第11話「補習だけはイヤ!」
教室にホームルーム開始を告げるチャイムが鳴り響く。
担任の教師は出席簿を閉じると、教卓を軽く叩いた。
「さて、もうすぐ期末テストだな」
教室のあちこちから「げぇ……」「もうそんな時期かぁ」と気の抜けた声が漏れる。
「当然だが、赤点を取った者は夏休みに補習を受けてもらう。覚悟しておけよ」
その言葉に教室がどっとざわつく。
「うわぁ、補習だけは勘弁……」
「今年こそは赤点回避しねぇと」
そんな声が飛び交う中――。
「……」
隣に座る莉夢が、まるで世界の終わりでも告げられたような顔で固まっていた。
顔色は青ざめ、肩は小刻みに震えている。
「お、おい莉夢?」
「……まずいわ」
「何が?」
莉夢はゆっくりと俺へ顔を向ける。
その瞳には、これまで見たことがないほどの焦りが浮かんでいた。
「このままじゃ、夏休みが終わる……」
「いや、まだ始まってすらないだろ」
◇ ◇ ◇
ホームルームが終わり、先生が教室を出ていく。
クラスメイト達が帰り支度を始める中、莉夢だけは机に突っ伏したまま、ぴくりとも動かなかった。
まるで魂でも抜けたようだ。
「おーい、生きてるか?」
「……ぎりぎり」
机に額をつけたまま、か細い声だけが返ってくる。
「まだ死んでなかったか」
「……結飛」
ようやく顔を上げた莉夢は、俺を見つめると観念したように口を開いた。
「お願いがあるの」
「今度は何だよ」
「私に、勉強を教えてほしいの」
「……は? お前が勉強?」
「ちょっと、その反応失礼じゃない!?」
「いや、だってお前、この前も『勉強なんて人間が勝手に作った制度よ』って言ってただろ」
「うっ……」
痛いところを突かれたのか、莉夢は気まずそうに視線を逸らす。
そして小さくため息をつくと、諦めたように打ち明けた。
「……実は、中間テストで赤点を取って、補習だったの」
「自業自得だろ」
「ぐぬぬ……」
莉夢は悔しそうに頬を膨らませる。
どうやら図星らしい。
「今度も補習になったら私……」
言葉を濁したまま俯く。
少しだけ、まともな事情でもあるのかと思った。
莉夢は勢いよく立ち上がり、机をばんっと叩いた。
「結飛を堕落させる時間がなくなっちゃうじゃない!」
「結局そこかよ!」
教室に俺のツッコミが響き渡る。
少しでも心配した俺が馬鹿だった。
◇ ◇ ◇
放課後。
俺たちは駅前のファミレスに来ていた。
テーブルの上へ教科書とノートを広げる。
向かいでは、莉夢がどこかそわそわした様子で座っていた。
「よし。まずは数学からだ」
「その前にパフェ頼んでいい?」
「……勉強しに来たんだよな?」
「ドリンクバーも付けちゃお!」
「増えてるじゃねぇか」
「勉強は長期戦なんだから準備は大事よ」
「本当に勉強する気あるのか?」
運ばれてきたチョコレートパフェを前に、莉夢は目をきらきらと輝かせていた。
「いただきまーす!」
嬉しそうにスプーンを手に取り、一口頬張る。
「ん~! おいしい!」
「……それ食べ終わったら勉強だからな」
「分かってるわよ♪」
数分後。
「……うぅ~」
パフェを食べ終えた莉夢は、さっそく教科書とにらめっこを始めた。
「まだ一問目だぞ」
「数学って、こんなに難しかったかしら……」
「難しいんじゃない。公式を覚えてないだけだ」
ノートへ途中式を書きながら、問題の解き方を一つずつ説明していく。
「ここまでは分かるか?」
「う、うん……多分」
「多分じゃなくて、自分で解いてみろ」
「えぇ~……」
ぶつぶつ文句を言いながらも、莉夢は鉛筆を動かし始めた。
途中で何度か手が止まり、そのたびに俺がヒントを出す。
「そうそう。その調子」
「できた!」
「正解」
「やったぁ!」
嬉しそうに笑う莉夢を見て、思わず苦笑が漏れる。
◇ ◇ ◇
それからしばらく。
数学、英語、国語……。
何問か問題を解き進めていくうちに、莉夢の表情から少しずつ余裕が消えていった。
「もう疲れたぁ……」
莉夢は机へ突っ伏しながら、大きくため息をついた。
「まだまだあるぞ」
「うげぇ……」
情けない声を漏らしながらも、莉夢は再び教科書へ目を向ける。
だが、その集中力は長くは続かなかった。
「ほら、この問題もやってみろ」
「はーい……」
返事だけはするものの、どこか上の空だ。
俺もそんな様子を気にしつつ、問題集へ視線を落とした、その時だった。
ちょん。
「……?」
気のせいかと思い、そのまま問題を解き進める。
すると。
ちょん。ちょん。
また何かが足へ触れる。
ゆっくりとテーブルの下へ視線を向けると、莉夢の尻尾が楽しそうに左右へ揺れていた。
「……おい」
「ん?」
莉夢は何事もなかったかのように教科書へ視線を向けたまま、小首を傾げる。
……絶対わざとだ。
「俺の足で遊ぶな」
「えへへ、バレちゃった♪」
悪びれた様子もなく笑った、その直後。
すりっ。
今度は尻尾が俺の足へまとわりつくように撫でてきた。
「おい」
「何?」
「今度は分かりやすくなってるぞ」
「だって、結飛の反応が面白いんだもの♪」
「勉強しろ」
「えー」
口では不満そうに言いながらも、莉夢の口元は楽しそうに緩んでいる。
「あと一回やったら尻尾掴むぞ」
「掴めるものなら、掴んでみれば?」
挑発するように尻尾が左右へ揺れる。
……言ったな。
何事もないように問題集へ視線を戻す。
だが、意識だけは足元へ向けたまま、静かにその時を待つ。
すると――。
すりっ。
今だ!
俺は素早く手を伸ばし、尻尾をひょいっと掴んだ。
「ひゃんっ!?」
店内に響いた可愛らしい声に、周囲の客が一斉にこちらを振り向く。
「お、おい! 変な声出すな!」
「だってぇ……そこは敏感だから~」
「誤解を招く言い方するな!」
近くの席から「何あれ……」と小さな声が聞こえてくる。
「ほら見ろ! 完全に誤解されてるじゃねぇか!」
「えへへ、ごめんごめん♪」
そう言いながらも、莉夢は全く反省していない笑顔を浮かべていた。
「ほら、ちゃんと勉強するぞ」
「はーい……」
さすがに反省したのか、莉夢は素直に教科書へ向き直った。
それから俺たちは黙々と問題を解き進めていった。
◇ ◇ ◇
「終わった~!」
大きく伸びをしながら、莉夢が椅子へもたれかかる。
「今日はな。これからテスト前までは毎日だぞ」
「え~……」
「え~じゃない」
「でも、そもそも勉強って何のためにやるの?」
「何のため?」
思わず聞き返す。
勉強の文句でも言うのかと思ったら、予想外の質問だった。
「だって悪魔は魔法とか戦い方を覚えるけど、人間は毎日こんな計算ばっかりしてるじゃない」
そう言われてみれば、悪魔と人間じゃ学ぶものが違うのも当然か。
「まぁ……将来のためとか、進学とか、就職のためとか。そんな感じじゃないか?」
自分で答えながら、どこか曖昧な返事だと思った。
莉夢は納得した様子もなく、少し首を傾げる。
「じゃあ、結飛は何かやりたいことでもあるの?」
「えっ……」
先生にも親にも、将来のために勉強しろとは何度も言われてきた。
だから勉強することを疑ったことなんて、一度もなかった。
けれど、その先で自分が何をしたいのかと聞かれると、頭の中は不思議なくらい真っ白だった。
「……考えたこと、なかった」
「え?」
「何となく勉強して、何となく高校に入って……その先も、何となく進むんだろうなって」
莉夢はきょとんとしたまま俺を見つめている。
「じゃあ何のために勉強してるの?」
「……分からない」
言葉にしてみると、自分でも驚くくらい空っぽな答えだった。
しばらくの間、二人の間に静かな沈黙が流れた。
店内には食器の触れ合う音や、楽しそうに談笑する声だけが響いている。
少し気まずい空気になるかと思った、その時だった。
「へぇ~。結飛って、夢がないのね」
「……悪いか?」
「ううん」
莉夢は首を横に振ると、口元へいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「そういう人の方が堕落させやすそうだし♪」
「おい」
せっかく少し真面目な話になったと思ったのに。
やっぱりこいつはこいつだ。
「とにかく補習は回避しなきゃね」
「そう……だな」
「夏休みにいっぱい堕落させて、絶対契約してもらうんだから!」
「だからしないって」
◇ ◇ ◇
それから数日後――。
期末テストの答案がすべて返却された。
「見なさい、結飛!」
隣の席で莉夢が満面の笑みを浮かべながら答案を突き出してくる。
「赤点、全部回避したわ!」
「本当か?」
「ええ、結飛が教えてくれたおかげよ!」
答案へ目を通す。
「……全部、赤点ギリギリじゃねぇか」
どの教科も、あと数点低ければ補習行き。
まさに紙一重だった。
「赤点じゃないからセーフよ!」
「まぁ、そうだけど……奇跡だな」
「失礼ね! 努力の成果よ!」
胸を張る莉夢を見て、思わず笑ってしまう。
付き合わされた時はどうなることかと思ったけど。
こうして無事に補習を回避できたなら、教えた甲斐はあった。
「これで夏休みは自由よ!」
莉夢はガッツポーズを決める。
……本当に嬉しそうだ。
「これで契約成立まで一直線ね!」
契約なんてする気は、これっぽっちもない。
けれど。
今年の夏休みは、賑やかになりそうだ。




