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第74話 走れリチャード(後編)

エカテリーナの馬を借りて疾走したリチャードが、王都にあるルーカス伯爵家へたどり着いたのは、20時頃だった。

さすがにこの時間の訪問は非常識だと思ったのか、リチャードは申し訳なさそうに執事のハンスへ頭を下げた。


「こんな時間に失礼だと思うが……どうしてもアシュリン嬢に話したいことがある。会わせてもらえるだろうか?」

「もちろんでございます。少々お待ちください」


ハンスが丁寧に応対した、その時だった。

「ワン! ワンワン!」

奥から、けたたましい犬の鳴き声が響いてきた。

廊下を勢いよく走ってきたのは、他ならぬジョンソンだった。


さも「私は昔からルーカス伯爵家の犬でございます」と言わんばかりの堂々たる顔をしている。

だが、ジョンソンは元々リチャードの愛犬だ。

リチャードが偽りの婚約者になることを拒否し、アシュリンがショックのあまりルーカス伯爵家へ戻った時。

ジョンソンは、(見損なったワン)とでも言いたげに、アシュリンについて行ってしまったのである。


ハンスに応接室へ案内されると、当然のようにジョンソンまでついてきた。

「ジョンソン……お前は私の愛犬だよな? なんでルーカス家の犬になっているんだ?」

リチャードが嘆かわしそうに見つめると、ジョンソンは「当然だワン」と言わんばかりにすまし顔で尻尾を振った。

「お前……本当に私のことを主人だと思っているのか?」

「ワン!」

今度は胸を張って答えた。どうやらジョンソンの頭の中では、何も問題はないらしい。

「……まぁいい」

リチャードは諦めた。


リチャードを応接室に案内した後、ハンスは食卓へ向かった。

そこではアシュリンが、夕食のイノブタラのステーキを豪快にかっ食らっている最中だった。

「お嬢様、ブラックウッド公爵がお見えです」


アシュリンの動きが固まった。

「ゲホッ! ゴホゴホゴホゴホッ!」

肉を喉に詰まらせた。


「お嬢様!?」

「水を!」

「誰か医者を呼べ!」

「薬を持ってこい!」


食卓は一瞬にして大混乱に陥った。

ハンスがアシュリンの背中を叩くが、彼女は苦しそうに悶絶するばかり。

使用人たちが水やタオルを求めて右往左往し、ハンスも薬を取りに行くため慌てて食卓を離れた。

――その隙だった。


喉のつかえが取れた瞬間、アシュリンは驚くべき回復力で勢いよく立ち上がった。

そして――。

勢いよく勝手口に向かい、逃げ出した。

「お嬢様!?」

誰も止める暇などなかった。扉を開け放ち、そのまま夜の闇へ飛び出していったのだ。


一方、応接室で待っていたリチャードは、廊下から聞こえてくるただ事ではない騒ぎに眉をひそめた。

部屋の扉を開けると、ちょうど薬を取りに戻ってきたハンスと鉢合わせした。

「どうした? 何か騒がしいが」

「お嬢様が喉を詰まらせてしまいまして」

リチャードは血相を変えて食卓へ駆け込んだ。

だが――そこにアシュリンの姿はなかった。

食べかけのイノブタラのステーキ。

ひっくり返った椅子。

そして、勝手口の扉だけが開け放たれ、夜風にパタパタと揺れている。


その足元を、ジョンソンが駆け抜けた。

開いた勝手口の前で立ち止まり、リチャードを振り返る。

「ワン!」

(ついてこい!)と言わんばかりのひと吠え。

こうして――リチャードとジョンソンによる、アシュリン追撃戦が幕を開けた。


まさかリチャードが追いかけてくるとは思っていなかったアシュリンは、背後から迫る彼の気配と声に振り返った。

「アシュリン!」

「――リチャード!?」


その瞬間、アシュリンの中で何かが弾けた。

後方からリチャードの声と姿を確認するやいなや、彼女はMAX本気モードへと加速した。

まさにマラソンランカー!

かつてペルシャからグリムロックまで駆け抜けた乙女の本気が、ここでも存分に発揮された。


「ワン! ワンワン!」

だが、相手は名ナビゲーターへと覚醒したジョンソンである。

アシュリンの猛ダッシュに食らいつき、そのドレスの裾にガバッと噛みついた。


「きゃっ!?」

引きずられるようにして、ようやく足を止めるアシュリン。

ハァハァと息を乱しながら後ろを振り返ったが――そこにリチャードの姿はなかった。


当たり前だ。

インドの山奥で終業して、ペルシャからグリムロックまでを疾走した筋肉モンスターに勝てる人間等この世にいるはずがない。いくら身体を鍛えているとはいえリチャードが追いつけるはずがなかった。


それから遅れること数分。

「はぁ……はぁ……っ!」

手袋を投げ捨て、マントを脱ぎ捨てた、リチャードが怒涛の猛ダッシュで追いついてきた。髪こそ乱れていたが、日頃から鍛え上げられた身体のおかげで崩れ落ちることなく、真っ直ぐにアシュリンへと歩み寄る。


ジョンソンは、アシュリンの裾をくわえたままリチャードを見上げた。

「ワン」

その顔は、(やれやれ、遅いんだワン)とでも言っているようだった。


「リチャード……大丈夫ですか?」

あまりにも必死な様相で追いかけてきたリチャードを見て、アシュリンは本気で心配した。

「……大丈夫なものか。君に逃げられたら、生きた心地がしない」


肩で荒い息を吐きながらも、リチャードはブレない眼差しをアシュリンに向けた。

「何故逃げるんだ、アシュリン」

「何故って……何故リチャードは私を追いかけて来るんですか? だってリチャードは……リチャードは私のことが嫌いなんですよね?」

「ん? どうして私が君を嫌いなんだ?」

「……偽の婚約者になるのも嫌だったんですよね? それは……私が嫌いだからですよね?」


俯きながら悲しそうに問いかけるアシュリンを見て、リチャードは衝撃を受けた。

そこでようやく、自分がララから提案された「偽りの婚約」の話を断ったのは、アシュリンが『自分を嫌っているから拒否された』と勘違いしていたことに気づいたのだ。


「嫌……それは違う! 断じて違う!!」

リチャードは思わず声を張り上げた。アシュリンが驚いて顔を上げる。

「私が拒否したのは……『偽り』の婚約なんて、嫌だったからだ!」

「……え?」

アシュリンはポカンと口を開けた。

理解が追いつかず、パチパチと瞬きを繰り返した。

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