第79話 嬉しさと 眠気と 食欲と
夢中でイノブタラのミートパイとスープを頬張るアシュリンのあまりに幸せそうな顔を見て、ララが目を細めた。
しかし、その目は次第にじっと料理へと注がれていく。
ゴクリ、と喉を鳴らしたララは、ついにマーサへ振り返った。
「マーサ、スープとパイはまだあるかしら?」
「奥様、夕食はお召し上がりあそばしたではありませんか?」
呆れたように眉をひそめるマーサに、ララはふふっと微笑む。
「えぇ。でも、なんだか食べたくなりましたわ」
「今食べたら、脂肪になりますよ」
「いいわ、脂肪でも……美味しい物を食べられれば、脂肪だろうが少しも怖くないわ!」
ララはマーサに自分の分も用意させたのだった。
深夜の別宅で突如として『夜食パーティー』の女子会が始まった。
アシュリンとララはパイとスープを食べ、マーサは紅茶を飲み、談笑していた。
あまりにも賑やかな食卓の様子を聞きつけて、二階に滞在していたエカテリーナがやって来た。彼女は食卓に並べられた料理を見て呆れていた。
「こんな時間に、随分とヘビーな事をなさってらっしゃる」
「まぁ、エカテリーナ様。起こしてしまったかしら?」
「いえ、まだ……起きておりましたので」
と言って、彼女はアシュリンのほうをじっと見た。
「こちらは、もしかしてルーカス伯爵令嬢のアシュリン嬢? じゃあ兄上と一緒にお戻りに?」
「リチャードは……そういえば、出ていってきりだわね」
と、ララが首をかしげて言った。
リチャードがアシュリンに会いに行ったのを知っているのは、エカテリーナとアシュリン本人だけである。
他の者たちはただ、「リチャードが夜遅くに別宅を出て行った」という事実しか知らなかったのだ。
そして――リチャードの名前が出たことで、ようやくアシュリンはここに来た本来の目的を思い出し、食べていたパイを喉に詰まらせかけた。
「ゴホッ! ゲホッ……ッ!?」
慌ててマーサが差し出した水をごくごくと飲み干し、胸をドンと叩いてどうにか喉を開通させるアシュリン。
そして彼女は、すくっと席を立った。
リチャードがここにいないということは、ブラックウッド公爵の本宅なのかもしれない。だったら、すぐに行くべきだとアシュリンは判断した。
「ご馳走様でした。私はこれで失礼致します」
「待ちなさいアシュリンさん! 一体どこへ行くおつもりなの!?」
慌ててララが立ち上がり、アシュリンの腕を掴んだ。
「本宅ですわ! リチャード様に……求婚の返事をしに行かなければならないのです!」
「求婚……!?」
食堂に、本日一番の激震が走った。
ララは目を見開き、マーサは手に持っていたトレイを落としそうになる。
「まあ! リチャードが……!?」
「坊ちゃまがアシュリン様に求婚を……!?」
「あの慎重な兄上としては上出来だな」
エカテリーナはそう言って笑っていたが、急に神妙な顔になった。
「それで……何故? 兄上と一緒ではないんだ」
至極真っ当な質問だった。
リチャードが求婚したのに、リチャードとアシュリンは一緒にいない。
それも、今から返事をするという。
「あの……その……それが……ちょっとした行き違いが……」
まさかここで『リチャードの求婚を受けて嬉しさのあまり失神した』などと言えるはずもなかった。
「行き違い……?! まぁそれはしようがないが……」
(返事がまだとは……兄上、今どんな気持ちなんだろうか? ちょっと笑えるな)
エカテリーナはそう思いつつも、コホンと咳払いをしてアシュリンに向き直った。
「アシュリン嬢。気持ちは分かるが、もうこんな深夜だ。それにだ。兄上は私の馬を借りて出かけたので、必ず別宅に戻ってくるはずだ。ここで待っておられたほうが行き違いにならずにすむ」
「そうですわよアシュリンさん!さあマーサ、アシュリンさんにお部屋のご案内を」
「かしこまりました。アシュリン様、どうぞこちらへ」
そう言われてしまっては、断るわけにもいかなかった。それに、お腹が満たされたせいもあってアシュリンは強烈な眠気にも襲われている。
リチャードの事は『明日考えよう』。
彼女は大作小説のヒロインの思考になった。
アシュリンは、マーサに案内された部屋のふかふかのベッドへ吸い込まれて行った。




