第26話「また明日……」
あれから家に帰っても、莉夢の言葉が頭から離れなかった。
あと一週間。
ベッドに寝転がって天井を眺めながら、何度目になるかも分からないため息をつく。
莉夢と契約すれば、試験には合格できる。
そうすれば、莉夢は魔界に帰らなくて済むのかもしれない。
「……契約、か」
願いを叶える代わりに、死んだ後は魂を莉夢に渡す。
今まで何度も断ってきたことだ。
それは今だって変わらない。
でも、このまま契約しなければ――。
莉夢と過ごせる時間は、もうほとんど残されていない。
「……何か、できないかな」
残された時間で、莉夢と何かできることはないだろうか。
そう考えてみても、すぐには何も浮かばない。
枕元に置いていたスマホを手に取り、特に目的もないまま画面を眺める。
しばらく適当に記事を流し見していると、ふと一枚の写真が目に留まった。
青空を背景にそびえる大きな観覧車。
その下には、色とりどりのアトラクションが並んでいる。
「……遊園地か」
そういえば、莉夢と遊園地には行ったことがない。
画面に映るジェットコースターや、楽しそうに行き交う人たちの写真を眺める。
莉夢なら、こういう場所は好きそうだ。
いろんなものに興味を示して、いつものようにはしゃぐんだろう。
そんな莉夢の姿を思い浮かべると、自然と口元が緩んだ。
だけど、すぐに莉夢の言葉が頭をよぎる。
こんな時間を過ごせるのも、あとわずかなのかもしれない。
「……誘ってみるか」
これが最後になるかもしれない。
そう思うと胸の奥に引っ掛かるものはあったけれど、それでも何もしないまま時間が過ぎていくよりはいい。
少しだけ迷ったあと、莉夢にメッセージを送った。
◇ ◇ ◇
そして迎えた休日。
「わぁ……! すごいじゃない!」
遊園地に入るなり、莉夢は辺りを見回して目を輝かせた。
右を見れば、空高くまでジェットコースターのレールが伸びている。
左には大きく回るアトラクションがあり、そのさらに奥には観覧車も見えている。
「こんなにあるのね。どれから乗ろうかしら」
莉夢はしばらく迷うように園内を眺めていたかと思えば、不意に一つの方向を指差した。
「あっ! 結飛、あれ乗りましょ!」
「もう決まったのかよ」
「いいじゃない。せっかく来たんだから、いっぱい乗らないと損でしょ?」
そう言うなり、莉夢は俺の返事も待たずに歩き出す。
「おい、待てって」
……まあ、こうなるとは思ってたけどな。
莉夢が指差した先では、ジェットコースターが大きな音を立てながら急降下していた。
乗客たちの悲鳴が、ここまで聞こえてくる。
「いきなりあれかよ……」
「いいじゃない! こういうのは最初から派手にいくのよ!」
「元気だな、お前は」
「ほら、早く行くわよ!」
莉夢は俺の腕を掴むと、そのまま乗り場へ向かっていく。
結局、俺に選択権はないらしい。
しばらく列に並んだあと、俺たちはジェットコースターに乗り込んだ。
ゆっくりと車体が上昇していき、地上がどんどん遠ざかっていく。
「おい莉夢、本当に平気なのか?」
「何言ってるのよ。このくらい余裕に決まってるでしょ?」
莉夢が得意げに笑った直後――車体が一気に急降下した。
「きゃああああっ!」
隣から響いてきたのは、恐怖というより楽しさに満ちた声だった。
落ちて、曲がって、また上昇する。
そのたびに莉夢は声を上げ、終始笑いっぱなしだった。
……こいつ、本当にこういうの好きなんだな。
やがてジェットコースターが乗り場へ戻ると、莉夢はすぐに立ち上がった。
「楽しかったわね! 次行きましょ!」
「もう行くのかよ。ちょっとくらい休ませろって」
「まだ一つしか乗ってないじゃない」
そう言いながら莉夢が次に目をつけたのは、色とりどりのカップがくるくると回るアトラクションだった。
「次はあれね!」
「……嫌な予感しかしないんだけど」
そして、その予感は見事に的中した。
「ちょ、莉夢! 回しすぎだ!」
「このくらい平気でしょ♪」
「平気じゃねえよ!」
莉夢が楽しそうにハンドルを回すたび、景色がものすごい勢いで流れていく。
ようやく解放された頃には、俺は少しふらつきながらカップを降りる羽目になった。
「まったく……次はもう少し大人しいやつにしてくれ」
「しょうがないわねぇ。じゃあ、あれは?」
莉夢が指差した先には、ゆっくりと回るメリーゴーランドがあった。
「……本当に乗るのか?」
「結飛が大人しいのがいいって言ったんじゃない」
「言ったけどさ……」
とはいえ、さっきのコーヒーカップよりはずっとマシだろう。
俺たちは並んでメリーゴーランドへ乗り込んだ。
軽快な音楽が流れ始めると、色鮮やかな馬が上下しながら回り出す。
「ふふっ、こういうのも楽しいわね」
少し前を進む馬に乗った莉夢が、こちらを振り返る。
ジェットコースターではしゃいでいた時とは違う、穏やかな笑顔だった。
そんな莉夢を眺めていると、俺までつられて笑ってしまう。
思えば今日は、遊園地に着いてからずっと莉夢に振り回されっぱなしだ。
それなのに、不思議と嫌な気はしなかった。
「……まあ、こういうのも悪くないか」
メリーゴーランドを降りたあとも、俺たちはいくつかのアトラクションを回った。
莉夢は気になるものを見つけるたびに足を止めては、次はあれ、その次はこっちと、休む暇もなく俺を連れ回していく。
そうしているうちに、気づけば昼を過ぎていた。
「結飛、お腹空かない?」
「そりゃ、あれだけ動き回ればな」
「じゃあ何か食べましょ♪」
周囲にはハンバーガーやホットドッグなどを売る店が並んでいた。
「あっ、あれ美味しそう!」
さっきまで散々遊び回っていたとは思えない勢いで、莉夢が一軒の店へ向かっていく。
「おい、急に走るなって」
俺が後を追うと、莉夢は店先のメニューを眺めながら、楽しそうに尻尾を揺らしていた。
「おい莉夢、尻尾――」
よく見れば、髪の間から小さな角まで覗いている。
背中には、黒い翼まで出ていた。
普段なら、すぐに隠せと言うところだ。
でも――。
「……まあ、今日くらいはいいか」
「ん? 何か言った?」
「いや、なんでもない」
「変な結飛。それより、早く来なさいよ!」
莉夢は気にした様子もなく、またメニューへ視線を戻した。
結局、俺たちは近くの店でハンバーガーとポテトを買い、空いていたテラス席に腰を下ろした。
「ん~、美味しい♪」
莉夢はハンバーガーを頬張ると、満足そうに目を細めた。
「よく食えるな。さっきまであれだけ乗り回してたのに」
「遊んだらお腹が空くのは当然でしょ?」
「まあ、それはそうだけど」
「それに、まだまだ乗りたいものがあるんだから。ちゃんと食べておかないとね」
食事を終えると、午後からも莉夢の勢いが衰えることはなかった。
空中を大きく旋回するアトラクションに乗ったかと思えば、今度はゲームコーナーへ寄り道する。
途中でクレープを見つければ買って食べ、売店では並んだ土産を興味深そうに眺めていた。
俺も莉夢と一緒になってアトラクションを回り、気になるものがあれば足を止めた。
そうして二人で園内を回っているうちに、昼間は高かった太陽も少しずつ傾き始めていた。
「……もうこんな時間か」
朝からずっと遊び回っていたはずなのに、過ぎてみればあっという間だった。
もう少しだけ、莉夢とこうしていたい。
そんなことを考えながら園内へ視線を戻すと、夕暮れの空を背に、大きな観覧車がゆっくりと回っているのが目に入った。
そういえば、あれにはまだ乗っていない。
「莉夢」
「ん?」
「最後に、あれ乗っていかないか?」
「観覧車?」
「せっかく来たんだしな」
「ふふっ、いいわよ。乗りましょ♪」
そうして俺たちは、一日の最後に観覧車へ向かった。
少しだけ列に並んだあと、やってきたゴンドラへ乗り込んだ。
向かい合うように座ると、扉が閉まり、ゴンドラが上昇し始める。
窓の外では、さっきまで歩き回っていた園内が少しずつ小さくなっていった。
「わぁ……綺麗ね」
莉夢が窓の外へ顔を向ける。
夕暮れに染まった空の下には遊園地が広がり、その向こうには街並みまで見渡せた。
「こんなに高かったのね」
「下から見てるのとは全然違うな」
「ええ。最後に乗って正解だったわ」
莉夢はそう言って景色を眺めていた。
俺も窓の外へ目を向ける。
ゴンドラの中に、しばらく静かな時間が流れた。
「……ねえ、結飛」
「ん?」
窓の外を見ていた莉夢が、ふいにこちらを見た。
「今日はありがとね」
「急にどうしたんだよ」
「別にいいでしょ。言いたくなったんだから」
莉夢はそう言うと、俺から逃げるように窓の外へ視線を戻した。
夕暮れに照らされた横顔は、ほんの少しだけ赤く見える。
その口元には、どこか嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
「それに……結飛の方から遊びに誘ってくれるなんて、思ってなかったし」
「……たまには俺から誘ったっていいだろ」
「ふふっ、そうね」
莉夢は嬉しそうに笑うと、再び窓の外へ視線を向けた。
その時、手の甲に何かが触れた。
視線を落とすと、莉夢の尻尾が俺の手にそっと絡みついている。
莉夢は気づいていないのか、夕暮れに染まる景色を眺めたままだ。
俺も手を動かさず、絡みついた尻尾をそのままにした。
不思議と、振りほどこうとは思わなかった。
そのまま二人で景色を眺めているうちに、ゴンドラは頂上へ近づいていく。
遠くまで続く街並みが、夕闇に包まれ始めていた。
「もうすぐ一番上ね」
「ああ」
こうしていると、不思議なくらい時間がゆっくり流れているように感じる。
でも、観覧車は少しずつ進んでいく。
頂上を越えれば、あとは下りていくだけだ。
そしてこれを降りれば、今日ももうすぐ終わる。
そう考えると、胸の奥に寂しさが込み上げてきた。
何か言いたい。
だけど、何を言えばいいのか分からない。
「……莉夢」
「なに?」
呼んでみたものの、その先の言葉が出てこなかった。
「……いや、なんでもない」
「なによ、それ」
莉夢は不思議そうに俺を見たあと、小さく笑った。
それから間もなく、ゴンドラは頂上を越えて、地上へ向かって下り始めた。
俺の手に絡んでいた莉夢の尻尾も、いつの間にか離れている。
結局、何も言えないまま観覧車を降りた。
外へ出る頃には、辺りもすっかり薄暗くなっていた。
園内には明かりが灯り、昼間とは違った景色が広がっている。
俺たちは出口へ向かい、そのまま遊園地を後にした。
帰り道でも、莉夢は今日乗ったアトラクションのことを楽しそうに話していた。
「やっぱり最初のジェットコースターが一番だったわね。あれ、もう一回乗ってもよかったかも」
「勘弁してくれ。お前、どんだけ元気なんだよ」
「なによ。結飛だって楽しんでたじゃない」
「まあ……否定はしないけどさ」
「ふふっ、素直でよろしい♪」
そんな他愛のない話をしながら歩いているうちに、いつもの別れ道まで来ていた。
「それじゃ、今日はここまでね」
「ああ」
莉夢は笑ったまま、ほんの少しだけ間を置いた。
「……こういうの、もっと早くしておけばよかったわね」
「え?」
思わず聞き返すと、莉夢は俺から視線を逸らした。
「なんでもない。じゃあね、結飛」
そう言って、莉夢が背を向ける。
――もっと早くしておけばよかった。
その言葉だけが、妙に胸に残った。
今日みたいな時間を、莉夢ももっと過ごしたかったってことなのか。
だったら――。
「……待ってくれ、莉夢」
莉夢が足を止め、振り返る。
そのまま見つめられると、喉の奥が詰まったように言葉が出てこない。
それでも、ここで黙ったまま終わらせるわけにはいかなかった。
「俺、お前と契約するつもりはない」
「……なによ、急に。そんなの、もう分かってるわよ」
「最後まで聞いてくれ」
「……」
「その気持ちは、今も変わってない」
自分でも、今さら何を言っているんだと思う。
それでも、その先を伝えたかった。
「でも……だからって、お前と離れてもいいとは思ってない」
口にした言葉が、静かな帰り道にやけに大きく響いた気がした。
「今日、お前と一緒にいて……もっとこうしてたいって思った」
一度視線を落とし、握った手に力を込める。
そして、もう一度莉夢をまっすぐ見つめた。
「俺は……莉夢と一緒にいたい」
口にした途端、胸の奥が熱くなった。
莉夢の尻尾が、ぴくりと揺れる。
「結飛……」
「でも、それを契約で叶えてほしいわけじゃない。俺が願ったから、お前が一緒にいるんじゃなくて……」
上手く言葉にできず、一度そこで途切れる。
それでも莉夢から目を逸らさなかった。
「莉夢にも……俺と一緒にいたいって、そう思ってほしいんだ」
言い切った途端、急に鼓動がうるさく感じられた。
夜の冷たい風が吹き抜け、長い髪をさらりと揺らした。
その足元では、尻尾の先が落ち着かなさそうに動いている。
やがて莉夢はわずかに俯くと、小さく息を吐いた。
「……ほんと、遅いのよ。結飛は」
「え?」
「今さらそんなこと言うなんて……ずるいじゃない」
そう言いながら、莉夢は俺から顔を背けた。
「ずるいって……」
「ずるいものは、ずるいのよ」
風に揺れる髪の隙間から、小さな角が覗いていた。
「私だって――」
そこで莉夢の言葉が途切れる。
尻尾が一度だけ大きく揺れ、それから力をなくしたように垂れ下がった。
「……莉夢?」
「……なんでもない」
「でも――」
「なんでもないったら、なんでもないの」
いつもの莉夢らしい言い方だった。
それでも、それ以上は聞けなかった。
「ほら、もう遅いんだから。結飛も早く帰りなさいよ」
「お前に言われなくても帰るって」
「ふふっ、ならいいわ」
莉夢はくるりと背を向け、そのまま歩き出す。
黒い翼が夜風を受けて、わずかに揺れる。
けれど、数歩進んだところで莉夢の足が止まった。
「……結飛」
「ん?」
呼ばれて顔を上げると、莉夢がこちらを振り返っていた。
何かを言おうとするように口を開く。
けれど、声は出てこなかった。
「どうした?」
俺が尋ねると、莉夢は少しだけ目を伏せる。
それから、もう一度こちらを見て笑った。
「今日は、本当に楽しかったわ」
「……ああ。俺も楽しかったよ」
「そっか」
「じゃあね、結飛」
「ああ。また明日」
そう返した瞬間、莉夢の尻尾がぴたりと止まった。
「……うん」
返ってきたのは、それだけだった。
莉夢は再び背を向けると、今度こそ歩き出した。
小さくなっていく背中を、その場に立ったまま見送る。
やがてその姿が見えなくなるまで見送ってから、俺も家へ向かって歩き出した。




