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第18話「これからのこと」

放課後――。

ホームルームが終わり、教室のあちこちで帰り支度を始める音が聞こえてくる。

俺も鞄に教科書をしまい、席を立とうとした、その時だった。


「莉夢ちゃん、ちょっといい?」


クラスの女子の一人が、莉夢へ声をかける。


「なぁに?」


「文化祭のことで、ちょっと相談したいことがあるんだけど」


「ああ、文化祭ね。いいわよ」


莉夢はそう答えると、俺の方へ振り返った。


「結飛、ちょっと待ってて」


「待つのはいいけど、どれくらいかかるんだ?」


「そんなにかからないわよ。終わったら連絡するから」


「はいはい」


俺がそう答えると、莉夢は女子生徒と一緒に教室の奥へ向かっていった。


さて、どうするか。


このまま教室に残っていても邪魔になりそうだし、かといって莉夢を置いて先に帰るのも何となく気が引ける。


とりあえず時間でも潰すか。

鞄を肩に掛け、教室を後にする。

特に行く当てもないまま校内を歩いているうちに、いつの間にか中庭へと出ていた。


十一月に入り、夕方の空気は少し肌寒い。

傾き始めた陽が校舎の向こうから差し込み、中庭を照らしている。

辺りを見回してみても、人影はほとんどない。


「……ここでいいか」


中庭の隅に置かれたベンチへ腰を下ろす。

鞄を隣に置き、何をするでもなくぼんやりと中庭を眺める。

昼休みなら生徒たちの話し声で賑わっているこの場所も、放課後ともなれば随分と静かなものだ。


「……暇だな」


スマホでも見ていようかと、ポケットに手を伸ばす。


「こんなところで何をしているのですか?」


不意に聞き覚えのある声がして、顔を上げる。


「……セシリア先生?」


「一人とは珍しいですね。あの駄悪魔は一緒ではないのですか?」


「あいつなら、文化祭のことでクラスの奴に捕まってますよ。終わるまで待ってろって言われたんで」


「そうでしたか」


セシリア先生は納得したように頷くと、俺の隣へ視線を向けた。


「隣、よろしいですか?」


「ええ、どうぞ」


俺が鞄を足元へ移すと、セシリア先生は「ありがとうございます」と微笑み、空いた場所へ腰を下ろした。

しばらく二人で、静かな中庭を眺める。


「……もう秋ですね」


セシリア先生が、ぽつりと呟いた。


「そうですね。最近は日が暮れるのも早くなってきましたし」


「ええ。私がこの学校へ赴任してきてから、もう幾月か経つのですね」


セシリア先生はどこか感慨深そうに目を細める。


「天使である私にとっては、ほんのわずかな時間に過ぎません。それでも、こうして人間界に身を置いていると、不思議と時の流れを感じるものです」


「天使って、やっぱり時間の感覚も人間とは違うんですか?」


「そうですね。ですが――こうして人間の皆さんと同じように生活していると、以前とは少し違って感じるのです」


そこで言葉を切ると、セシリア先生は校舎へと目を向けた。


「この学校で皆さんと過ごしていると、一日一日が過ぎていくのを以前より意識するようになりました」


「へぇ……」


天使にもそんな感覚があるのか。


普段は莉夢と顔を合わせるたびに言い合っている姿ばかり見ているせいか、こうして話していると、いつものセシリア先生とは少し違って見える。


「結飛さんは、どうですか?」


「俺ですか?」


「ええ。学校生活は楽しいですか?」


「まあ……それなりには」


「ふふっ。なんとも結飛さんらしい答えですね」


「なんですか、それ」


「ですが、そうして過ごせる時間も、いつまでも続くわけではありません」


セシリア先生の言葉に、何となく校舎を見上げた。

毎日のように通っている学校。


「結飛さんは、卒業後のことを考えていますか?」


「卒業後……ですか」


そう聞かれて、すぐには答えが出てこなかった。


卒業したら何をするのか。

大学へ進むのか、それとも就職するのか。

考えてみれば、これまで真剣に向き合ったことはなかった気がする。


「……正直、あんまり考えてないですね」


「そうなのですか?」


「はい。将来、何になりたいとかも特にないですし」


そう口にしてみると、自分でも随分と曖昧だと思う。

周りには、すでに進学先を考えている奴もいれば、将来やりたいことを決めている奴もいる。

それに比べて、自分は何も決まっていない。


「何かやりたいことがあれば、それに向かって進めるんでしょうけど……」


「まだ見つかっていないのですね」


「……そういうことになるんですかね」


セシリア先生は俺の答えを聞いても、困った顔をするわけでも、何かを咎めるわけでもなかった。


「でしたら、大学へ進学することを考えてみてはいかがですか?」


「大学、ですか?」


「ええ。もちろん、目的もなく進学することが必ずしも正しいとは言いません。ですが、今やりたいことが決まっていないからこそ、大学で様々なことを学びながら探してみる。それも一つの選択肢だと、私は思いますよ」


「やりたいことを見つけるために、大学へ……」


今まで、そんなふうに考えたことはなかった。

大学に行くなら、そこで何を学びたいのか。

その先で何をしたいのか。

そういうものを先に決めておくものだと、何となく思っていた。


「今すぐに、この先のすべてを決める必要はありません」


セシリア先生はそう言って、俺へ柔らかな笑みを向ける。


「人は迷いながら、自分の進む道を見つけていくものなのでしょう? でしたら、結飛さんにもまだ考える時間はあります」


「……天使にそう言われると、なんか不思議な感じですね」


「あら、そうですか?」


「だって先生、人間じゃないじゃないですか」


「ふふっ。それでも今は、一教師ですよ」


「あ……そうでした」


思わずそう返すと、セシリア先生は可笑しそうに笑った。


でも――大学か。

今まで特に意識していなかった選択肢が、ほんの少しだけ現実味を帯びた気がする。


「……ちょっと、考えてみます」


「ええ。それでいいと思いますよ」


セシリア先生は、それ以上何かを勧めることなく頷いた。

会話が途切れ、再び中庭に静かな時間が戻ってくる。


「ところで……もう一つ、聞いてもよろしいですか?」


「なんですか?」


顔を向けると、セシリア先生は先ほどまでと変わらない穏やかな表情を浮かべていた。


「あの駄悪魔……莉夢さんのことです」


「……莉夢?」


「はい。お二人を見ていると、随分と親しいように感じます」


「そうですか?」


「少なくとも、私にはそう見えますよ」


セシリア先生はそう答えると、どこか微笑ましそうに目を細めた。


「先日のハロウィンでも、ずっと一緒にいたのでしょう?」


「まあ……あいつに連れ回されてただけですけど」


「ふふっ。そういうことにしておきましょうか」


「なんですか、その言い方」


まるで俺の言葉を信じていないような返しに、思わず眉をひそめる。

セシリア先生はそんな俺の反応がおかしいのか、口元に小さな笑みを残したまま中庭へと視線を戻した。


「結飛さん。以前にもお話ししましたが、莉夢さんがあなたに近づいた目的は、人間であるあなたを堕落させ、契約を結ぶためです」


「……分かってますよ」


忘れたわけじゃない。

本人だって、ついこの間、大勢の前で堂々と宣言していたくらいだ。


そう答える俺を、セシリア先生はしばらく黙って見つめていた。

夕方の冷たい風が中庭を通り抜け、足元に落ちていた枯れ葉を小さく揺らしていく。


「ですが――今のあなたにとって、莉夢さんはそれだけの存在なのでしょうか?」


「え?」


「自分を堕落させようとしている子悪魔。それだけですか?」


返す言葉が見つからなかった。

確かに莉夢は正真正銘、魔界から来た子悪魔だ。

俺に近づいた目的だって、最初から分かっている。


それは今だって変わっていない。

だけど――。


「結飛さんは、莉夢さんとのこれからを、どう考えているのですか?」


「莉夢との……これから……」


その言葉を、口の中で繰り返す。

そんなこと、考えたこともなかった。

莉夢が俺の前に現れてから、もう随分と時間が経っている。


契約するつもりなんてないし、莉夢もそれを分かった上で、今も懲りずに俺を誘惑し続けている。


そんなやり取りが、これからも続いていく。

何となく、そう思っていた。


「……ずっと、このままじゃ駄目なんですか?」


ようやく出てきた言葉に、セシリア先生はすぐには答えなかった。

少しだけ目を伏せた後、口を開く。


「残念ですが、莉夢さんもいつまでも人間界にいられるわけではありません」


「……え? どういうことですか?」


「莉夢さんは遊びに来ているわけではありません。悪魔として、人間を堕落させ、契約を結ぶ。その使命を与えられて人間界へ来ています」


「それは……知ってますけど」


「では、その使命を果たせなかった場合のことは?」


「…………」


答えられなかった。

俺が考えていたのは、せいぜい莉夢の誘惑に負けず、契約を拒み続けることくらいだ。


「いつまでも成果を得られなければ、いずれ魔界から帰還を命じられる可能性があります」


「帰還って……魔界に?」


「ええ」


セシリア先生が頷く。

さっきまで聞こえていた校舎からの話し声が、妙に遠く感じた。


「それって……帰ったら、もう人間界には戻ってこないってことですか?」


「それは、私にも分かりません」


「分からない……?」


「私は天使です。魔界がどのような判断を下すのか、そのすべてを知っているわけではありませんから」


セシリア先生はそこで言葉を切ると、真っ直ぐ俺を見る。


「ですが、少なくともこの先も今と同じように、莉夢さんがあなたの傍にいられるとは限りません」


言葉が出なかった。

莉夢がいなくなる。

そんなことを考えたことすらなかった。


毎朝のように顔を合わせて、学校では当然のように隣にいて、放課後になれば一緒に帰る。

時にはくだらないことで言い合って、隙あらば誘惑してきて、そのたびに俺が拒む。

それが、いつの間にか当たり前になっていた。


今日だってそうだ。

莉夢に待っていろと言われて、俺は何の疑問もなくここに残っている。


それなのに――。

そんな日々が、これからも続くとは限らない。

そう考えると、胸の奥に何とも言えないものが残った。


「……嫌だな」


気付けば、そんな言葉が口からこぼれていた。


「結飛さん?」


「いや……」


自分でも、どうしてそんな言葉が出たのか分からない。


ただ――。


「莉夢がいなくなるって言われたら……嫌だと思います」


それが今の俺に出せる、素直な答えだった。

セシリア先生は何も言わず、しばらく俺の顔を見つめていた。


やがて、その表情がわずかに和らぐ。


「そうですか」


それだけ言うと、セシリア先生は優しく微笑んだ。


「でしたら、その気持ちは大切にしてください」


「この気持ちを……?」


「ええ。それがどういうものなのか、今すぐ答えを出す必要はありません」


セシリア先生はそう言って、ベンチから立ち上がる。


「莉夢さんとの関係をこの先どうするのか。それは、天使である私が決めることではありませんから」


「先生……」


「もちろん、彼女があなたを堕落させようとするのであれば、話は別ですが」


「そこは変わらないんですね……」


「当然です。私は彼女の監視役でもあるのですから」


穏やかな口調ながら、そこだけは譲るつもりがないらしい。

思わず苦笑すると、セシリア先生も笑みを返した。


「では、私はこれで」


軽く会釈すると、セシリア先生は校舎へ向かって歩き出した。

その後ろ姿が見えなくなるまで、何となくベンチに座ったまま見送っていた。


大学という、これまで意識していなかった選択肢。

そして――いつか莉夢が、俺の傍からいなくなるかもしれないということ。

セシリア先生と話す前にはなかった二つのことが、今は妙に頭に残っていた。


「結飛!」


名前を呼ばれ振り向くと、中庭の向こうから、莉夢が駆けてくるのが見えた。


「こんなところにいたのね。探したじゃない」


「終わったのか?」


「ええ。思ったより時間かかっちゃったけどね」


「それで、今まで何してたの?」


「ああ。ちょっとセシリア先生とな」


「……あの天使と?」


莉夢の眉がぴくりと動いた。


「結飛、変なこと吹き込まれてないでしょうね!」


「変なことってなんだよ」


「だって、あの天使よ? 私のこと、あることないこと言ってたんじゃないの?」


「お前、先生をなんだと思ってるんだ……」


「口うるさい天使」


「本人の前で言うなよ、それ」


まったく。

さっきまであれこれ考えていたのが馬鹿らしくなるくらい、いつも通りの莉夢だった。

ベンチから立ち上がると、足元に置いていた鞄を肩に掛ける。


「ほら。帰るぞ」


「あっ、ちょっと! まだ話は終わってないんだけど!」


「はいはい。帰りながら聞いてやるよ」


「なによ、その適当な返事!」


不満そうな声を上げながらも、莉夢は当たり前のように俺の隣へ並ぶ。

そのまま二人で中庭を後にし、校門へ向かって歩き出した。


「それで? あの天使と何話してたのよ」


「別に。進路の話とかだよ」


「ふーん……本当にそれだけ?」


「しつこいな」


「だって気になるじゃない!」


隣から聞こえてくる声も、こうして一緒に帰ることも、いつもと何も変わらない。

なのに今日は、その当たり前が少しだけ違って感じられた。


いつか、この時間にも終わりが来るのかもしれない。

その時、俺はどうしたいのか。


「結飛? 聞いてる?」


「ああ、聞いてるって」


「絶対聞いてなかったでしょ!」


頬を膨らませる莉夢に苦笑しながら、いつもの帰り道を歩く。

先のことなんて、まだ分からない。

それでも今は――こうして莉夢と並んで歩く時間を、大切にしていこうと思った。

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