第15話「そこまでです!この駄悪魔!」
放課後。
クラスメイトたちがとっくに帰り、すっかり静かになった教室で、莉夢は机の上に突っ伏していた。
「むりぃ……もう無理。結飛、助けてぇ……」
「始まってまだ三十分も経ってないだろ」
「だってぇ……全然わかんないんだもん」
莉夢は机に突っ伏したまま、恨めしそうに顔だけをこちらへ向ける。
その前には、夏休みの課題として出されていた問題集が広げられていた。
新学期が始まって早々、課題をほとんど終わらせていなかったことが発覚した莉夢は、こうして放課後に居残りをさせられている。
そしてなぜか、俺までそれに付き合わされていた。
「はぁ……もう帰っていいか?」
「ダメよ! 結飛はこんな可愛い私を見捨てるの!?」
「自分で言うなよ……それに、自業自得だろ」
「そんなこと言わないで助けてよぉ。ねっ?」
両手を合わせると、莉夢は上目遣いで俺を見つめてくる。
そんな顔をされても、まったく反省しているようには見えない。
「ったく、夏休み中、俺と遊んでばっかりだったのが原因だろ」
「そうよ! 結飛を堕落させるために必死だったんだから、責任は結飛にもあると思うの!」
「なんでそうなるんだよ! 俺はちゃんと終わらせてるからな!?」
思わず上げた声が、誰もいない教室に響き渡る。
「だったら、結飛が教えてくれればいいじゃない」
「だからなんで俺が……」
「ほら、ここからここまでお願い♪」
そう言いながら、莉夢は開いた問題集を指先ですーっとなぞっていく。
その指が止まったのは、ページの一番下だった。
「全部じゃねぇか! ……ったく」
またしても声を上げる俺をよそに、莉夢はにこにこと笑っている。
このまま放っておいたら、いつまで経っても終わりそうにない。
仕方なく立ち上がると、莉夢の隣の席へ椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「で、どこがわからないんだ?」
「ここ。あっ、あとここも」
莉夢が問題集の一か所を指差したかと思えば、すぐにその下へ指を滑らせる。
「おい、まだ説明してないだろ」
「それとここもわかんない」
「逆にどこならわかるんだよ」
「名前を書くところ!」
「自信満々に言うな!」
まったく、こいつは本当に補習を終わらせる気があるのか。
呆れながら問題集へ目を戻す。
「いいか? まずこの問題は――」
莉夢からシャーペンを借りると、空いているスペースに途中の式を書き込んでいく。
いきなり答えを教えても意味がないので、なるべく順を追いながら一つずつ説明することにした。
「――だから、ここをこうすればいい。ここまではわかるか?」
「うーん……」
莉夢は頬杖をつきながら、俺の書いた式をじっと見つめる。
眉間に小さくしわを寄せ、しばらく考え込んでいたが、やがて困ったように首を傾げた。
「もうちょっとわかりやすく教えて?」
さっきまでのふざけた調子とは違い、今度は本当にわからないらしい。
「しょうがねぇな……」
俺はもう一度シャーペンを走らせながら、さっきよりも噛み砕いて説明することにした。
「だから、まずここを先に計算して……」
「……こう?」
「そうそう。で、最後にこれを計算すれば――」
言われた通りに莉夢が式を書き進め、最後に答えを書き込む。
「できた!」
「なんだ、やればできるじゃん」
「ふふん♪ もっと褒めてもいいのよ?」
「調子に乗るな」
得意げに胸を張る莉夢を軽くあしらいながら、次へ進ませる。
最初こそどうなることかと思ったが、一度理解してしまえば意外と順調だった。
それからしばらく、俺は莉夢の課題に付き合い続けた。
「ねぇ結飛、ここは?」
「ん? どれだ?」
「これはさっきの問題と同じで、ここを――」
説明しながら莉夢の方へ顔を向けたところで、思わず言葉が止まった。
近い。
いつの間にこんなに距離が縮まっていたのか。
隣に座って同じ問題集を覗き込んでいるのだから、考えてみれば当たり前なのかもしれない。
けれど、一度そのことを意識してしまうと、急に莉夢の横顔が気になってしまう。
長いまつ毛に、問題を見つめる真剣な瞳。
いつも人をからかってばかりいるくせに、こうして黙っていれば――。
「……なに?」
「っ!?」
不意に莉夢がこちらを向いて目が合った。
ただでさえ近かった顔が、真正面から向き合ったことで余計に近く感じられる。
「べ、別になんでもねぇよ」
慌てて視線を逸らす。
なんだよ、これ。
こいつとは夏休み中、散々一緒にいたじゃないか。
今さら顔が近いくらいで、なんで俺がこんなに意識してるんだ。
「……」
「な、なんだよ」
返事がないのが気になって視線を戻すと、莉夢はじっと俺を見つめていた。
やがて何かに気づいたように、その口元がゆっくりと持ち上がる。
「ふ~ん?」
「……なんだよ、その顔」
「もしかして結飛――ドキドキしてる?」
「してねぇよ!」
反射的に否定すると、莉夢はますます楽しそうに笑った。
「くすっ、顔赤いけど?」
「赤くない!」
「へぇ~?」
莉夢は楽しそうに目を細めると、座っていた椅子から身を乗り出した。
ただでさえ近かった顔が、さらに俺へと迫ってきた。
思わず身を引くが、それを追いかけるように莉夢も身体を寄せてくる。
気づけば、吐息さえ感じられそうなほどの距離まで近づいていた。
「お、おい……近いって」
「どうして? さっきまで平気だったじゃない♪」
「それは問題集見てたからだろ……!」
「じゃあ、今は私のこと見てるんだ?」
「っ……!」
何も言い返せず、言葉に詰まる。
そんな俺の反応を見て、莉夢は満足そうに微笑んだ。
完全に遊ばれてる。
分かっているのに、顔を背けることができなかった。
「ふふっ♪」
莉夢も俺から目を逸らさない。
いつものように俺をからかっているだけ――そのはずなのに。
けれど、いつまで経っても莉夢は離れようとしない。
さっきまで楽しそうに細められていた瞳からも、いつの間にかからかうような色が消えていた。
「…………」
「…………」
どちらからともなく言葉が途切れ、誰もいない放課後の教室に静寂が訪れる。
さっきまであれだけ騒がしかったのが、嘘みたいだった。
莉夢の顔は、まだすぐ目の前にあった。
あと少しどちらかが顔を近づけば、触れてしまいそうなほどの距離だ。
それなのに、俺たちはどちらも動こうとしない。
「莉夢……?」
思わず名前を呼ぶが、返事はない。
ただ俺を見つめたまま、莉夢はほんの少しだけ顔を傾ける。
その仕草に心臓が大きく跳ね、思わず身体が強張った。
おい、待て。
これって、まさか――。
ガラッ!
勢いよく教室の扉が開き、張り詰めていた空気が一瞬で吹き飛んだ。
「そこまでです! この駄悪魔!」
「「っ!?」」
聞き覚えのある声に、俺と莉夢は揃って扉の方へ顔を向ける。
そこに立っていたのは――セシリア先生だった。
普段の穏やかな表情はどこへやら、眉を吊り上げながらこちらを睨みつけている。
いや、正確には――俺ではなく、莉夢を。
「せ、セシリア先生!?」
声を上げたところで、今の自分たちの体勢に気づく。
莉夢の顔は相変わらずすぐ目の前にあり、傍から見れば何をしていたのかと勘違いされてもおかしくない。
「ち、違うんです! これは――!」
慌てて莉夢から身体を離すが、当の本人はまるで気にした様子もなく、小さく息を吐いた。
「……何よ。いいところだったのに」
「お前は何言ってんだよ!?」
俺が思わず声を上げると、莉夢はくすくすと楽しそうに笑う。
そんな俺たちを前に、セシリア先生のこめかみがぴくりと動いた。
「あなた達、こんなところで何をしているんですか!」
セシリア先生が詰め寄るように教室へ入ってくるが、莉夢はまるで悪びれる様子もない。
「何って、見ればわかるでしょ? 補習よ」
莉夢はそう答えると、机の上に広げられた問題集を指差す。
「補習でどうしてあんなに顔を近づける必要があるんですか!」
「結飛に勉強を教えてもらってただけよ。ねぇ?」
「途中まではな!」
「途中まで!? やはり結飛君を堕落させようとしていたんですね! 駄悪魔とはいえ、悪魔に変わりはないようですね!」
「誰が駄悪魔よ!」
莉夢が眉を吊り上げるが、セシリア先生も負けじと鋭い視線を返す。
初めて教室で会った時の穏やかな雰囲気は、もはや見る影もなかった。
「少し様子を窺おうかと思っていましたが、まさか学校で堂々と結飛君に手を出そうとするなんて……」
「何よ。ちょっといい雰囲気になってただけじゃない」
莉夢は悪びれる様子もなく、むしろ見せつけるように俺の腕へ身体を寄せてくる。
「いい雰囲気!?」
セシリア先生の顔はみるみる険しくなり、握り締めた拳が小刻みに震え始めた。
……なんか、嫌な予感がする。
「お、おい……」
すると、セシリア先生の身体から眩い光が溢れ出した。
その輝きが掲げられた右手へと集まり、徐々に一つの形を成していく。
やがて光が収まると、その手には一本の槍が握られていた。
いやいや、ちょっと待て。
なんで学校の教室でそんなもの出してるんだよ。
「やはり見過ごすわけにはいきませんね!」
セシリア先生は槍を握り締めると、その切っ先を莉夢へ向けた。
「この場で粛清します!」
「待て待て待て!」
冗談を言っているようには到底見えない。
俺は慌てて立ち上がると、莉夢を庇うようにセシリア先生との間へ割って入った。
「結飛君、そこを退いてください! この駄悪魔には聖なる裁きを下す必要があるのです!」
「ちょっと! なんで私が粛清されなきゃいけないのよ!」
背後から莉夢が抗議の声を上げる。
槍を向けられているというのに、怯むどころかセシリア先生を睨み返していた。
「つい先程、結飛君を堕落させようとしていたでしょう!」
「してないわよ! 今日はまだ!」
「今日は!? まだ!?」
セシリア先生の眉がぴくりと跳ね、莉夢へ向けられた槍の切っ先がわずかに持ち上がる。
「お前も余計なこと言うなよ!」
なんでこいつは、わざわざ火に油を注ぐようなことを言うんだ。
「先生、とりあえずその物騒なものしまってください!」
「結飛君、どうしてその悪魔を庇うのですか!」
「なんでって……」
思いがけない問いに、言葉が詰まる。
どうしてと言われても、目の前で莉夢が槍を向けられていたから止めただけだ。
「その悪魔はあなたを堕落させ、契約を迫るために近づいているのでしょう?」
「それは……まあ、本人はそう言ってます。ですが、そのどれもがしょーもないんです!」
「しょーもないってなによ!」
すかさず背後から抗議の声が飛んでくるが、今は無視する。
「だから、俺はこのポンコツの誘惑に負けたりはしません!」
そう言い切ると、セシリア先生は意表を突かれたように目を丸くした。
「ポンコツ……」
「誰がポンコツよ!」
莉夢が俺の背中をぽかぽかと叩いてくる。
「痛っ! 叩くなって!」
「結飛が失礼なことばっかり言うからでしょ! 私が今までどれだけ頑張って誘惑してきたと思ってるのよ!」
「それで一回も成功してないからポンコツなんだろ!」
「むきーっ!」
なおも背中を叩いてくる莉夢をあしらいながら、ふとセシリア先生を見る。
先ほどまでの勢いはどこへやら、槍を構えたまま呆気に取られたように俺たちを見つめていた。
「……本当に、この悪魔の誘惑に屈していないのですか?」
セシリア先生はまだ疑わしそうな目を向けてくる。
「あれでどうやって堕落しろっていうのか、俺が聞きたいくらいですよ」
「……」
セシリア先生は何かを確かめるように、しばらく俺の顔をじっと見つめていた。
やがて納得したのか小さく息を吐くと、莉夢へ向けられていた槍が光へと変わり、その手の中から消えていく。
「……わかりました。結飛君の言葉、信じましょう」
「先生」
どうやら、ようやく分かってもらえたらしい。
ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、セシリア先生は莉夢へちらりと視線を向ける。
「確かに、この駄悪魔が簡単に契約できるとは思えませんしね」
「もー! 二人して私をなんだと思ってるのよ!」
莉夢が頬を膨らませながら声を上げる。
さっきまで粛清されかけていたというのに、もうそんなことは気にしていないらしい。
「というか先生。なんで天使が学校の先生なんてやってるんですか?」
「それはこの悪魔を監視するためです」
セシリア先生はそう言って、莉夢へ視線を向けた。
「私は天界から、人間界にいる悪魔を監視するために派遣されました。そしてこの学校で悪魔の気配を感じたので、調べてみたところ――」
「私がいたってわけね」
莉夢が面倒くさそうに口を挟む。
「そういうことです」
セシリア先生は小さく頷くと、そのまま話を続ける。
「ですが、何の理由もなく学校へ出入りしていては怪しまれてしまいます。そこで、ちょうど産休に入られる先生がいると知り、その代理として赴任することにしたのです」
「そんな理由で先生になれるんですか……」
「そこは天使ですから」
「どういう意味だよ……」
天使って意外となんでもありなのか?
「ともかく、私の役目はこの駄悪魔の監視です。結飛君との契約を阻止するのはもちろん、何か問題を起こさないよう、今後もしっかり見張らせてもらいます」
「何よそれ。ずっと私を見張るつもり?」
莉夢は露骨に嫌そうな顔をすると、セシリア先生を睨みつける。
「当然です」
対するセシリア先生は、そんな視線など意にも介さず、にっこりと微笑んだ。
さっきまで槍を振りかざしていたとは思えないほど穏やかな笑顔だ。
「天使って暇なのね」
「それが我々の使命ですから。むしろ、人間一人まともに堕落させられずにいるあなたの方こそ、暇を持て余しているのでは?」
「なっ……!」
莉夢の頬がぴくりと引きつる。
どうやら今の一言は相当効いたらしい。
「う、うるさいわね! 私はじっくり時間をかけて結飛を堕落させてるのよ!」
苦し紛れに言い返しながら、莉夢はなぜか自信満々に胸を張る。
いや、それは威張って言うことなのか?
「それを世間では成果が出ていないと言うのでは?」
セシリア先生が笑顔のまま容赦なく追い打ちをかける。
「ぐぬぬ……このクソ天使!」
ついに言い返す言葉もなくなったのか、莉夢は悔しそうに歯噛みする。
一方のセシリア先生は涼しい顔をしたままで、まるで相手にしていない。
「大体あなたは――」
「そっちこそ――!」
再び言い合いを始めた二人を前に、深いため息をついた。
悪魔だけでも十分騒がしかったのに、今度は天使まで加わるのかよ。
俺の平穏な学校生活は、どうやらますます遠ざかっていくらしい。




