第84話 公爵様は撃沈する
応接間に入ると、ルーカス伯爵がニコニコとした破顔の笑みでソファに座っていた。
「やあ、遠路はるばるよく来てくれたね! ……まあまあ、堅苦しい挨拶や硬い話は後回しにして、まずは乾杯といこうじゃないか」
伯爵はそう言うと、テーブルの上にズラリと並べられた自慢のワインコレクションの中から一本を手にとり、恭しくグラスに注ぎ始めた。
(……く、来るか……!? 乾杯のフリをして、そのまま顔面に投げつけてくる気か……!?)
トクトクとグラスに満たされていく赤い液体を見つめながら、リチャードは全身の筋肉を硬直させていた。いつワインの洗礼が飛んできてもいいように極限の警戒態勢をとっていたのだ。
アンドリューから吹き込まれた、挨拶した途端に、いきなりワインでもぶっかけられるかもな?!という冗談が真実になるかもと思っていたのだ。
「お父様、ワインだけですの? なにか一緒に頂く物は? イノブタラを出せとはいいませんけど」
テーブルの上にワインボトルとグラスしか並んでいないのを見て、アシュリンがあきらかに不満そうな声をあげた。
「お前という奴は相変わらず食べることしか頭にないのか! まずは我が領地自慢のワインを公爵様に振る舞うのが先だ」
断るわけにはいかず、リチャードはルーカス伯爵が注いだワインのグラスを受け取った。
ゴクゴクゴク。
リチャードは一気に飲み干した。
あまりにもリチャードの飲みっぷりがよかったので、気を良くしたルーカス伯爵は次から次へとワインを開ける。
アンドリューの冗談に毒されていた己の浅はかさを呪いながらも、注がれるがままに最高級ヴィンテージを次々と胃袋へ流し込んでいくリチャード。
なんとテーブルにズラリと並んだワインの殆どを、リチャードは飲み干した。
すっかり上機嫌になったルーカス伯爵は、ふっと表情を柔らかくすると、リチャードの手を両手でしっかりと握りしめた。
「ブラックウッド公爵」
「……っ、はい」
「こんな娘ですが、末永くよろしくお願いします」
賛成すると見せかけて、対面した途端に難癖をつけて報復されるのではないかとずっとビクビクしていたリチャードは、あまりにもあっさりと示された父親の温かい真意に面食らった。
「こちらこそ……アシュリン様を、生涯かけて大切に——」
と次の言葉を言いかけた途端、全身を固縛していた極限の緊張が一気に解けた。
緊張の糸が切れたことで、短時間に大量に流し込んだアルコールが急激に脳へと回っていく。視界が急速にぐにゃりと歪んだ。
「……あ……」
次の瞬間、公爵様はそのままバタリと横に倒れたのだった。
アシュリンの叫びと伯爵の焦り声を遠くに聞きながら、リチャードの意識は心地よい静寂の中へと落ちていったのだった。
公爵様が倒れたことで応接間は大騒ぎになった。リチャードは直ちに館の客室へとおぶって運ばれたのだった。
ベッドの脇で、アシュリンはぷくっと頬を膨らませて父親を詰問している。
「ーーもう! だから『一緒に頂く物は?』って聞いたのに……お父様ったら!! ワインばかり飲ませたら、こうなりますわ!」
「……てっきりお前が食い気だけで聞いてきたのかと……アシュリン。お前、成長したなぁ!」
対するルーカス伯爵は、娘の剣幕に反省するどころか、感心したような眼差しをアシュリンに向けた。気遣いができるようになった娘の成長に感動していたのだ。
「何をしみじみ変なカンドーしてるんですか! お父様。もう!!」
ぷりぷり怒るアシュリンの横で、ルーカス伯爵はそっと目頭を押さえた。
「お前が結婚か……ミラはお前がどうなるのか、最後まで気に病んでいた。生きていたら、誰よりも祝福しただろうにな」
ミラというのは、アシュリンの実母である。ミラの叔母ーーつまりアシュリンにとっての大叔母もまた、アシュリンと同じ『筋肉モンスター』であった。故に、誰とも結婚できずに生涯を終えたのだった?!
だからこそアシュリンが幼き頃に筋肉モンスターの片鱗を見せ始めた時、母ミラは娘の未来を案じ、『筋肉を決して鍛えないこと』、『人前では猫を被ること』を固く教え込んだのだった。
「お母様のことを持ち出すなんて……お父様ったら」
と言いながら、アシュリンの目からもぽろぽろと涙が溢れ出た。
「お父様……私……リチャードを大切にして……そして私自身も幸せになります」
「そうか……私は何も反対しない。幸せになりなさい」
そう言って、ルーカス伯爵はアシュリンを優しく抱きしめたのだった。




