第76話 執事ハンスは疑う、求婚でお嬢様が失神するはずがない!
リチャードに抱きかかえられて戻ってきたアシュリンを見たハンスは、最初こそ大いに驚いた。
だが、リチャードからアシュリンが失神したのだと説明を受けて――
「……お嬢様が、失神、ですか?」
途端に、なんとも言えない訝しげな顔になった。
生まれてこの方、ハンスはアシュリンが「失神」などという、可憐な貴族令嬢が起こすような繊細な事態に陥ったところを見たことがない。
むしろ当の本人は、パーティーなどで倒れる令嬢たちを見ては、真顔で「なぜ皆様あんなに頻繁に倒れられるのかしら。栄養不足か筋肉不足のどちらかじゃないかしら」と本気で心配していたくらいなのだ。
正直、道端で何かを拾い食いして腹痛で倒れたという話のほうが、よほど信憑性があった。
「私が……彼女にショックを与えてしまったようだ」
顔を蒼白にしたリチャードが、罪悪感に苛まれた声で告げる。
「公爵様が、ですか……。お嬢様が道で何か拾って食べようとしたのを、お止めになったとか?」
「いや」
「イノブタラは脂っこいので、あまり食べないように諭されたとか?」
「……いや」
「断食するように言われたとか?」
「……さっきから聞いていると、なぜ食べることばかりなのだ?」
リチャードが困惑混じりに眉をひそめると、ハンスは至極大真面目な顔で頷いた。
「お嬢様が気を失うなんて……食に対するショックくらいしか思い当たりませんので……」
「……っ、違う……」
消え入りそうな声で否定したリチャードは、気まずそうに視線を彷徨わせると、ボソボソと何かを呟いた。
「……プロ……したら……フリーズした……」
あまりに小声だったため、ハンスは首を傾げた。
「……プロ? プロ……プロテインを飲ませたら、フリーズしたのですか?」
「違う。……プロポーズしたら、フリーズしてしまったんだ」
「――」
その言葉を聞いた瞬間。
今度は、ハンスが完全にフリーズしたのだった。
アシュリンを二階の部屋まで運び、無事にベッドへ寝かせると、リチャードは名残惜しそうにしながらも屋敷を後にした。
失神したアシュリンがいつ目を覚ますかもわからない。
いくら窮地を救ったとはいえ、まだ正式に婚約を取り交わしたわけでもない男が、夜更けに年頃の女性の屋敷へ長居するわけにはいかないという、彼なりの誠実な配慮だった。
一方、ベッドに寝かされたアシュリンはというと――気を失っているはずなのに、時折「ムフフ……」とだらしなくニヤついていた。
「ひっ……! や、やっぱりお嬢様、何だか気味が悪いです……!」
看病についたメイドは、夢心地でニヘラと微笑む主人の顔を見て心底気味悪がり、半泣きでハンスに泣きついた。
メイドからアシュリンの不気味な様子報告を受けたハンスは、あごに手を当てて深く深く思考を巡らせる。
(……プロポーズで失神? いや、あり得ない。あのお嬢様だぞ? あれは失神などではなく、道端で笑いキノコでも拾って食べた反動では……?)
公爵様の悲痛なプロポーズ告白を聞いた後であってもなお、ハンスの疑いは全く晴れていないのだった。




