第12話「海辺の堕落計画」
終業式を終え、待ちに待った夏休みが始まった。
窓の外では蝉が元気よく鳴き、青空には大きな入道雲が浮かんでいる。
せっかくの夏休みだ。
遊びたい気持ちはもちろんある。
だけど、後になって慌てるのは嫌だから、宿題だけは少しずつ片付けておきたい。
そんなことを考えながら、自室の机に向かい、黙々とシャーペンを走らせていた。
「……今日はこんなもんか」
シャーペンを置き、大きく伸びをする。
時計を見ると、まだ昼過ぎ。
この調子なら、夏休みを満喫しながらでも余裕を持って終わらせられそうだ。
そう思った、その時だった。
♪~♪~
机の上に置いていたスマホが軽快な通知音を鳴らす。
「ん?」
画面を見ると、メッセージの送り主は莉夢だった。
『結飛! 海に行くわよ!』
「いきなりだな……」
思わず苦笑しながら返信を打つ。
『いいけど、準備できてるのか?』
すると数秒もしないうちに返事が返ってきた。
『余裕よ!』
……絶対、何も準備してないだろ。
そんなことを思いながら、さらに文字を打ち込む。
『わかった。いつ行くんだ?』
『明日よ!』
『急だな』
『何言ってるの! 早くしないと夏休み終わっちゃうじゃない!』
『まだ始まったばっかりだろ』
送信ボタンを押し、俺はやれやれと首を横に振った。
「……ほんと、莉夢らしいな」
莉夢に振り回されるのは、いつものことだ。
◇ ◇ ◇
翌日。
待ち合わせ場所の最寄り駅前へ着くと、そこには仁王立ちしている莉夢の姿があった。
白いブラウスに水色のスカートを合わせた、夏らしい私服姿をしている。
「結飛!待ちくたびれたわ!」
「まだ待ち合わせ時間になってないだろ。いつからいたんだよ」
「三十分前くらいからよ!」
「早くね?」
思わず額に手を当てる。
「そんなに楽しみだったのか?」
すると莉夢は得意げに人差し指をぴんと立てた。
「何言ってるのよ! 夏休みよ! 遊びに行くなら朝から楽しまないともったいないじゃない!」
「まぁ、その気持ちは分からなくもないけど」
胸を張って力説するその姿は、子どものようにはしゃいでいて、見ているこっちまでつられて笑いそうになる。
「……そういえば、お前の目的って、俺を堕落させることだったよな?」
その瞬間、莉夢は「あっ」と小さく声を漏らし、目を丸くする。
「もちろん忘れてないわ!」
咳払いを一つする。
……完全に忘れてたな。
莉夢はビシッと俺を指差し、いつもの悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「今日は一日かけて、結飛を堕落させてあげるんだから!」
「やっぱりそこに戻るのか……」
「ふふふ……覚悟しなさい!」
そう言うや否や、莉夢は弾むような足取りで駅の改札へ向かって歩き出す。
「おい、そんなに急ぐと転ぶぞ」
「大丈夫よ!」
……本当に大丈夫だろうか。
そんな不安を抱えながら、俺も改札へ向かって歩き出した。
電車に揺られること数十分。
潮の香りが漂う駅を降り、少し歩くと、視界いっぱいに青い海が広がった。
どこまでも続く水平線。
白い波が静かに砂浜へ打ち寄せ、夏の日差しを浴びた海面がきらきらと輝いている。
「着いたー!」
隣では莉夢が両手を大きく広げ、子どものようにはしゃいでいた。
「ほら、結飛! 早く行きましょ!」
「ああ、慌てるなって」
◇ ◇ ◇
着替えを済ませると、砂浜にビーチパラソルを立て、持ってきたレジャーシートを広げる。
「よし、こんなもんか」
砂浜に腰を下ろし、一息つく。
潮風が肌を撫で、遠くから子どもたちの笑い声が聞こえてくる。
「……さて」
莉夢はまだ更衣室から出てきていない。
波打ち際では、浮き輪を抱えて走る子どもたちや、ビーチボールではしゃぐグループの姿が見える。
夏らしい賑わいをぼんやり眺めながら、俺は莉夢を待った。
「お待たせー!」
聞き慣れた声に顔を上げる。
「結飛、どう?」
振り返った瞬間、思わず息をのんだ。
そこに立っていた莉夢は、ピンクを基調に花柄が散りばめられたビキニを身にまとっていた。
フリルの付いたボトムがどこか愛らしく、いつもの元気な雰囲気によく似合っている。
銀紫色の長いツインテールは、いつもより少しだけ高い位置で結ばれ、小さな花の髪飾りが添えられていた。
制服や私服とはまるで違う。
思わず見惚れてしまう。
……こんな莉夢を見るのは初めてだった。
「……結飛?」
不思議そうに小首を傾げる莉夢の声で、ようやく我に返る。
「あ、いや……」
慌てて視線を逸らし、頭を掻く。
「い、いいんじゃねーの?」
「えー? もっとはっきり言ってよ」
莉夢は少しだけ頬を膨らませながら、一歩近づいてくる。
「似合ってると……思う」
「思う?」
「似合ってるって!」
照れ隠しのように言い直すと、莉夢はぱっと表情を明るくした。
「ホント? やった!」
その場でくるりと一回転し、嬉しそうに笑う。
「結飛を誘惑する為に気合い入れて選んだんだからね!」
「……その割には、可愛い系を選んだんだな」
「え?」
「いや、何でもない」
胸を張る莉夢を見て思わず苦笑した。
「それじゃあ、泳ぎましょ!」
嬉しそうにそう言った莉夢は、両手を大きく伸ばして背伸びをする。
その瞬間だった。
頭の上から小さな角がぴょこんと顔を覗かせ、腰の辺りから細い尻尾がゆらりと揺れる。
さらに背中には、小さな黒い翼までふわりと広がった。
「お、おい!」
慌てて立ち上がり、莉夢の腕を掴む。
「何よ?」
「何よじゃない! 角! 尻尾! 翼!」
「ああ、これ?」
莉夢は自分の尻尾をひょいと持ち上げる。
先端が楽しそうに左右へ揺れた。
「別にいいじゃない」
「よくないだろ! 見られたらどうする!」
声を潜めながら言う俺とは対照的に、莉夢は少しも慌てる様子がない。
むしろ、不思議そうに首を傾げていた。
「見られたらって……誰が?」
そう呟くと、莉夢はくるりと周囲を見回した。
砂浜にはビーチボールを追い掛ける若者たち。
波打ち際ではしゃぐ子どもたち。
誰もが遊ぶことに夢中で、俺たちのことなんて視界にも入っていない。
「ほら、誰も気にしてないじゃない」
「いや、今は見てなくても……」
「海って開放的な場所なのよ? みんな遊ぶのに夢中なんだから、私一人なんて気にしないわ!」
「そういう問題じゃないと思うんだけどな」
「結飛って、本当に真面目よね」
そう言って莉夢は俺の手を掴み、ぐいっと引っ張る。
「ほら、行くわよ!」
「ちょ、おい!」
抵抗する間もなく、そのまま波打ち際まで連れて行かれた。
◇ ◇ ◇
波打ち際まで駆け寄ると、冷たい海水が足元をさらりと撫でていく。
照りつける夏の日差しとは対照的に、その冷たさが心地いい。
「冷たっ!」
「何よ結飛、そのくらいで!」
「いや、急に入ると結構冷たいだろ」
「そんなの、すぐ慣れるわよ!」
そう言うなり、莉夢は勢いよく海へ踏み込んでいく。
ぱしゃっ、ぱしゃっと水しぶきを上げながら振り返ると、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「それっ!」
両手で水をすくい上げ、俺へ向かって勢いよくかけてくる。
「うわっ!」
顔へ冷たい水が飛び散り、思わず目を閉じる。
莉夢の楽しそうな笑い声が響いてくる。
「ふふっ! 隙あり!」
「いきなりかよ!」
俺も負けじと水をすくい、莉夢へ向かって投げ返す。
ぱしゃっ!
「きゃっ!」
一瞬驚いたように目を丸くしたかと思えば、すぐに楽しそうな笑顔へ変わる。
「やったわね!」
「先に仕掛けてきたのはそっちだろ!」
そう言って笑う莉夢につられ、俺も自然と笑みがこぼれた。
気付けば二人とも子どものように笑いながら、水を掛け合っていた。
「えいっ!」
再び莉夢が水をかけてくる。
……と思った次の瞬間。
腰の後ろで揺れていた細い尻尾が、海面をひょいと叩いた。
ぱしゃっ!
尻尾が器用に水を跳ね上げ、俺の顔へ一直線に飛んできた。
「ぶっ!」
「どう? 尻尾って便利でしょ?」
得意げに尻尾を左右へ揺らしながら、莉夢がにんまり笑う。
「おい、それズルいぞ!」
「これも私の実力よ♪」
「人間相手にその実力を使うな!」
「ふふっ、負け惜しみ?」
「人間に勝ち目ないだろ、それ!」
楽しそうに笑う莉夢の尻尾は、嬉しさを隠しきれないようにぶんぶんと左右へ揺れていた。
「おい、尻尾まで煽ってくるな!」
「尻尾は正直なのよ♪」
莉夢は勢いよく尻尾を振ると、再び水しぶきが舞い上がる。
「だからズルいって!」
「あはははっ!」
海へ響く莉夢の笑い声につられて、俺も思わず笑ってしまう。
こんなふうに無邪気にはしゃいだのは、一体いつ以来だろう。
◇ ◇ ◇
しばらく水を掛け合って遊んだ後、俺たちは少し沖の方まで泳いでいた。
穏やかな波に身を任せながら息を整えていると、不意に莉夢が首を傾げる。
「……あれ?」
「どうした?」
「なんか翼が重たい気がするのよね」
そう言って背中の翼を見ようとするが、自分ではよく見えないらしい。
「どれどれ……」
近寄って見てみると、小さな黒い翼には緑色のわかめが何本も絡みついていた。
「……莉夢。翼にわかめ生えてる」
「え? うそ!」
慌てて背中を見ようとする莉夢だったが、自分では見えない。
「ちょっと取ってよ!」
わかめを取ろうと近づこうとした、その瞬間だった。
莉夢は翼を勢いよくぱたぱたと羽ばたかせる。
「ちょっ、待――」
べちゃっ。
飛ばされたわかめが、見事に俺の頭へ着地した。
「…………」
「…………」
「あははははっ!」
腹を抱えながら、莉夢は楽しそうに笑う。
「結飛、すっごい似合ってる!」
「似合って嬉しいものじゃねぇよ!」
頭に張り付いたわかめを掴みながら抗議すると、莉夢は笑いを堪えるように口元を押さえた。
「わざとじゃないから。ふふっ」
「わざとだったらタチ悪いわ!」
「あはははっ!」
◇ ◇ ◇
しばらく遊び続けた後、俺たちは沖から少し離れた穏やかな場所まで泳いできた。
「結飛、こっちこっち!」
莉夢が手を振りながら、大きな浮き輪をぽんぽんと叩く。
「何だ?」
「いいから乗ってみて!」
言われるがまま浮き輪へ身体を預ける。
ふわり、と身体が水面へ浮かび、ゆっくりと波に揺られ始めた。
「……おぉ」
思っていたより気持ちいい。
波がゆっくりと身体を揺らし、浮き輪に身を預けているだけで、不思議と力が抜けていく。
何もしない。ただ空と海を眺めているだけ。
それだけなのに、妙に心地よかった。
そんな俺を見て、莉夢は満足そうににやりと笑った。
「どう?」
「……悪くないな」
「悪くない、じゃないわ。これよ、これ!」
「?」
「何もしないで、ぷかぷか浮いてるだけ。最高に堕落してるでしょ!」
「その言い方だと、なんかダメ人間みたいなんだけど」
「いいのいいの!」
くすっと笑うと、莉夢は俺の浮き輪へ軽く寄りかかる。
「こうやって何もしない時間って、大事だと思わない?」
空を見上げると、白い入道雲がゆっくり流れ、その下では波が穏やかに揺れている。
「……まぁ、たまにはこういうのも悪くないか」
「ふふっ♪ 結飛、少し堕落してきたわね」
嬉しそうに笑う莉夢の尻尾が、水面の上でゆらゆらと揺れていた。
◇ ◇ ◇
気付けば、空は夕焼け色に染まり始めていた。
昼間は眩しかった海も、今では橙色の光を受けて穏やかに輝いている。
「もうこんな時間か」
「ほんとねぇ」
砂浜へ並んで腰を下ろし、俺たちは水平線へ沈んでいく夕日を眺めていた。
昼間まで響いていた賑やかな笑い声も少しずつ遠ざかり、波の音だけが静かに耳へ届く。
「今日は楽しかった?」
「なんだかんだ振り回されたけどな」
「でも、結飛も笑ってたじゃない」
「……否定はしない」
莉夢は満足そうに頷くと、にやりと口元を緩めた。
「よーし! この調子で残りの夏休みも、結飛を堕落させるわよ!」
「……おいおい」
波の音だけが静かに響く。
ゆっくりと海へ沈んでいく夕日を眺めながら、俺は今日一日を思い返していた。
笑って、騒いで、のんびりして。
あっという間に過ぎてしまった一日。
夏休みは、まだ始まったばかり。
この先もきっと、莉夢は俺を振り回すんだろう。
――だけど、それも悪くない。
そんなことを思いながら、俺たちは夕日が海へ沈むまで、並んで眺め続けていた。




