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 彼女との結婚が決まった時、私は大いに苦しんだ。と同時に、私は大いに安堵した。なぜなら私には恋人がいて、然もその恋人とのすれ違いが顕著に現れ始めていたころに、彼女との縁談が舞い込んできたからである。


 彼女と初めて出会ったのは二十歳の年であった。その時彼女はまだ十四歳の少女で、少し緊張気味に、頬を赤らめながら俯いていたのを覚えている。私はそんな彼女を楽しませようと、得意の芸を披露してみせた。それはコインを用いた簡単な手品であったが、次第に彼女は心を開き、真剣なまなざしで仕掛けを看破しようと見詰めてくるものだから、私は少し悪いような気がして、食事のあとで種を明かしてやったのだ。すると彼女は瞳を輝かせながら私の手元をみつめ、まるで天使のような笑顔を浮かべながら、もう一度やってくれとせがむのであった。


 それから二年後に再会したとき、私は彼女のあまりの美しさにめまいを覚えていた。ヘルト流の所作を身に着け、優雅な足取りで歩み寄る彼女の姿に、これまで感じたことのない異様な緊張感を抱かされたのである。


 そして瞬く間に結婚の日取りが申し合わされ、彼女は私の妻となることが決まったのだ。私の心は完全に支配されていた。今すぐにでも愛の言葉を囁きたいと胸を焦がし、毎日のように手紙をしたためては破り捨て、幾夜もの眠れぬ夜を過ごしてきた。そして結婚式の前夜、ようやくその願いが叶うと私は胸を躍らせた。やがて待ち望んだその時が訪れた。神の御前で誓いを交わし、私は彼女のベールに手をかけ、白く透き通った美しい頬に手を触れた。そして、私は指先に、彼女の濡れた肌の感触を感じ取るのであった。


 その涙は歓喜の涙でも、両親を思う感傷の涙でも無かった。彼女の表情は戸惑いと悲壮に溢れていた。私は瞬時に理解した。そして私はキスをするふりをして、こちらを呆然と見詰める彼女の、潤んだブルーの鮮やかな瞳を、ただ静かに見つめ返すことしかできなかった。





 「ジェームス。そろそろ子は出来ぬのか? この際男女は問わぬ。……これでは、何のためにヘルト皇女を迎え入れたのか。まさか皇女は不妊症、なんてことはあるまいな?」


 「父上、それはあまりに礼を失した発言です。彼女が不妊であろうとなかろうと……。今後二度と私の前で、そのような言葉を語ることのないように」


 生まれて初めて反抗の意志を見せた長男に対し、父は少し驚きながらも、すぐさま元の険しい表情に戻る。それでも私の苛立ちに多少は配慮する様子で、言葉を濁しながらこう語るのであった。


 「……そうだな、アナスタシアはまだ十六歳。イザベルがお前を産んだのも、二十二の頃だったか。……しかしだな、お前の母は私と結婚してから半年で身籠ったのだから」


 それ以上父の言葉を聞きたくなかったので、私は無言で席を立ち、国王の執務室を後にした。王宮の侍女たちや、宮殿の使用人共があらぬ噂を立てていることぐらい、私も知っている。ジェームス王太子はダンバース家の娘、マーガレット・ダンバースへの未練を捨てられていないのだと……。





 「それはあなたのお父様が勝手に決めたこと。貴方と私は永遠の愛を誓ったの。私は一生貴方を愛するわ。ねえジェームス、貴方も……そうでしょ……?」


 どうして……どうしてその言葉を、今更になって私にぶつけてくるのだ。……本気の愛だった。本気で愛していたんだ。でも君は、もう、私を愛せないと……口癖のようにそう語っていたじゃないか……。


 「僕たちは上手くいってなかった。勿論愛していたさ。でも、僕は君の望む通りの男じゃなかったんだよ。君も良く分かってるだろう?」


 「……そんな……だってこの間だって……貴方は愛してるって……そう私に言ってくれたじゃない?」


 「でも君は、うんざりしていた。もう私たちは終わりだと」


 「そんなの本心じゃない。確かにここ最近は喧嘩することも多かった。貴方につらく当たってしまっていたかもしれない。……でもそれは、あなたがいつも許してくれるから……それでも愛してるって、言ってくれるから。……私……信じてた」


 もうどうしたらいいか分からない。君を愛していた、嘘じゃない。でも限界だった。君に否定されるのが辛かった。耐えられなかった。そんなある日、父からアナスタシアとの縁談を告げられた時、私の荒んだ胸の内に、彼女の、あの屈託のない笑顔が浮かんできたのだ……。


 全部、私が悪いのだ。





 「今日も勉強かい? あまり無理はしないでね。少しずつ慣れていけばいいから」


 ユトダイン式の教育を受ける彼女に対して、私はいつものように励ましの声を掛ける。ヘルト皇室から一人嫁いできた彼女に、心から気を許せる家族や友人など存在しないのだ。そんな彼女の良き友人になってくれればと願い、私は王室衛兵隊長に掛け合って、彼女と同世代のリリアン・フレッチャーを側近に任命させた。加えて母上の執事を務めていたロイド・キングストンを、無理を言って母から引き剥がし、アナスタシアの執事に配置させた。彼女の周りには、強く、心優しい従者が必要だ。十六歳という若さで、彼女は異国の王室に一人でやって来た。家族も友達もいない環境下に閉じこめられ……好きでもない男と結婚させられ、孤独の中で一人戦っているのだ。


 (消えたコインはどこにいったの? もしかして魔法使い?)


 私はあの時から、彼女の笑顔に支配されていたのだろうか。私だけに向けてくれた、あの無邪気であどけない、苦しくなるぐらいの輝きを放つ彼女の笑顔に……。


 「大丈夫よジェームス。それより、いつもごめんなさい……その……」


 「いや! 何を謝ってるんだ。やっぱり勉強のしすぎで疲れてるんだな?」


 今、彼女が私に向ける表情は、いつもと変わらぬ罪悪感に満ちた複雑な微笑みなのである。……笑って欲しい……心から笑いかけて欲しい。出来ることなら、お互いに愛の言葉を交わし合い、同じベッドで彼女を抱いて眠りたい。手を伸ばせばすぐそこに……彼女に触れることだって……出来るのだ……。彼女は私の妻である。今この瞬間、私が望めば、きっと彼女は私に寄り添って……。


 「……そういえば、近々新しい側近が君に着くことになったよ。ほら、王室衛兵の着任式で君を助けてくれた」


 「え? そうなの? それは嬉しいわ。あのお方にはちゃんと、直接会ってお礼しなきゃって思ってたの。確かお名前は……」


 「ニック・ロビンソン。君と同い年か、いや、一つ下だったかな? ともかく同年代みたいだし、仲良くできるといいね」


 「ええ、そうね。……あの……ジェームス……これからしばらく、王宮に行くのよね?」


 躊躇いがちにこちらを見るアナスタシア。本当は、彼女のこんな顔なんて見たくないのだ。きっと彼女は責任感を感じている。


 私はこれから、先週発生したアナスタシア暗殺未遂事件の件で王宮へと向かう。しばらくは戻ってこれないだろう。恐らくそれで、彼女は自分のせいで私に迷惑をかけているのだと思い悩んでいるのだ。全くそんなことは無いというのに。むしろ今の彼女こそ心のケアが必要なのだ。見知らぬ暗殺者に命を狙われる恐怖は想像を絶するものだろう。本当は私が傍にいてあげて、彼女を守ってあげられたら、どんなに良かったことか……。


 「それじゃ、行ってくるよ」

 




 近頃彼女は上の空だ。サリムから戻って以来、彼女の心はここに無い。何となく分かる。彼女は、ニックを思っている……。


 (ニック・ロビンソンの師となってほしい。それが巡り巡って、殿下の為にもなるやもしれぬ)


 尋問室長のホールデンは、意味深な台詞を最後に帰らぬ人となった。ホールデンは腹の底の読めぬ男であったが、同時に良き友でもあった。彼は愛を知る男であった。私には無いものを、いや、私が掬い損なったものを持っている男であった。


 やがてニックが再び私の前に姿をあらわし、アナスタシアのそばで再び働き始めた時、私は自身の胸の内に湧き上がる感情に吐き気をもよおした。それは紛れもない嫉妬の感情であった。


 私は久方ぶりに彼女の笑顔を見たのである。あの時、彼女が私だけに見せてくれた、あの無邪気な笑顔を再び見ることが出来たのである。しかしそれは、私に向けられたものでは無かった。彼女の笑顔はニックに向けられたものだった。


 ……いや、きっと、これで良かったのだ。私では彼女を幸せにすることが出来なかったのだ。


 愛に生きたい。愛したい。愛されたい。だから私は、彼女に愛を強制するような真似など、決して出来ないのである。

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