第80話 筋肉モンスターは狩りに出かける
まだ半分寝た状態ではっきりしない頭。
しかし、部屋の隙間からふわぐぐ…と漂ってきたあまりにも魅力的な匂いに釣られて、アシュリンはむくりと起き上がった。
胃袋が「朝食の時間だ」と歓喜の産声を上げる。
ぼさぼさの髪のままフラフラと匂いの源を探して部屋を出て、食堂へと吸い寄せられていった。
ガチャリと扉を開けると――そこには、何やら尋常ではない雰囲気を纏った面々がテーブルを囲んでいた。
普通のご令嬢であれば、見慣れない男たちに対して警戒心をにじませ、足を止めるところだろう。
俗世間にも貴族社会の顔ぶれにも一切関心がないアシュリンにとって、今目の前にいる人達の顔も名前もさっぱりだった。
エカテリーナとは昨晩会っていたが、彼女がまさかのグリムロック王国の王女だと知る由もなかった。
「おはよう、アシュリン嬢。その顔だと、ぐっすり眠れたようだな」
入ってきたアシュリンの姿を見るなり、優雅にお茶を嗜んでいたエカテリーナが声をかけてきた。
「おはようございます。えっと……すみません、お名前がうろ覚えです」
正確に言うと、名前だけではないのだが。
「エカテリーナだ」
「あぁ、エカテリーナさん。えぇ、もうばっちりです! 昨夜のあのイノブタラパイは最高でした! やはりイノブタラは神ですわ。エカテリーナさんも食べればよかったのに」
「いや、私はあんな脂っこい物はたとえ昼食でも遠慮したいな」
と、エカテリーナは可笑しそうに笑った。
そのやり取りを聞いていた、朝食を食べていた男たちの手がピタリと止まる。
まさか、という思いが皆の胸によぎる。
ーーアシュリン・ルーカス伯爵令嬢は、目の前にいるお方がグリムロック王国の王女エカテリーナだと分かっていない!?
男たちが絶句する中、温かいスープと焼き立てのパンを卓の上に手際よく並べながら、マーサが口を開いた。
「まあまあ、やはりアシュリンさんはお若いんですね。奥様は昨夜のあのイノブタラパイが重かったらしくて、今朝は胃の調子が悪いそうです」
「え……大丈夫なんですか?」
アシュリンが心配そうに尋ねると、マーサはため息をひとつ吐いた。
「ただの食べ過ぎの腹痛でございます。私があれだけ止めたのに、お召し上がりになった奥様の自業自得ですから、心配には及びません」
容赦のないマーサの言葉に、アシュリンは苦笑いしながら出された朝食を遠慮なく頬張り始めた。
香ばしい焼きたてパンとカリカリのソーセージを口いっぱいに詰め込み、至福の表情を浮かべるアシュリン。
そんな彼女の豪快な食べっぷりを満足そうに見つめていたエカテリーナが、フッと不敵な笑みを浮かべて話しかけた。
「アシュリン嬢、我々はこれから森に狩りに出かけるんだが、あなたも一緒にどうだろうか?」
「え……狩りですか」
パンを咀嚼しながら、急な誘いに一瞬首を傾げたアシュリンだったが、エカテリーナの次の一言で目の色がガラリと変わる。
「イノブタラも何頭か、狩ろうと思っている」
イノブタラーーその言葉を聞いた瞬間、アシュリンの目が爛々と輝いた。
昨夜食べたあのジューシーで極上のミートパイの味が、脳裏を駆け巡る。
「是非、ご一緒させてください!」
リチャードへのプロポーズの返事のことなど、今の彼女の頭からは完全に消え去っていた。
恐るべし!イノブタラの魔力である。
こうして、ブラックウッドの森へ狩りに出かけた三人。
エカテリーナの護衛であるはずの二人、アレンとテオはついて来ていない。
二人にはエカテリーナが他の用を言いつけたのだ。それは本宅にいるであろうリチャードをどんな手段を使ってでもいいから連れて来るようにと厳命したのである。勿論、アシュリンにはその事を一切教えていなかった。
「アシュリン嬢は銃を扱った事は?」
道中、エカテリーナが手にした一丁の銃を撫でながら尋ねてきた。
「いえ……ないです」
「そうか残念だな。銃を扱えるなら、最新式の銃をお貸ししようと思っていたのだが……どうだろうか? 美しいフォルムだとは思わないか」
そう言われても、銃に興味もないアシュリンにはその良さなどわかるはずもなかった。
横で会話を聞いていたアンドリューがクスクスと笑っていた。
「なにかおかしいのか?」
「普通のご令嬢に銃の事を聞いてもさっぱりだと思いますよ」
「そうなのか?!」
と言ってエカテリーナは、本気で意外そうにアシュリンの顔を見た。
「イノブタラは好きです! あれは本当に神の肉です。だからエカテリーナさんがイノブタラを沢山狩ってくれるのを楽しみにしてます」
「勿論だ!! 今夜はイノブタラパーティが出来るよう、仕留めてやる」
エカテリーナの高笑いがブラックウッドの森に響いた。




