第14話「あの先生、絶対怪しいわ!」
長かった夏休みも終わり、今日から二学期が始まる。
八月の終わりとはいえ、朝の日差しはまだ強い。
制服姿の生徒たちが次々と校門へ向かい、久しぶりに再会した友人同士が楽しそうに言葉を交わしている。
そんな賑やかな空気とは裏腹に、俺の足取りは少しだけ重かった。
「ふぁぁ……」
思わず欠伸が漏れる。
まだ身体の方は、夏休み気分から抜け出せていないらしい。
「結飛ー!」
元気いっぱいの声とともに、小さな足音がこちらへ近付いてくる。
振り向くと、満面の笑みを浮かべた莉夢が駆け寄ってきた。
「おはよー!」
「よう。朝から元気だな」
「当然よ! 今日から二学期なんだから!」
「普通は逆じゃないか?」
「え?」
莉夢はきょとんとした表情で首を傾げる。
「夏休みが終わって残念とか、そういう感想はないのか?」
「ないわね!」
即答だった。
まるで、その答え以外は考えたこともないと言わんばかりだ。
「だって、学校でも毎日結飛に会えるもの」
「……え?」
思わず聞き返してしまう。
莉夢も自分が口にした言葉へ気付いたのか、一瞬だけ動きを止めた。
「……あ」
莉夢は目を丸くした。
「じゃ、じゃなくて! 毎日結飛を堕落させられるってことよ!」
慌てて誤魔化そうとする莉夢が、なんだかおかしくて思わず笑ってしまう。
「……そこは変わらないんだな」
「もちろん!」
さっきまでの焦りが嘘だったかのように、莉夢は得意げに胸を張る。
その様子を見ていると、不思議と気分も軽くなる。
「ほら、行くわよ!」
「わかったから、そんなに急ぐなよ」
莉夢の背中を追うように、俺も校舎へ向かって歩き出した。
さっきまでの重たい足取りは、いつの間にか少しだけ軽くなっていた。
◇ ◇ ◇
莉夢と並んで教室へ入ると、すでにあちこちで賑やかな声が飛び交っていた。
「久しぶり!」
「宿題終わった?」
「海行ってさ――」
久しぶりに顔を合わせたクラスメイト達は、思い思いに夏休みの話に花を咲かせている。
「皆も元気ね!」
莉夢が教室を見回しながら、楽しそうに笑う。
「休み明けなんてこんなもんだろ」
そんな他愛もない会話をしていると、始業を告げるチャイムが校舎に響き渡った。
「はい、席についてくださーい」
担任の先生が教室へ入ってくる。
それまでの賑わいも少しずつ収まり、それぞれが自分の席へ戻っていく。
「さて、夏休みも終わり、今日から二学期です。まだまだ暑い日が続きますが、気持ちを切り替えて頑張っていきましょう」
先生は出席簿を机へ置くと、一度教室全体を見渡した。
「それと、皆さんに一つ連絡があります」
何の話だろうと、教室の視線が先生へ集まる。
「一学期まで英語を担当されていた高橋先生ですが、このたび産休に入られることになりました」
教室のあちこちから小さなどよめきが起こる。
担任の先生はそのまま話を続けた。
「そのため、二学期からは新しい先生が英語を担当されます。ちょうど一時間目が英語なので、その時に改めて紹介してもらいます」
◇ ◇ ◇
ホームルームが終わると、クラスメイトたちは一時間目の授業の準備を始める。
莉夢が英語の教科書を机の上へ置きながら、小さく呟く。
「新しい先生、どんな人なんだろうね」
「さぁな。厳しい先生じゃなければいいけど」
一時間目の準備を終えた頃――。
ガラッ――。
教室の扉が開き、一人の外国人女性が入ってきた。
肩口まで伸びたプラチナブロンドの髪。
澄んだ青い瞳と、透き通るような白い肌が目を引く。
年齢は二十代半ばくらいだろうか。
白いブラウスにネイビーのジャケット、同色のタイトスカートを上品に着こなしている。
教壇へ向かう足取りはゆっくりとしていて、一つひとつの所作がどこまでも丁寧だった。
派手さはない。それでも、その落ち着いた佇まいに教室中の視線が自然と集まっていく。
女性は教壇の前で足を止めると、静かに一礼した。
「皆さん、初めまして。本日より英語を担当させていただきます。セシリア・スミスと申します」
外国人とは思えないほど流暢な日本語に、少し驚かされる。
「これから皆さんと一緒に学べることを楽しみにしています。どうぞよろしくお願いいたします」
再び丁寧に頭を下げると、教室のあちこちから自然と拍手が起こった。
俺も周りに合わせて手を叩く。
「綺麗な先生だね」
「日本語めっちゃ上手くない?」
そんな声があちこちから聞こえてくる。
少なくとも、厳しい先生ではなさそうだ。
そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。
その時だった。
「……っ」
隣から、小さく息を呑む音が聞こえた。
「莉夢?」
思わず莉夢へ視線を向けると、さっきまで笑っていた莉夢が、セシリア先生をじっと見つめたまま動きを止めていた。
「どうした?」
「…………」
俺の問いかけにも答えず、莉夢の視線はセシリア先生から離れない。
一体、どうしたんだ?
◇ ◇ ◇
セシリア先生の授業は、とても分かりやすかった。
流暢な英語に加え、説明も丁寧で、分からない生徒には優しく声を掛けている。
初めての授業だというのに、教室の雰囲気はすっかり穏やかなものになっていた。
俺もセシリア先生の説明を聞きながら、教科書へ視線を落とす。
だが、隣の莉夢は何度もセシリア先生へ視線を送っていた。
気にはなったものの、授業中ということもあり、そのまま様子を見ることにした。
やがて、授業終了を告げるチャイムが鳴る。
「それでは、今日はここまでです」
セシリア先生は穏やかに微笑むと、一礼して教室を後にした。
「結飛」
莉夢が小さな声で俺を呼んだ。
その表情は、まだどこか険しい。
莉夢は一度、周囲のクラスメイトたちへ目を向けた。
「……放課後、少し話があるわ」
「え?」
「ここじゃ話せないの」
「……分かった」
何の話なのか気になりながらも、それ以上は聞かずに放課後を待つことにした。
◇ ◇ ◇
放課後。莉夢に連れられ、校舎裏までやって来た。
部活動へ向かう生徒たちの声は遠くから聞こえるものの、この辺りに人の姿はない。
「……ここなら大丈夫ね」
莉夢は辺りをぐるりと見回すと、小さく息を吐いた。
「で、一体どうしたんだ?」
莉夢は少し間を置いてから、口を開いた。
「結飛。今日来た英語の先生だけど……」
一度言葉を切ると、真っ直ぐ俺を見つめる。
「あの人、天使よ」
「……は? セシリア先生が、天使だって?」
あまりにも予想外の言葉だった。
「ええ、間違いないわ。あの人から神聖な力を感じたの」
「いやいや……そんな話、急に言われても信じられるわけないだろ」
「冗談なんかじゃないわ。現に悪魔の私がいるのよ?」
「そりゃそうだけどさ……」
言われてみれば、その通りだ。
莉夢が悪魔だということは、この数か月で嫌というほど思い知らされてきた。
だからこそ、「天使がいる」と言われても頭ごなしに否定はできない。
それでも、今日初めて会った英語の先生が天使だなんて、すぐには受け入れられなかった。
「私を信じて」
莉夢の声に、いつもの軽さはなかった。
「あの人は間違いなく――」
「私がどうかしましたか?」
穏やかな女性の声が、不意に背後から聞こえた。
「っ!?」
慌てて振り返ると、そこにはセシリア先生が立っていた。
「セシリア先生……」
思わず名前を口にすると、セシリア先生は小さく会釈をする。
「……どうしてここに?」
「お二人の姿をお見かけしたものですから」
そう答えると、セシリア先生は変わらぬ笑みを浮かべたまま、俺たちを交互に見つめる。
「それで、私についてお話しされていたようですが……」
「……先生。あなた、天使でしょ」
莉夢がセシリア先生を見据える。
けれど、当の本人は動揺する様子もなく、小さく首を傾げただけだった。
「天使……ですか? 何のお話でしょう?」
「とぼけたって無駄よ。私を誤魔化せると思わないことね」
「そう言われましても……」
セシリア先生は困ったように頬へ手を添える。
「なぁ莉夢、やっぱり勘違いなんじゃないか?」
「そんなわけないでしょ! 悪魔の私が天使を間違えるわけないわ!」
「そう言われてもなぁ……」
改めてセシリア先生を見る。
どう見ても、目の前にいるのは物腰の柔らかい英語教師だ。
少なくとも俺には、天使だなんて到底思えなかった。
そんな俺をよそに、莉夢はセシリア先生へずいっと一歩詰め寄った。
「いい? 私にはちゃーんと分かってるんだから。あんたから漂ってくる、この忌々しいくらい神聖な力が!」
「…………」
「だからさっさと白状しなさい! あんた、天使なんでしょ!」
「…………」
それでもセシリア先生は答えない。
口元には変わらず穏やかな笑みを浮かべている。
その態度が気に入らないのか、莉夢はさらに顔を近付けた。
「それとも何? 悪魔を前にしてビビってるのかしら?」
その瞬間、セシリア先生の眉が、ぴくりと動いた。
「臆しているのはあなたでしょう。この鬱陶しい悪魔め」
「えっ!?」
「ほらぁ!!」
莉夢が勢いよく俺を振り返った。
「聞いた!? 今の聞いたわよね!?」
「あ、ああ……」
聞き間違いじゃない。
さっきまであれほど穏やかだったセシリア先生の口から、明らかに教師らしからぬ言葉が飛び出した。
セシリア先生はしばらく黙っていたが、やがて観念したように小さくため息をついた。
「……はぁ。こういうことにだけは鼻が利くのですね。悪魔というものは」
「やっぱり! やっぱり天使じゃない!」
勝ち誇ったように莉夢がセシリア先生を指差す。
そんな莉夢へ、セシリア先生は冷ややかな視線を向けた。
「ええ。ですから何だというのです、この駄悪魔が」
「だ、駄悪魔ぁ!? 誰が駄悪魔よ!」
「あなた以外に誰がいるのです?」
「なんですってぇ!?」
今にも掴みかかりそうな勢いで莉夢が声を荒らげる。
「二人共落ち着いてくれ!」
慌てて二人の間に割って入った。
さっきまでの張り詰めた空気はどこへ行ったのか。
目の前では、新任の英語教師と悪魔が睨み合っている。
何なんだ、この状況は。
そんなことを考えていると、セシリア先生が俺へ向き直った。
先ほどまで莉夢へ向けていた冷たい表情が嘘だったかのように、柔らかな笑みを浮かべて丁寧に頭を下げる。
「驚かせてしまい申し訳ありません、結飛さん。お見苦しいところをお見せしましたね」
「ちょっと! なんで結飛にはそんな態度なのよ!」
「何か問題でも?」
「大ありよ!」
「あなたは日頃の行いを省みるといいですね」
「むきぃぃぃ!」
「莉夢、落ち着けって!」
今にも飛び掛かりそうな莉夢を宥めながら、もう一度セシリア先生へ目を向ける。
聞きたいことは山ほどある。
だが、まず確かめなければならないことは一つだ。
「じゃ、じゃあ……本当に天使なんですか?」
「はい」
セシリア先生がそう答えた、その直後だった。
ふわりと淡い輝きが頭上に集まり、やがてそれは一つの輪を形作っていく。
「……え?」
「これで、信じていただけましたか?」
思わず言葉を失う。
悪魔がいるだけでも十分現実離れしているというのに、今度は天使まで現れた。
「……マジか」
思わず漏れた言葉に、セシリア先生は何事もなかったかのように微笑む。
「信じられないお気持ちは分かります」
「だったら、一つ聞いてもいいですか?」
「なんでしょう?」
「どうして天使が、学校の先生をしてるんです?」
すると、セシリア先生の笑みが、ほんの少しだけ薄れた。
「…………」
先ほどまでの柔らかな雰囲気が消え、どこか真剣な表情へと変わる。
「それについては――いずれ、お話しします」
「いずれって……」
「少なくとも、今ここでお話しできることではありません」
それ以上は答えるつもりがないらしい。
セシリア先生は再び穏やかな笑みを浮かべると、俺たちへ小さく一礼した。
「それでは、私はこれで失礼します」
そう言って、セシリア先生は校舎の方へ歩き出していった。
「あっ、ちょっと! まだ話は――」
「莉夢、やめとけ」
「でも!」
「今聞いても、たぶん話してくれないだろ」
「……むぅ」
莉夢は不満そうに頬を膨らませながら、遠ざかっていくセシリア先生の背中を睨みつけていた。
俺もその後ろ姿へ目を向ける。
新しくやって来た英語教師のセシリア・スミス。
その正体は――天使ときた。
しかも、なぜか莉夢にだけやたらと当たりが強い。
「……二学期、どうなるんだよ」
思わず漏れた呟きに答える者はいなかった。




