第2話「本物の小悪魔」
この世に悪魔や天使なんて存在しない。
そう思っていた高校二年の春。
学校からの帰り道。
風はまだ少し冷たく、通りを彩る桜もわずかに花を残している。
夕方の駅前は、学校帰りの学生や仕事を終えた会社員たちで賑わっていた。
そんな人混みの中を歩いていた俺は、いつも通り帰路に着こうとしていた。
「ねえ、そこのあなた」
不意に、背後から声をかけられた。
まさか自分のことだとは思わず、そのまま歩き続ける。
「ちょっと! 無視しないでよ!」
さっきよりも大きな声が背中に飛んでくる。
足を止めて振り返ると、そこに立っていたのは、
淡い銀紫色の髪を長いツインテールにまとめた、見覚えのない少女。
宝石のような赤紫色の瞳が、真っ直ぐ俺を見つめている。
ブラウスに短めのスカートを合わせた私服姿に、日本人離れした髪と瞳の色。
そして整った顔立ちもあって、道行く人が時折彼女へ視線を向けている。
「……何か用?」
そう尋ねると、少女は一瞬きょとんとした後、口元に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ふふっ。ねえ、あなた――今、暇?」
「……まあ」
「だったら、私と遊ばない?」
「……」
目の前の少女を改めて見つめた。
可愛い。
それは間違いない。
こんな子に突然誘われれば、男として嬉しくないわけがない。
ただ――。
「……何よ、その反応」
「怪しい。お前、何かのキャッチじゃないだろうな?」
「きゃっち?」
少女がきょとんと首を傾げる。
「違うのか?」
「し、知らないわよ、そんなの!」
「じゃあ、何の目的で俺に声かけたんだよ」
「それは――あなたを堕落させて、私と契約させるためよ♪」
「……」
堕落?契約?
聞けば聞くほど怪しさが増していく。
「やっぱり怪しい勧誘じゃないか。他をあたってくれ」
「え?」
これ以上付き合っていられない。
踵を返すと、そのまま家へ向かって歩き出した。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
背後から慌てた声が聞こえたかと思った次の瞬間、ぐいっと腕を引っ張られる。
振り返ると、少女が俺の腕に両手でしがみついていた。
「離せよ」
「嫌よ! 話はまだ終わってないんだから!」
「俺の中では終わった」
「終わってないわよ!」
少女も俺の腕から離れようとはせず、必死に踏ん張っている。
「んぎぎぎぎぎ……!」
ずるずると引きずられながら、それでも離れない。
……何やってるんだ、こいつ。
「ちょっと……止まりなさいよぉ……!」
必死な声を上げる少女を無視して歩いていると、ふと周囲からの視線に気がついた。
道行く人たちが、ちらちらとこちらを見ている。
当然だ。
傍から見れば、女の子が必死に引き止めているのに、それを無視して引きずっている男にしか見えない。
非常に居心地が悪い。
「……はぁ。分かったよ。話くらいは聞く」
「ほ、本当!?」
「ただし、こんなところで話すのはやめよう」
こうして名前すら知らない自称小悪魔の話を聞くため、近くのファミレスへ向かうことになった。
◇ ◇ ◇
「それで? 堕落とか契約とか、どういう意味なんだ?」
「なにこれ! 美味しそー!」
「話聞けよ!」
俺の話などそっちのけで、少女はテーブルに広げたメニューを食い入るように見つめていた。
「もう、ちょっとくらい見てもいいじゃない」
「引き留めたのそっちだろうが!」
「分かったわよ。そんなに怒らなくてもいいじゃない。それで、何が聞きたいの?」
「お前が何者なのかとか。なんで俺を呼び止めたのかとか。全部だ」
「ああ、そのことね」
少女はようやく納得したように頷いた。
「その前に、そういえばまだ名前を聞いてなかったわね」
「天野結飛だ」
「私はリムよ」
「リム?」
「そう。よろしくね、結飛♪」
「……なんでいきなり下の名前で呼んでるんだよ」
「いいじゃない、そのくらい」
どうやら俺の意見を聞くつもりはないらしい。
「それで? リム。お前は一体何者なんだ?」
「ふふっ、よくぞ聞いてくれたわね」
そして姿勢を正すと、どこか得意げに胸を張る。
「改めて説明するけど、私は小悪魔。人間界とは別の世界――魔界からやってきたの」
「魔界……」
「そうよ。私が人間界に来たのは、一人前の悪魔になるため」
「悪魔になるため?」
「ええ。そのための試験を受けているのよ」
リムは誇らしげに顎を上げた。
「試験の内容は、人間を誘惑して堕落させ、悪魔との契約を結ばせること」
「……胡散臭せぇな」
「なっ!?」
思わず口から漏れた言葉に、リムが眉を吊り上げる。
「大体、本当に人間じゃないのか?」
「まだ疑ってるの!?」
「そりゃそうだろ。いきなり魔界から来た小悪魔ですって言われて、はいそうですかって信じられるかよ」
「だったら、見せてあげるわよ!」
リムがそう言った次の瞬間だった。
淡い銀紫色の髪の間から、黒い二本の角が姿を現した。
「……は?」
驚く俺をよそに、今度は背中からコウモリを思わせる黒い翼が左右に広がる。
さらに腰からは、細長い尻尾まで伸びてきた。
「ちょ、お前……!」
「ふふん♪ どう? これで信じた?」
「ねえ、あれ……」
不意に、近くの席からそんな声が聞こえてきた。
見ると、何人かの客がこちらをちらちらと見ている。
――まずい。
「しまえ!」
「え?」
「いいから、早くしまえって!」
声を潜めながら、慌ててリムを急かす。
「もう、分かったわよ」
リムが不満そうに頬を膨らませる。
すると、先ほどと同じように一瞬で角が消え、続いて翼と尻尾も跡形もなく姿を消した。
再び、どこからどう見ても普通の女の子に戻っている。
「これで信じた?」
手品にしては、あまりにも一瞬だった。
少なくとも、俺の知っている常識で説明できるものではない。
「……まあ、小悪魔っていうのは信じるよ」
「最初からそう言ってるでしょ!」
リムは不満そうに頬を膨らませる。
「で、その試験相手に、なんで俺を選んだんだ?」
「え?」
「人間を誘惑して契約させるのが試験なんだろ?だったら別に俺じゃなくてもいいじゃないか」
「ああ、そのこと」
リムは納得したように頷くと、俺の顔をじっと見つめてきた。
そして、にっこりと笑う。
「簡単そうだったからよ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……簡単?」
「そうよ。さっきあなたを見かけた時、女の子にも慣れてなさそうだったし」
リムは楽しそうに笑いながら、さらに言葉を続ける。
「私がちょっと誘惑すれば、すぐに落とせそうだなって思ったの」
「……お前、初対面の相手に結構失礼だな」
「でも私、可愛いでしょ?」
「まあ、それは否定しないけど」
「でしょ?」
リムは満足そうに胸を張る。
……なんなんだ、こいつ。
「それで? その契約をすると俺はどうなるんだ?」
「ああ、それはね――」
リムは待ってましたとばかりに口元を緩めた。
「私と契約すれば、あなたの願いを一つだけ叶えてあげるの」
「願いを?」
「そう。お金でも、名誉でも、恋愛でも。あなたが望むものを手に入れられるってわけ」
「……ずいぶん都合のいい話だな」
「もちろん、タダじゃないわよ?」
リムは意味ありげな笑みを浮かべると、俺の顔を覗き込む。
「あなたが死んだ後――その魂は私のものになるの♪」
やっぱりろくでもない話だった。
「つまり、願いを一つ叶えてもらう代わりに、死んだら魂をお前に渡すってことか?」
「そういうこと!」
リムは悪びれる様子もなく、にっこりと笑う。
「安心して。契約したからって、すぐに死ぬわけじゃないわ。あなたがちゃんと寿命を迎えた後の話だから」
「いや、そういう問題じゃないだろ」
「それに、無理やり契約させることもできないの。契約する人間が、その内容を理解したうえで、自分から契約を望まないと成立しないから」
「へえ……」
「だから私は、あなたを誘惑して――魂を差し出してでも叶えたいって思うくらい、欲望に溺れさせないといけないの」
「……それがお前の言う『堕落』ってやつか?」
「そういうこと♪」
なるほど。
ようやくこいつの目的が分かった。
「どう? 契約したくなった?」
リムが期待に満ちた目を向けてくる。
「いや、別に」
「……え?」
「魂を渡してまで叶えたい願いなんて、今のところないし」
「……」
「じゃあ、話も終わったみたいだし帰るわ」
そう言って席を立とうとすると、リムが慌てて身を乗り出した。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
「今度はなんだよ」
「おかしいでしょ! 願いを何でも一つ叶えてあげるって言ってるのよ!?」
「だから、その代わりに魂を取られるんだろ?」
「死んだ後よ!?」
「死んだ後でも嫌だよ」
「なんでよぉ!」
「なんでって……嫌なものは嫌なんだから仕方ないだろ」
「普通、願いを何でも一つ叶えてあげるって言われたら、もっと悩むものでしょ!?」
「知らないよ。だったら他のやつを探せばいいじゃないか」
その言葉を聞いた途端、リムの動きがぴたりと止まった。
「……嫌よ」
「なんでだよ」
「だって、もうあなたに決めたんだもの」
「簡単そうだからって理由で?」
「そ、それはそうだけど……!」
リムは一瞬言葉に詰まる。
だが、すぐに悔しそうに唇を尖らせた。
「それに、簡単に契約できると思って選んだ相手に、こんなあっさり断られて引き下がるなんて……そんなの、小悪魔として格好悪すぎるじゃない!」
「知らねぇよ」
「とにかく、決めたわ!」
リムは勢いよく立ち上がると、びしっと俺を指差した。
「あなたが魂を差し出してでも叶えたい願いを、私が見つけてあげる!」
「は?」
「そして絶対にあなたを堕落させて、私と契約させてみせるんだから!」
「……勘弁してくれ」
どうやら、とんでもなく面倒なやつに目をつけられてしまったらしい。
とはいえ、こいつが俺について知っているのは、せいぜい顔くらいのものだ。
学校も、家も知らない。
この広い街で偶然出会っただけの相手だ。
もう二度と会うこともないだろう。
◇ ◇ ◇
翌朝。
「今日はみんなに転校生を紹介する」
担任のその一言に、教室がざわついた。
こんな時期に転校生とは珍しい。
俺も特に興味があったわけではないが、周囲につられるように教室の前へ視線を向ける。
「入っていいぞ」
担任の声に続いて、教室の扉が開いた。
そして、一人の女子生徒が入ってくる。
淡い銀紫色の長いツインテール。
宝石のような赤紫色の瞳。
「……は?」
思わず、間の抜けた声が漏れた。
昨日、ファミレスで別れたばかりの少女が、うちの学校の制服を着て立っていた。
少女は黒板の前まで歩いていくと、くるりとこちらを振り返る。
「黒羽莉夢です。よろしくお願いします!」
教室中から拍手が起こる。
その中で、莉夢の瞳が俺を見つけた。
そして――にやり、と悪戯っぽく笑った。
嫌な予感しかしない。
「黒羽の席は……天野の隣だな」
「はい♪」
「はぁ!?」
教室中の視線が、一斉に俺へ向けられた。
◇ ◇ ◇
「お前、どういうことだよ!」
休み時間になるなり、隣の席に座った莉夢へ詰め寄った。
「どういうことって?」
「なんでお前が俺の学校に転校してきてるんだよ!」
「だって言ったでしょ? 絶対にあなたと契約してみせるって♪」
「そうじゃなくて、どうやって一日で転校してきたんだよ!」
「そんなの簡単よ」
莉夢は得意げに笑う。
「私たちみたいに試験で人間界に来る小悪魔には、ちゃんと人間として生活するための身分が用意されてるの」
「身分?」
「そうよ。名前とか、住所とか、学校に通うためのものとか」
「……魔界って意外とちゃんとしてるんだな」
「当然でしょ?」
「いや、でも俺の学校に転校してきた理由にはなってないだろ」
「それは――」
莉夢は悪戯っぽく笑うと、俺の顔を覗き込んだ。
「あなたを堕落させるなら、近くにいた方が都合がいいでしょ♪」
「……本当に勘弁してくれ」
そう思った俺の隣で、莉夢だけはこれから始まる学校生活を楽しみにしているように笑っていた。




