第75話 私がリチャードの婚約者?!
アシュリンの前で、リチャードは大きく一つ息を吐いた。
荒かった呼吸を整えると、手袋を失い、マントを脱ぎ捨てた姿のまま――彼は静かに、そして美しくその場に片膝をついた。
雲が切れ、夜空から差し込んだ月明かりが、二人を柔らかく照らし出す。
騎士道の礼に則った、完璧な作法だった。
乱れた前髪の隙間からアシュリンを見つめるリチャードの瞳は、吸い込まれそうなほど鮮やかな緑色――エメラルド。夜闇の中で月光を反射し、まるで深く静かな森のような、幻想的な輝きを放っていた。
リチャードはアシュリンの手をそっと包み込むように取り、見上げる姿勢のまま、まっすぐに言葉を紡いだ。
「アシュリン・ルーカス伯爵令嬢。……私の本物の婚約者になってもらえないだろうか?」
(本物の婚約者……本物の……偽物じゃなくて……え? それって、リチャードは私のことを……愛……本当に? 待って。今日は何日? 人をたぶらかしてもいい日とか……そんな日、あったっけ? あれ?)
あまりの衝撃に、頭の中の処理メーターがカンストを起こす。パニックになりすぎて、脳内のツッコミすら明後日の方向へ飛んでいっていた。
そんな二人を照らす月光の下。
アシュリンのドレスの裾をくわえていたジョンソンが、ぱっと口を離した。
そして、(まったく。最初からそう言えばいいんだワン)とでも言いたげに、呆れたような顔で「フンッ」と鼻を鳴らしたのだった。
片膝をついたまま、返事を待つリチャード。
だが、いつまで経ってもフリーズしたまま、目を泳がせ続けるアシュリンを見て――彼の緑の瞳に、暗い影が落ちた。
十代の頃。
かつてイザベラに求婚し、手酷く拒絶された時の凄惨な記憶が頭をよぎる。
(……駄目、なのか。私はまた……)
拒絶される恐怖に胸を締め付けられ、リチャードの顔から、すっと血の気が引いていく。
繋いだアシュリンの手を握る指先が、微かに震えていた。
「もし……私で嫌なら嫌だと」
暗い過去のトラウマに呑まれ、消え入りそうな声で言った。
「ワン!」
とジョンソンが吠えた。
そして吠えながら、ジョンソンは固まったアシュリンの周りをグルグルと駆け回り始めた。
ここでようやく、リチャードはアシュリンの様子がおかしいことに気づいた。
「アシュリン……?」
片膝をついていたリチャードは立ち上がると、微動だにしない彼女の顔の前で、おそるおそる手を上下に振ってみた。
アシュリンは無反応だった。白目を剥きかけたまま、ピシッと直立不動で固まっている。
いや、まさか――立ったまま失神しているなんて、夢にも考えつかなかった。
筋肉モンスターゆえに無駄に体幹が強すぎた結果の、前代未聞の失神スタイルである。
「アシュリン! しっかりしろ、アシュリン! 私の求婚はそんなにショックだったのか!?」
トラウマとはまったく別のベクトルで、顔を蒼白にする公爵様。
だが、どれだけ呼びかけても彼女が目を覚ます気配はない。
リチャードは意を決すると、立ったままフリーズしているアシュリンを横抱きにし、しっかりとお姫様抱っこで抱え上げた。ルーカス伯爵家まで戻る覚悟を決めたのだ。
「ジョンソン、案内しろ!」
「ワンッ!」
夜の王都を急ぐリチャードの腕の中で、アシュリンはまさに夢心地だった。
(……リチャードが私の婚約者……もう、夢なら覚めないで……)
アシュリンはまだ、リチャードの求婚に返事をしていない。
彼が勘違いで絶望しているというのに――呑気な筋肉モンスターは、腕の中で幸せそうにニヘラと微笑んでいた。
やはりロマンチックなシーンにはならなかった(笑
だってこの作品は勘違い系ラブコメファンタジーだもん!!




