第3話「一緒にサボっちゃおう?」
「ねえ、結飛。次の授業――私と一緒にサボらない?」
次の授業の準備をしていた俺の耳元で、そんな声が囁かれた。
「……は?」
思わず手を止めて隣を見る。
そこには、机に頬杖をつきながら楽しそうに俺を見つめる莉夢の姿があった。
「今、なんて言った?」
「だから、次の授業をサボらない?って言ったの」
聞き間違いではなかったらしい。
「嫌だよ」
「即答!?」
莉夢の余裕たっぷりだった表情が、一瞬で崩れた。
「なんでよ! 少しくらい悩みなさいよ!」
「授業サボろうって言われて何を悩むんだよ」
「もう! 結飛って本当に真面目なんだから!」
不満そうに頬を膨らませる莉夢を無視して、机の中から教科書を取り出す。
「ねえ、いいじゃない。一回くらい」
「よくない」
「……」
莉夢はしばらく考え込むように黙り込んだ。
これでようやく諦めたか、そう思ったのも束の間――。
「ふふっ……でも残念だったわね、結飛。今度こそ、私は間違ってないんだから」
「……何の話だよ」
「この前は寄り道が悪いことだと思ってたけど、あれは普通だったわ」
「まあ、そうだな」
「でも――」
莉夢がびしっと俺を指差す。
「授業をサボるのは、間違いなく悪いことでしょ!」
「なんでそんな自信満々なんだよ」
「つまり! 今度こそ、あなたを堕落させるチャンスってことよ!」
俺の言葉など聞かず、莉夢は得意げに胸を張った。
確かに、授業をサボるのは褒められたことじゃない。
前回の寄り道に比べれば、こいつなりに考えたらしい。
……だからといって、付き合うつもりはないけどな。
「それに、ちゃんと場所も見つけてあるのよ」
「場所?」
「そう。特別棟に今は使われてない教室があるの。あそこなら授業中は誰も来ないでしょ?」
こいつ、そんなところまで調べたのか。
その行動力を、もっと別のことに使えばいいのに。
「そこで二人きりで、授業をサボるのよ」
「行かない」
「……え?」
「だから、行かないって」
莉夢がきょとんとした顔で俺を見つめる。
「……もしかして結飛、私と二人きりになるのが怖いの?」
莉夢は意味ありげな笑みを浮かべると、顔を覗き込んできた。
「誰も来ない教室で、私と二人きり。何をされるか分からないものね?」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ、一緒に来る?」
「行かない」
「もう! せっかく私が誘ってあげてるのに!」
「授業サボる誘いで恩着せがましくするなよ」
「いいわよ! だったら私一人で行くから!」
莉夢はむっとした様子で頬を膨らませた。
「後から来たいって言っても知らないんだから!」
そう言い残すと、莉夢はそのまま教室を出ていってしまった。
あいつ、本当にサボるつもりなのか?
まあ、いいか。
莉夢が授業をサボろうが、俺には関係ない。
そう思いながら、次の授業の教科書を開く。
「……」
――いや。
転校早々教師に目をつけられて、隣の席の俺まで巻き込まれたら面倒だ。
「……はぁ」
小さくため息をつく。
結局、開いたばかりの教科書を閉じて席を立った。
◇ ◇ ◇
特別棟へ向かい、人気のない廊下を歩いていく。
使われていない教室、としか聞いていなかったが、廊下の奥に一つだけ扉の開いた教室があった。
「……ここか?」
近づいて中を覗くと、案の定、莉夢がいた。
窓際の席に腰掛け、頬杖をつきながらぼんやりと外を眺めている。
「やっぱりここにいたのか」
扉を開けて声をかけると、莉夢がこちらを振り返った。
「結飛!」
ぱっと表情を明るくしたかと思えば、すぐに得意げな笑みを浮かべ、足を組んだ。
「ふふっ。やっぱり来たわね♪」
「お前を連れ戻しに来たんだよ」
「またまた。私と一緒に授業をサボりたくなったんでしょ?」
「違う」
「素直じゃないんだから」
莉夢は上機嫌で笑っている。
……まあ、さっきまでの姿を見る限り、とてもそうは思えないけどな。
「それで、ここに来てからずっと外眺めてたのか?」
「……え?」
そう尋ねると、莉夢の笑みがぴたりと止まった。
「まさか、サボった後のこと何も考えてなかったのか?」
「そ、そんなわけないでしょ!」
莉夢は慌てたように立ち上がる。
「じゃあ何するつもりだったんだよ」
「それは……」
さっきまでの余裕はどこへやら。
莉夢の瞳が、俺から逃げるようにあちこちを彷徨う。
「……授業をサボってから、何をすればいいのか考えてたのよ」
「何も考えてなかったんじゃないか」
「う、うるさいわね! サボることしか考えてなかったんだから仕方ないでしょ!」
「開き直るなよ」
思わずため息が漏れる。
やっぱりこいつは、肝心なところでどこか抜けている。
「ほら、分かったら教室に戻るぞ」
「えー」
「えー、じゃない。もうすぐ授業始まるだろ」
俺がそう言って教室の出口へ向かおうとした、その時だった。
――キーンコーンカーンコーン。
校内に、授業の始まりを告げるチャイムが鳴り響く。
「……」
「……」
思わず足を止め、莉夢の方を振り返る。
一瞬きょとんとしていた莉夢だったが、やがてその口元がにやりと持ち上がった。
「ふふっ……」
「……なんだよ」
「結飛も授業、サボっちゃったわね」
「誰のせいだと思ってるんだ」
「理由なんて関係ないわ!」
莉夢は嬉しそうに立ち上がると、びしっと俺を指差した。
「授業が始まったのに教室にいない。つまり今の結飛は、立派なサボりよ!」
「立派なサボりってなんだよ」
「ふふっ。やったわ! これで結飛も、堕落への第一歩を――」
「踏み出してない」
「なんでよ!?」
「今から戻ればいいだろ」
そう言って再び出口へ向かおうとすると、制服の裾をぐいっと引っ張られた。
振り返れば、莉夢が俺を逃がすまいとするように掴んでいる。
「せっかくここまで来たんだから、最後までサボりましょうよ!」
「お前な……」
「それに、一人じゃつまらないし……」
「ん?」
「な、なんでもないわよ!」
莉夢は慌てて俺から顔を逸らした。
その時だった。
――コツ、コツ。
「……ん?」
廊下から、誰かの足音が聞こえてきた。
規則正しいその音は、少しずつこちらへ近づいている。
「誰か来るな」
「えっ!?」
さっきまで上機嫌だった莉夢の表情が、一瞬にして固まる。
「ど、どうするのよ!」
「どうするって……」
「先生だったら見つかっちゃうじゃない!」
「そりゃ、授業中だからな」
「そんな冷静に言ってる場合!?」
慌てて辺りを見回していた莉夢の視線が、教室の隅に置かれた掃除用具入れで止まる。
「結飛、隠れるわよ!」
「いや、二人は無理だろ」
「見つかるよりマシよ! 早く!」
俺の腕を掴むと、莉夢はそのまま掃除用具入れへと駆け寄る。
その間にも、足音はどんどん近づいてきていた。
仕方なく、俺も莉夢に続いて中へ身体を滑り込ませた。
「ちょ、結飛……近い!」
「お前が入れって言ったんだろ!」
なんとか二人分の身体を押し込み、扉を閉める。
途端に視界が暗くなった。
狭い掃除用具入れの中では、身体を動かすことすらできない。
「……」
「……」
近い。
暗がりの中でも、莉夢の顔がはっきりと分かるほどに。
――ガラッ。
教室の扉が開く音がした。
「……っ!」
莉夢の身体がびくりと跳ね、ぎゅっと俺の制服を掴んだ。
――ガタッ。
教室の中で、何かが動く音がした。
俺の制服を掴む莉夢の手に、さらに力がこもる。
息を潜め、扉の向こうの気配に耳を澄ませる。
――コツ、コツ。
再び、教室の中に足音が響く。
そのたびに、莉夢の身体が僅かに強張る。
そんなに怖いなら、最初からサボろうとするなよ。
そう言ってやりたいが、今は声を出すわけにもいかない。
やがて足音が、こちらへ近づいてきた。
「……っ」
莉夢は俺の制服を掴んだまま、さらに胸元へ身を寄せてきた。
近い。
いや、さっきから十分近かったが、今はそれ以上だ。
柔らかな感触とともに、莉夢の髪が頬に触れる。
さすがに意識するなという方が無理がある。
そんな俺の様子に気づいたのか、莉夢が顔を上げた。
暗がりの中で目が合う。
すると、莉夢はいつもの悪戯っぽい笑みを浮かべ、俺の耳元で囁いた。
「……もしかして結飛、ドキドキしてる?」
「……」
「こんなに私とくっついてるんだもの。仕方ないわよね?」
その時だった。
不意に、手首へ何かが触れた。
「……?」
柔らかな感触が、するり、するりと腕を這い上がってくる。
……なんだ?
やがて、その感触が首筋をくすぐった。
「……っ」
思わず肩が跳ねる。
視線だけを向けると、首元をくすぐっていたのは莉夢の尻尾だった。
「……お前」
「ふふっ♪」
勝ち誇ったように笑う莉夢。
俺はそんな莉夢をしばらく見つめ、ふと密着した身体から伝わってくるものに気づいた。
「お前、心臓うるさいぞ」
「……え?」
「さっきからすごいぞ」
「ち、違うわよ!」
「何が?」
「これは、その……見つかるかもしれないからで……!」
「声、大きいぞ」
「――っ!」
莉夢は慌てて両手で口を押さえた。
――コツ。
掃除用具入れのすぐ近くで、足音が止まった。
「…………!」
莉夢の顔から、先ほどまでの余裕が一瞬にして消える。
俺たちは互いに身体を寄せ合ったまま、息を潜める。
「……声が聞こえた気がしたんだけど」
聞き覚えのある声だった。
生活指導の佐々木先生の声だ。
「……気のせいかしら」
――コツ、コツ。
やがて足音は遠ざかっていった。
莉夢はまだ俺の制服を掴んだまま、じっと扉の向こうに耳を澄ませていた。
そして、ガラガラ、と教室の扉が開き、続いて閉まる音が響いた。
「……」
それでも念のため、しばらく待つ。
もう足音は聞こえない。
「……大丈夫そうだな」
そう囁いて、掃除用具入れの扉をゆっくりと開ける。
久しぶりに明るい教室へ出ると、俺はようやく窮屈な身体を伸ばした。
その隣で莉夢も掃除用具入れから出てくる。
そして、その場にぺたんと座り込んだ。
「……怖かったぁ」
さっきまで俺をからかっていた小悪魔の面影はどこへやら。
莉夢はすっかり力が抜けた様子で、大きく息を吐いている。
「お前な。これに懲りたら、もう授業をサボろうなんて言うなよ」
莉夢は床に座り込んだまま、しばらく黙っていた。
さすがに今回は反省したかと思ったのだが――。
「でも」
「ん?」
莉夢の口元には、いつの間にかいつもの悪戯っぽい笑みが戻っていた。
「結飛をドキドキさせることには成功したわ♪」
「……」
「ふふっ。やっぱり私の誘惑には勝てなかったみたいね?」
ついさっきまで俺の制服を掴んで震えていた奴の台詞とは思えない。
「お前の方がドキドキしてただろ」
「だ、だからあれは見つかりそうだったからよ!」
「はいはい」
「ちょっと! その反応なによ!」
再び騒ぎ始めた莉夢を横目に、俺はため息をついた。
どうやら、これくらいでは懲りないらしい。
「とにかく、教室に戻るぞ」
「えっ、もう戻るの?」
「当たり前だろ。これ以上サボる理由もないし」
そう言って、教室の出口へと歩き出す。
その後を、莉夢が慌てて追いかけてきた。
「でも、結飛も少しくらい楽しかったでしょ?」
「どこがだよ」
「ふふっ、素直じゃないんだから♪」
隣に並んだ莉夢は、どこか満足そうに笑っている。
結局、授業をサボったくらいで、俺が堕落したとは到底思えない。
ただ、いつもと違う時間を、少しだけ楽しいと思ってしまったことは。
莉夢には、絶対に言わないでおこう。




