アナスタシア
アナスタシア王太子妃を目の前に、リリアンは華麗な所作で挨拶をしてみせた。
「アナスタシア様、申し訳ございません。新人の部下が勝手を知らぬもので……。教育を施していた次第に御座います」
すると王太子妃は口元を手で隠した。彼女から、微かな笑い声が零れ落ちる。
「フフ、リリアンったら。いつも通りでいいのに」
「しかし、この男が私の真似でもしたら」
「いいのよ。彼は命の恩人ですもの」
そう言って彼女は俺を見た。澄んだブルーの瞳に見つめられ、心臓の鼓動が加速する。俺は何か言おうとしたが、思わず息が詰まってしまった。
「ニックさん。先日は本当に、どうお礼を申し上げたら良いか……」
深々と頭を下げるアナスタシア。俺はどうしたらいいか分からず、あたふたと戸惑うばかりである。先ほどから焦りと緊張で、顔が暑くて仕方がない。
「もう、少しはお姫様らしく振舞ってよ! この男を付けあがらせちゃダメよ!」
リリアンが咎めるように言い聞かせる。そこにあるのは敬意というより、親しみと言ったところだろうか。どうやら二人の関係は、王族と衛兵という立場をはるかに飛び越えたものであるらしい。
「まあ、アナスタシアを救ってくれたことに関しては感謝してるわ。あたしは気付けなかった。情けない……」
リリアンは表情を曇らせた。側近衛兵として、やはり責任を感じる部分があるのだろう。しかし俺も能力が無ければ見過ごしていたはずである。今こうして目の前で王太子妃が生きているのは、全て契約のおかげなのだ。
気に病むリリアンにそう声を掛けてあげたかった。だがやはり、能力の存在を打ち明けるのは躊躇われる。この件に関しては何も語らず、俺はただ黙ってリリアンの様子を伺っていた。
しかし、俺に向かって頭を下げ続けるアナスタシア王太子妃は問題である。こんな姿を誰かに見られたら終わりだ。一体どう思われるか分かったものじゃない。
「あ、あの、王太子妃殿下。とりあえず頭を上げてください。そんな畏れ多い……」
俺の必死の訴えに、彼女はようやく姿勢を戻してくれた。そして控えめな様子で、
「あの、良かったらお部屋で話しませんか? 立ち話も何ですから……」
と持ち掛ける。その提案にリリアンも大きく頷いた。
「ええ。もともとこの男をアナスタシアの部屋に案内するつもりだったのよ。色々話さなきゃいけないこともあるし」
「分かったわ。それじゃあニックさん、ご一緒に」
ほんの僅かに会話を交わした程度であるが、アナスタシア王太子妃の印象は、俺の想像とはまるで異なるものであった。雲の上の存在で、俺たち庶民とは遠くかけ離れたお人だと思っていたのだが。話してみると案外普通で、言うなれば同級生の女の子のように感じるのだ。そして、その親しみやすさが益々俺を動揺させるのであった。先ほどから動悸が止まらない。彼女の後ろ姿を見るだけで、これまで感じたことの無い緊張に包まれるのである。




