第1話「堕落への第一歩」
「ねえ、結飛。今日……私と悪いことしない?」
放課後の教室。
帰り支度をしていた俺の耳元で、甘く弾むような声が囁かれた。
振り向けば、すぐ目の前に整った少女の顔がある。
淡い銀紫色の髪を長いツインテールにまとめ、宝石のような赤紫の瞳を細めながら、黒羽莉夢は楽しそうに俺の顔を覗き込んでいた。
ただでさえ人目を引く容姿なのに、今はその顔がやたらと近い。
「……悪いことってなんだよ」
「あら、気になる?」
莉夢は俺の机に片手をついたまま、くすりと笑う。
その笑みは、相手がどう反応するのか分かっていて、わざと困らせようとしているような――いかにもこいつらしい、悪戯っぽいものだった。
「知りたいなら、教えてあげてもいいけど?」
「いや、まず内容を言えよ」
「もう。結飛って本当に真面目ね」
呆れたように肩をすくめたかと思えば、莉夢はさらに一歩、俺との距離を詰めてくる。
「もしかして……私と二人きりになるの、緊張してる?」
「してない」
「へえ?」
赤紫色の瞳が、俺の顔を覗き込むように細められる。
「じゃあ、どうしてさっきから目を合わせてくれないの?」
「……気のせいだ」
「ふふっ。顔もちょっと赤いけど?」
「それも気のせいだ」
「本当に?」
面白がるような声とともに、莉夢の顔がまた近づく。
あと少し動けば、互いの鼻先が触れてしまいそうな距離だ。
さすがに俺も思わず顔を逸らしてしまう。
「ほら。やっぱり意識してるじゃない」
勝ち誇ったような声が聞こえる。
「……うるさい」
「結飛って、こういうのには弱いんだ?」
「違う」
「じゃあ、もっと近づいても平気?」
「お前な……」
楽しそうに笑う莉夢を横目に、小さく息を吐いた。
まったく。
こういうところだけ見れば、本当に小悪魔みたいな奴だ。
――いや。
みたい、という言い方は正しくないか。
黒羽莉夢。
少し前に俺のクラスへ転校してきた帰国子女。
それが、こいつの表向きの姿だ。
だが、本当の莉夢の頭には黒い角が生え、背中にはコウモリを思わせる黒い翼が大きく広がっている。
そして腰から伸びるのは、先端が鋭く尖った細長い黒い尻尾。
つまり――こいつは性格が小悪魔っぽい、という意味ではなく。
正真正銘、本物の小悪魔なのだ。
そして、俺を堕落させ――どうにかして『契約』とやらを結ばせようとしている。
「で?」
「ん?」
「今日は何をするつもりなんだよ」
そう尋ねると、莉夢は一瞬きょとんとした顔をした。
だが、すぐにその口元に悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「ふふっ。やっぱり気になってるんじゃない♪」
「そういう意味じゃない」
「素直じゃないんだから」
莉夢は俺の言葉など聞く耳を持たず、机に置いていた鞄を手に取った。
「ほら、行くわよ!」
再び楽しそうな笑みを浮かべると、莉夢は俺の腕に自分の腕を絡ませてきた。
腕に柔らかな感触が押し当てられ、思わず身体が強張る。
「ちょっ……おい!」
「いいから、いいから!」
そんな俺の反応など気にも留めず、莉夢はぐいぐいと腕を引っ張っていく。
……本当に、何をするつもりなんだ。
悪魔がわざわざ「悪いこと」と言うくらいだ。
ろくなことじゃない気がする。
◇ ◇ ◇
莉夢に腕を引かれるまま学校を出て、歩くこと十数分。
いったいどこへ連れていかれるのかと警戒していた俺だったが――。
「着いたわ!」
莉夢が満足げに立ち止まる。
その視線の先にあったものを見て、思わず目を瞬いた。
「……ここ?」
「そうよ」
駅前の通りにある、小さなクレープ屋。
店の前には何人かの学生が並んでいて、甘い匂いが辺りに漂っている。
どう見ても、悪魔が人間を堕落させるために連れてくるような場所には見えない。
「ここで何するんだ?」
「決まってるじゃない」
莉夢は得意げに胸を張ると、ビシッと店を指差した。
「寄り道よ!」
「…………」
「学校が終わったら真っ直ぐ家に帰る。それが真面目な学生というものでしょう?」
「いや……」
「でも私たちは今、こうして帰り道に寄り道をしようとしている」
莉夢の顔には、なぜか悪いことを企んでいるかのような笑みが浮かんでいた。
「どう? いけないことをしてるって思うと、ドキドキしてこない?」
「…………」
「ふふっ、これが堕落への第一歩よ、結飛」
「お前もしかして、これが『悪いこと』なのか?」
「そうだけど?」
莉夢が当然のように答える。
しばらくその顔を見つめた。
「……普通だぞ」
「え?」
「放課後に友達と寄り道するくらい、普通の高校生ならやってる」
「……え?」
さっきまで浮かべていた余裕たっぷりの笑みが消えた。
「そ、そんなはずないでしょ!?だって、学校が終わったら真っ直ぐ家に帰らないといけないんじゃ……!」
「小学生かよ」
「しょ、小学生!?」
莉夢の赤紫色の瞳が大きく見開かれる。
どうやらこいつは、本気だったらしい。
人間を堕落させるために魔界からやってきた小悪魔が、放課後の寄り道を『悪いこと』だと思っている。
……本当に大丈夫なのか、こいつ。
「で、でも! せっかく来たんだから食べていくわよ!」
「まあ、それはいいけど」
「じゃあ、私これ」
そう言って莉夢が指差したのは、店先に掲げられたメニューの一つだった。
「……なんで俺に言うんだ?自分で買えよ」
「ねえ、結飛♪」
突然、莉夢の声色が変わった。
嫌な予感がする。
そう思った時には、莉夢は俺のすぐ隣まで近づいていた。
「可愛い女の子に何か買ってあげたいって、思わない?」
「思わない」
「即答!?」
一瞬、莉夢の素が出る。
だが、すぐに気を取り直したのか、俺の肩にそっと身体を寄せてきた。
「買ってくれたら……私、嬉しいんだけどな♪」
そう言って、上目遣いで俺を見つめてくる。
「……」
「ねっ?結飛」
……こいつ。
こういう時だけは、本当に自分の武器をよく分かっている。
「……一個だけだからな」
「やった!」
さっきまでの色っぽい雰囲気はどこへやら。
莉夢はあっさり俺の腕から離れると、嬉しそうにメニューを眺め始めた。
「あっ、結飛! やっぱりこっちにする!」
……もしかして俺、こいつにたかられてるだけなんじゃないだろうか。
◇ ◇ ◇
しばらくして、俺たちは店の近くにあるベンチに腰を下ろしていた。
「ん~っ! 美味しい!」
隣では莉夢が、買ったばかりのクレープを頬張りながら幸せそうに頬を緩めている。
さっきまで俺を堕落させるだのなんだの言っていた小悪魔の姿は、もうどこにもない。
「……お前、普通に楽しんでるだろ」
「え?」
「俺を堕落させるんじゃなかったのか?」
「も、もちろんそのつもりよ! これはその……作戦の一環なんだから!」
「クレープ食べるのが?」
「そうよ!」
どういう作戦なんだよ。
俺が呆れているのも気にせず、莉夢はまた一口クレープを頬張る。
「結飛も食べる?」
「ん?」
不意に、莉夢が食べかけのクレープを俺の前に差し出してきた。
「美味しいわよ?」
「……」
いや、待て。
こいつが今食べているものを俺が食べたら、それって――。
「どうしたの?」
莉夢が不思議そうに首を傾げる。
「いや……」
「いらないの?」
「……食べる」
意識する方がおかしい。
そう自分に言い聞かせながら、差し出されたクレープに顔を近づける。
あと少し、そう思った瞬間――。
「あーげない♪」
「……は?」
莉夢はひょいっとクレープを引っ込めると、そのまま俺が食べようとしていた場所をぱくりと口にした。
「ん~! やっぱり美味しい」
「お前な……!」
「ふふっ」
思わず声を上げる俺を見て、莉夢はしてやったりと言わんばかりに目を細めた。
どうやら最初から、俺にクレープを食べさせるつもりなんてなかったらしい。
まんまと引っかかった俺がよほど面白かったのか、口元に浮かべた笑みをさらに深くする。
「もしかして結飛、私と間接キスするの意識しちゃった?」
「……してない」
「また顔赤くなってるけど?」
「なってない」
「ふ~ん♪」
ニヤニヤとこちらを見つめる莉夢から顔を逸らす。
やっぱりこいつは――。
ポンコツだろうがなんだろうが、こういう時だけは紛れもなく小悪魔だった。
「まあ、今日はこれくらいにしてあげるわ」
「何がだよ」
「決まってるじゃない。あなたを堕落させるのは、まだ始まったばかりなんだから」
莉夢はそう言って、残ったクレープを頬張る。
「覚悟してなさい、結飛。絶対にあなたを堕落させて、私と契約させてあげるんだから♪」
「……その前に、お前が人間界に堕落しそうだけどな」
「なっ!?し、失礼ね!」
頬を膨らませる莉夢を横目にため息をついた。
こうして今日も、俺を堕落させるはずの小悪魔は――。
俺に買わせたクレープを、誰よりも幸せそうに頬張っていた。
■天野 結飛
ごく普通の男子高校生。
現実的で冷静な性格で、突然現れた莉夢のズレた誘惑にもツッコミを入れる日々。
堕落させようと奮闘する莉夢に振り回されながらも、なんだかんだ放っておけない。
■黒羽 莉夢
結飛を堕落させ、契約を結ぶために魔界からやってきた小悪魔。
本人は立派な小悪魔のつもりだが、どこか世間知らずで肝心なところが抜けている。
今日も自信満々に結飛を誘惑するが、その作戦はいつもどこかズレていて……?




