第10話「雨の日の誘い」
放課後を告げるチャイムが鳴り、生徒たちが次々と教室を後にしていく。
俺も鞄を肩へ掛けると、昇降口へ向かった。
外では昼から降り続いていた雨が、まだ止む気配を見せていない。
傘立てから傘を取り出し、帰宅しようとした、その時だった。
「結飛!」
聞き慣れた声に振り返る。
小走りで駆け寄ってきたのは、もちろん莉夢だった。
「帰るの?」
「ああ」
「ふふっ、ちょうどよかったわ♪」
「何がだよ」
「結飛~、ちょっとお願いがあるんだけど」
「断る」
「まだ何も言ってないじゃない!」
いや、言わなくても分かる。
こいつがこういう笑みを浮かべている時は、大抵ろくでもないことを思いついているんだから。
「どうせろくでもないことだろ」
「失礼ね!」
莉夢はむっと頬を膨らませると、不満そうに俺を睨んだ。
……そして、ちらりと俺が持つ傘へ視線を向ける。
「傘に入れてくれない?」
予想はしていたけど、やっぱりそう来たか。
「自分の傘は?」
「持ってないわ!」
胸を張って言うことじゃない。
「いや、なんでだよ」
「必要ないと思ったもの」
悪びれる様子はまるでない。
むしろ、胸を張る姿は「何が悪いの?」と言いたげだった。
「今日、午後から雨って予報だっただろ」
「そうだったの?」
きょとん、と首を傾げる莉夢。
……まさか、本当に知らなかったのか。
「見てなかったのか」
「人間界の天気予報なんて当たらないと思ったの!」
「普通に当たってるじゃねぇか」
そう言って外へ目を向ける。
雨は弱まるどころか、むしろさっきより勢いを増しているように見えた。
「これじゃ、しばらく止みそうにないな」
思わず漏らした呟きに、莉夢がくすっと笑う。
「だったら、仕方ないわよね?」
何が仕方ないんだ、と聞き返す前に、莉夢は一歩こちらへ近付いた。
ふわりと揺れた尻尾が、俺の腕へそっと触れる。
「ねぇ、結飛。お願い♪」
甘えるように首を傾げ、小悪魔らしい笑みを浮かべる。
尻尾の先が、ちょん、ちょん、と袖をつつく。
分かっていてやっている。
その仕草も、声も、全部。
……悪魔らしいと言えば悪魔らしい。
「一緒に入れて?」
「……その顔すれば何でも通ると思うなよ」
「通るでしょ?」
即答だった。
しかも、にやりと悪戯っぽく笑っている。
これ以上押し問答していても埒が明かない。
どうせこいつは簡単には諦めないだろう。
「仕方ない。近くにコンビニあるから、そこまで連れてってやる。傘買え」
「えぇ~、家まで送ってくれないの?」
「お前んち知らないし」
「あっ……そうだったわね」
「だろ?」
「じゃあ、今日はコンビニまでで我慢するわ」
莉夢は少しだけ不満そうに口を尖らせながらも、俺の隣へ並んだ。
傘を少し莉夢の方へ傾け、車道側へ回る。
そのまま二人で校門を後にした。
雨音だけが静かな住宅街に響いている。
「そういえば、人間って雨の日に弱いって聞いたわ」
「弱いって何だよ」
「風邪を引いたり、気分が落ち込んだりするんでしょ?」
「……まあ、人によるけどな」
「つまり、堕落させるなら雨の日の方がいいってことね♪」
「それとこれとは話が違うだろ」
莉夢はくすくすと楽しそうに笑う。
「でも、気分が落ち込んでる方が誘惑しやすいのは事実でしょ?」
「俺は堕ちないからな」
「ふふっ、今に見てなさい。絶対結飛を堕落させてみせるんだから!」
その時だった。
前方から一台の乗用車が近付いてくる。
その先には、大きな水たまり。
「……っ」
嫌な予感が胸をよぎる。
車は速度を緩めることなく、水たまりへ突っ込んだ。
バシャアアアッ!!
「きゃあっ!」
「うわっ!」
大量の泥水が勢いよく跳ね上がり、俺たちを容赦なく飲み込む。
咄嗟に傘を前へ突き出したものの、時すでに遅かった。
制服も髪も、一瞬で泥水に濡れてしまった。
「マジか……」
「最悪……あの車! よくもやってくれたわね!」
莉夢は走り去っていく車を睨みながら、悔しそうに頬を膨らませる。
「今日は厄日か?」
「も~、気持ち悪いぃ……」
制服に張り付いた雨水を払おうとするが、当然そんな程度で乾くはずもない。
「……仕方ない。一先ず、俺の家に行くか」
「え?」
一瞬きょとんとした莉夢の表情が、みるみる明るくなる。
「またお邪魔していいの?」
「今回は緊急事態だからな」
「じゃあ、遠慮なくお邪魔するわ♪」
さっきまで不機嫌そうだった莉夢は、途端に機嫌を直したように笑みを浮かべた。
俺たちは足早に家へ向かった。
◇ ◇ ◇
家に着くなり、俺は洗面所からタオルを二枚取り出した。
そのうち一枚を莉夢へ手渡すと、自分の部屋へ向かう。
クローゼットを開け、適当なTシャツとジャージを取り出してリビングへ戻った。
「ほら」
莉夢へ差し出すと、服と俺の顔を交互に見つめる。
「これ……」
「俺のだけど、濡れたままよりマシだろ」
「ありがと」
莉夢は嬉しそうに受け取り、胸元へ抱き寄せた。
「洗面所の奥が風呂場だ。ひとまずシャワー浴びてこい」
「結飛は?」
「俺は後でいい」
「ふふっ、じゃあお先に失礼するわ」
莉夢はタオルと着替えを抱えたまま洗面所へ向かいかける。
だが、不意に足を止めると、くるりとこちらを振り返った。
「ねぇ、結飛」
「ん?」
悪戯っぽく口元を緩めた莉夢は、小さく首を傾げる。
「……一緒に入る?」
「っ……!」
一瞬だけ言葉に詰まる。
「ば、馬鹿言ってないで、早く行ってこい!」
「あははっ♪」
莉夢は楽しそうに笑いながら、今度こそ洗面所へ消えていった。
……本当に調子が狂う。
数分後、シャワーを終えた莉夢が、俺のTシャツとジャージ姿でリビングへ戻ってきた。
サイズが合っていないせいで、普段よりどこか幼く見える。
「どう? 似合ってる?」
その場でくるりと一回転してみせる莉夢。
自分で貸しておいてなんだけど。
俺の服を女子が着ているという光景に、今さら妙な気恥ずかしさを覚えた。
「……まぁ、悪くないんじゃないか」
「ほんと? やった!」
満足そうに笑う莉夢を見ていると、銀紫色の髪の先から雫がぽたりと床へ落ちた。
「あれ、髪まだ濡れてるじゃん。ドライヤーあっただろ?」
「ふふっ、必要ないわ♪」
莉夢は得意げに笑うと、右手を軽く持ち上げる。
パチン。
小気味よい音が部屋に響いた。
その瞬間、紫色の光が莉夢の髪をふわりと包み込む。
毛先に残っていた水滴は宙へ浮かび上がり、光の粒へと変わって消えていく。
やがて光が消える頃には、さっきまで濡れていた髪は、さらりと乾いていた。
「……便利だな」
「髪くらいなら簡単よ」
「じゃあ制服も乾かせるのか?」
「それは無理」
「意外と万能じゃないんだな」
「そう都合よくはいかないのよ」
「へぇ……」
そう言って、部屋の隅に干してある制服へ目を向ける。
「乾くまでは、もう少しかかりそうね」
「そうだな」
窓の外では、相変わらず雨が降り続いている。
時計へ目をやると、まだ夕方。
このまま何もしないで待つには、少しだけ時間があった。
何か時間を潰せるものはないかと部屋を見回す。
ふと机の上のノートパソコンが目に入った。
「……映画でも見るか」
「映画?」
「ああ。服が乾くまで暇だろ」
「そんな簡単に見られるの?」
「配信サービス入ってるからな」
「へぇ~!」
莉夢は興味津々といった様子でパソコンの画面を覗き込む。
「じゃあ見ましょう! 何見ようかしら♪」
「俺じゃなくてお前が決めるのか」
作品一覧をスクロールする莉夢は、数秒もしないうちに一本の映画を指差した。
「これなんかどう!」
「……ホラー?」
「そう! 人間はこういうの苦手なんでしょ?」
「人によるけどな」
「ふふっ。結飛が驚くところ、見てみたいのよ!」
「後で泣いても知らないからな」
「泣くのは結飛の方よ!」
そして、三十分後――。
部屋には、映画から流れる不気味なBGMだけが響いていた。
画面の中では、古びた旅館を訪れた若者たちが、懐中電灯の明かりだけを頼りに薄暗い廊下を進んでいる。
軋む床。
風もないのに揺れる襖。
誰もいないはずの奥から聞こえてくる、小さな足音。
「……」
さっきまで余裕たっぷりだった莉夢は、いつの間にかソファの背もたれへぴたりと身体を預け、画面をじっと見つめていた。
「どうした?」
「べ、別に?」
「さっきより静かじゃないか」
「集中して見てるだけよ」
そう答える声は、どこかぎこちない。
その時だった。
画面いっぱいに白い着物の女が映し出される。
ドンッ!!
「ひゃあっ!」
莉夢が短い悲鳴を上げ、勢いよく俺の腕へしがみついた。
不意に触れた柔らかな感触に、一瞬だけ鼓動が速くなる。
「……お、おい」
「ち、違うの!」
俺の腕にしがみついたまま、ぶんぶんと首を横へ振る。
「思いっきり驚いてるじゃないか」
「違うったら違うの!」
頬を赤くしながら言い返す莉夢。
それでも俺の腕を掴む力は、一向に緩まらなかった。
「悪魔なのに幽霊は苦手なのか?」
「悪魔と死霊は全然違うもの!」
むっと頬を膨らませながら抗議する。
「悪魔は魔界の住人。でも、死霊は未練を残した魂なの。得体が知れないじゃない」
「お前が『得体が知れない』って言うのか」
「失礼ね!」
そう言って睨みつけてくるものの、腕は掴んだままで、まるで説得力がなかった。
その直後、画面の奥に映っていた鏡へ、主人公ではない"誰か"の姿が映り込む。
ドンッ!!
「きゃっ!」
今度は俺の腕だけでは足りなかったのか、莉夢はそのまま肩へ身を寄せてきた。
ふわりと甘いシャンプーの香りが鼻をかすめる。
肩越しに伝わる体温に、心臓がどくりと大きく跳ねた。
「だから怖いんじゃないか」
「こ、怖くなんてないもの……!」
そう言い返す声は、さっきまでの自信なんて欠片も残っていなかった。
◇ ◇ ◇
エンドロールが静かに流れ始めた。
しばらく眺めた後、映画を止めて窓の外へ目を向ける。
激しく降っていた雨は、いつの間にか小降りになっていた。
部屋の隅へ目をやると、干していた制服もすっかり乾いている。
「服も乾いたみたいだな」
「……そうね」
「雨も弱くなったし、そろそろ帰れるんじゃないか?」
「…………」
返事がない。
「莉夢?」
振り返ると、莉夢はどこか気まずそうに視線を泳がせていた。
「ねぇ、結飛」
「ん?」
「その……もう少しいてもいい?一人になるの、怖くて」
そう言うと、莉夢は恥ずかしそうに俯いた。
さっきまで「怖くない」と言い張っていた姿は、もうどこにもなかった。
「あれだけ強がってたのにか?」
「うぅ……うるさいわね」
顔を真っ赤にしながら頬を膨らませる莉夢。
どうやら、ホラー映画の影響は思っていた以上に大きかったらしい。
「……ったく。少しだけだからな」
「うん!」
ぱっと花が咲いたような笑顔を浮かべる莉夢を見ていると、思わず笑みがこぼれた。
――まったく。
雨の日というのは、どうにも調子が狂う。




