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第77話 筋肉モンスターは夜を駆ける

リチャードが去った後も、ベッドの上で「ムフフ……」と気味の悪い笑みを浮かべ続けるお嬢様を前に、ハンスの危惧は深まる一方だった。

プロポーズで失神などあり得ない。やはり何らかの危険な毒キノコでも口にしたのではないか。

事態を重く見たハンスは、夜遅くにもかかわらず、ルーカス伯爵家のかかりつけ医を大急ぎで屋敷へと呼び寄せたのだった。


「ふむ……まずは脈を診てみましょう」

医者はベッドで眠るアシュリンの手を取った。

――その、瞬間である。

「リチャード、嬉しいわ!」

医者の指をガチッと力任せに握りこんだのだ。


気の毒なのは医者である。

夜遅くにわざわざ往診に来た上に、筋肉モンスターに指を握りつぶされかけるという、踏んだり蹴ったりの大惨事。


「ひぎゃああああっ!? ゆ、指が! 指が折れるうううっ!?」

医師の悲痛な悲鳴で、アシュリンはようやく失神から目を覚ました。

ハッと我に返った彼女は、慌てて手を離した。


「あら? 私、どうしたのかしら? ……リチャードは?」

アシュリンは不思議そうに部屋の中を見回した。

しかしそこに居るのは、涙目で右手を抱えて悶絶する哀れな医師と、腕を組んで冷ややかな視線を送ってくる執事のハンスだけだった。


アシュリンはあからさまに落胆した。

――あれは、ただの都合のいい夢だったのだと。


「……ハァ、都合のいい夢を見ていたわ。あのリチャードが、私に求婚なんてするはずないものね……」


ぽつりと漏らされたその独り言を、ハンスの地獄耳は見逃さなかった。

(……まさか、公爵様のお言葉は本当だったのか……!?)


ハンスは心中で激震を覚えた。

……いや、待て。百歩譲って求婚されたのが事実だとしても、あのお嬢様が「求婚された」というごとき理由で失神などするはずがない。

ハンスはまだ諦めず、恐る恐る尋ねた。


「お嬢様……お尋ねしますが、気を失われる直前、何か悪いものでも召し上がりましたか?」

「……は? 何か悪いものって、何よ? ……えっ、私、気を失っていたの!?」

心底心当たりのなさそうな顔で、逆にアシュリンがハンスへ問い返してくる。

「ええ。気を失われたお嬢様を、ブラックウッド公爵様がこちらまで『お姫様抱っこ』でお運びになられました」

「――お、お姫様抱っこ……!?」

そう叫んだ途端、アシュリンの顔色がゆでダコのごとく一気に真っ赤に染まった。

両手を頬に当て、身悶えるお嬢様。

そのあまりに可憐で乙女すぎるリアクションを目の当たりにして、ハンスは完全に面食らってしまった。


(まさか……長年お仕えしてきたお嬢様が、これほどまでに純粋な乙女だったとは……)


毒キノコ説が完全に崩れ去り、ハンスは気を取り直して尋ねた。

「……では、ブラックウッド公爵と婚約されるということですね、お嬢様。……当然、お返事はなさったのですよね?」

「へ、返事? 待って、返事って何……? あれっ……!?」


アシュリンはパニックになりながら、気絶する直前の記憶を必死に手繰り寄せた。

「あ、あ、返事……してないいいいいっ!!」


アシュリンは弾かれたようにベッドから跳ね起きると、自分の部屋から脱兎のごとく飛び出した。


向かうはリチャードの元だった。

背後から響くハンスの制止の声も、もはや『恋する暴走マシン』と化した彼女には何の意味もなさなかった。

求婚の返事を一刻も早く伝えなければならない。彼女の頭の中はそれだけだった。


筋肉モンスターは自分の脚で王都の夜を駆けるのだった。

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