ね、あたしもそう思ってた。ドラッグストアでも寄ってから、のんびり歩きましょ?」




