信頼
診療室に他の人間はいなかった。現実世界に戻ってきた実感は、音の存在。空気感も異なるように思える。そして何より、目の前のアナスタシアが戻っているのだ。陽光に淡く煌めく金髪に、可憐で瑞々しく、そしてどこか物悲し気な表情。
「……え? え?」
見る見るうちに彼女の頬が紅潮してゆく。胸元の肌けたドレス、俺の上にまたがり、見下ろすような格好で座り込むアナスタシア。
(ああああいつ、マジで!)
精霊とアナスタシアの身体は連動していたのだ。ヤバいぞ。いや色んな意味でヤバいのだが、何よりこの状況を彼女に詰められたら、どう言い訳していいか分からない。
しかし俺より彼女の方がとてつもない混乱ぶりを見せていた。言語にならない言語を発しながら、慌ててベッドの脇に降り立つアナスタシア。乱れた手つきででボタンを留め直そうとするが、動揺しているのか中々上手く留められないでいる。
「あ、あの! ごめんなさい! なんか、ぼーっとしてたのだけど……」
必死に謝りながらも、何とかボタンを戻せたようである。彼女は両手で顔を覆い隠し、泣き出しそうな呻きを上げ、その場でしゃがみ込む。
「あの、アナスタシア……。俺は……」
「ごめんなさい! 何やってるんだろう、私……。ごめんなさい……」
ひたすらに謝るアナスタシア。どうやら彼女は俺に疑いを抱いていないようだ。俺が目覚める前の状況は分からない。しかしこれなら、何とかはぐらかすことができるかも。
「えーっと。俺、寝てたのか?」
「……」
時計の針は18時を示している。リリアンとの決闘が15時のことであるから、俺は3時間もの間眠りこけていたのか。
「もしかして、ずっといてくれた、とか……」
「……はいぃ」
可愛い! 俺は思わず叫び出しそうになっていた。何だ、何なんだ、何なんだこの状況は!
俺は幸せ者か……。
「あら、楽しそうにしてるじゃないニック。あたしにブチのめされた傷はもう良いのかしら?」
幸福に満ちた空間を切り裂いたのは、他でもないリリアンである。冷めた視線を投げかける彼女に、俺は思わずため息を吐いてしまった。
「随分と残念そうじゃない。あんたね、その子人妻なのよ? それに自分の立場わきまえてるんでしょうね?」
「人妻ってお前……。その言い方もどうかと思うぜ」
「で、調子はどう? 」
「えっ? 調子って……」
そういえば、リリアンに食らった腹の傷が塞がっている。痛みもないし、むしろ戦闘前より気力が回復しているような気もする。
「リリアン、てっきり戻っているかと思ったわ」
「そんなわけないでしょう、あんたを一人置いて戻るなんて。この男が変な気でも起こしたら……」
またも顔を真っ赤にして俯くアナスタシア。
おい、その反応はやめてくれ。あらぬ誤解を……。
「ニック……。あんたまさか……」
「違う! マジで違う!」
まさに修羅場である。いっそのこと、このまま過去に戻った方がマシなのではないか。
「ま、下らない話はこのへんのして。あんた本当に回復してる?」
「あ、ああ。問題ないような気がするけど……」
念のため、俺はベッドから降り立ち、軽く手足を動かしてみる。
全快である。浅い傷では無かったはずだが、今やすっかり痛みも感じない。とても数時間で治る傷では無いだろう。もしや、あの精霊が……。
「良かった、大丈夫そうね」
リリアンの表情が和らいだ。初めて見る彼女の表情である。最初の出会いからこれまで、彼女は険しい表情しか見せてこなかったものだから。
「心配してくれてたのか」
「はあ? 勘違いしないでほしいわね。うちの医療担当がヘマしてないか心配だっただけ……」
「医療担当?」
「今は外してるわ、後で礼を言っておくことね。それと……」
何やら言い淀むリリアン。
「それと……、あんたの戦闘力は認める。あれが実戦だったら、もしかするかもね」
そう言って、彼女は診療室の扉へ向かって歩き出した。俺はそんな彼女を呼び止めるように口を開く。
「いいや、完敗だ! 悔しいけど、君が味方でよかった」
一瞬、リリアンが立ち止まる。彼女はこちらを振り返らず、ぼそりと一言呟いた。
「ま、これからも頼むわよ」




