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異端審問会まであと二週間と迫ったある日、カーハインドに王都からの使者が訪れました。
「いやはや、誠に……誠に胸が痛む思いでございます、カーハインドの皆様」
そう言って家族の揃う応接室へと入ってきた使者は、王都からの長旅のあとだというのに、皺ひとつない上質な官服に身を包み、一筋の乱れもなく髪を整えていました。
使者は、芝居がかった仕草で胸に手を当て、深く、気の毒そうに眉をひそめてみせます。ですが、その瞳の奥に、隠しきれない愉悦の光がギラリと張り付いているように見えたのは、きっと私だけではないでしょう。
部屋の空気がわずかに張り詰めました。
「異端審問会を二週間後に控え、さぞや心痛の日々をお過ごしのこととお察しいたします」
使者は真っ白な絹の手袋をゆっくりと脱ぎながら、懐から一通の書状を取り出します。
「そこで、王家からのささやかな『温情』をお届けに上がりました。……ああ、どうか気を楽に。皆様の負担を減らそうという、慈悲深きお取り計らいなのですから」
白々しい笑みを浮かべた使者は、恭しく、しかし有無を言わせぬ所作で王家の紋章の入った書状を広げます。
その目にはこちらを気遣う色など欠片もありません。まるで、すでに話は決まったことだと言わんばかりの態度でした。
「異端認定による混乱を未然に防ぐため、王都支店ならびに王都における販売網を、王国指定商会へすみやかに移管せよ。なお、これは王命である」
歌うような滑らかな声音で言葉を紡いだ使者は、痛ましそうな顔を作りながらも口元の緩みが抑えきれなかったのでしょう。咳払いを装って口元に手を当てました。
そして満足げに口を閉ざすと、私たちの反応を窺っています。その目には、絶望に打ちひしがれる私たちを見ることへの期待がありありと浮かんでいました。
ですが、残念でしたね。
その期待に応える者は、この場には一人としていません。
王家がこのような命を下すであろうことは、すでに把握していましたから。
情報局からの報せだけではありません。
王都で縁を結んだ一部の貴族たちからも、「近いうちに王命が下るだろう」と注意を促す書状が届いていたのです。
私たちが誰一人として表情を変えないことに、使者は一瞬呆気に取られた顔をしたあと、すぐに面白くなさそうに唇を歪めました。
「わかっていますか? 王命ですよ?」
語気を強める使者に、
「ああ。理解しているとも。だが異端と決まってもいないのに、なぜ販売権を手放さねばならない?」
お父様が落ち着いた声で答えられます。
「ですから、王都の混乱を避けるために……!」
「そのための布石はすでに打ってある。王家に心配していただく必要はない」
「しかし、異端認定が下れば――」
「その時に改めて話せばよい」
お父様は使者の言葉を静かに遮られました。
「まだ何一つ決まってはいない。それにもかかわらず、我が領の財産と販路を差し出せとは、ずいぶんと気の早い話だ」
「そ、それは……」
「それとも王家は、異端審問会の結果がすでに決まっているとでも申されるのか?」
お父様の言葉に返す言葉を失った使者は、忌々しげにこちらを睨みつけました。そして、ぐっと拳を握りしめると、苦し紛れに言葉を絞り出します。
「……カーハインドは王命に従わないのですか?」
「論点のすり替えは見苦しいですよ、使者殿」
お父様の声音は、低く、そして凍りつくほどに冷ややかでした。
「我が家は王命の正当性と、その大義名分について事実を述べたまでだ。正当な理由もなしに、嫌疑の段階で臣下の財産を毟り取る……それが本当に『王命』なのだとしたら、王家は自ら法を破るおつもりか」
鋭い眼差しに使者が息を呑むと、お父様はそのまま使者を完全に見放すように言いました。
「これ以上、我が領地で不躾な脅しを口にされるな。……お引き取りを」
お父様の冷徹な一言に、使者は言葉を失って立ち尽くしました。助けを求めるように視線を巡らせるも、そこにいたのは、自分を完全に呆れた目で眺めるおじい様や、冷笑を浮かべるハイリお兄様たちの姿です。
この部屋の誰もが王家を恐れてなどいない。その事実に気づいた使者は、ぐっと奥歯を噛み締め、悔しそうに拳を震わせながらも、鋭い視線で私たちを一瞥します。
「後悔なさいますよ」
使者は屈辱に赤く染まった顔で捨て台詞を残すと、踵を返し、あてつけのように激しく扉を閉めて部屋を飛び出していきました。
バタン、と大きな音が廊下に響き渡り、やがて静寂が戻ります。
ーー
「我が国の王家……いや、院政家の横暴は凄まじいな」
使者が出て行った扉を冷ややかな目で見つめながら、お父様がため息をつきます。
「自国の貴族家が異端の嫌疑をかけられているというのに、守るどころかさらに追い詰めるような真似をするとは……」
おじい様は深く長い、重いため息をつきながら、椅子の背もたれに体を預けました。その顔には怒りを通り越した、深い呆れが刻まれています。
「まるで死肉を漁る禿鷹のようだね」
アルフお兄様が肩をすくめました。ふっと漏れたお兄様の乾いた笑いに、部屋の空気がさらに冷え込んでいくのがわかります。怒る気にすらなれない——そんな、突き放したような空気の中で、
「わかっていたことでしょう。だからこそ我々は独立に向けて動いてきた」
ハイリお兄様は冷静に言い切りました。
「ああ。あとは準備が間に合うかどうかだな……」
マルクお兄様が腕を組み、低く呟きます。
私たちは互いに顔を見合わせ、静かに頷き合いました。
もはや迷いはありません。
これまで積み重ねてきた準備も、人脈も、情報も。
そのすべてが試される時です。
ーーそして、異端審問会前日。
私たちは飛行艇へ乗り込むと、王都へ向けて飛び立ちました。
カーハインドの命運を懸けた戦いが、いよいよ幕を開けようとしていたのです。




