第73話 走れリチャード(前編)
マーサだけでなく、ララまでもがアンドリューの部屋にやって来た。
「まあ、エカテリーナ様。お久しぶりでございます」
「マーサ、久しぶりだな。後にいるのはララ様か?ずいぶん面影がなくなってしまったが」
「エカテリーナ王女様、お久しゅうございます。まだ貴方がお小さい頃にお会いしてから、随分と時が流れてしまいました」
「そうだな…」
ヨハンとアンドリューの二人は、内心で固く拳を握りしめていた。
マーサだけでなく、ララまで来たので、いくら規格外の王女とて、これで引き下がる、と男二人は思っていたのだ。
だが——。
最初こそ丁寧な挨拶から始まったものの、なぜだか話は和やかな世間話へと脱線し、気づけば「で、どちらのお部屋にご案内しましょうか」という具体的な宿泊プランの相談へと突入していた。
「……ララ様、お袋。まさかエカテリーナ様を、本当にこちらにご逗留させるつもりですか!?」
アンドリューはたまらず声を裏返らせた。
「ん……何か問題があるのか? ヒューイット大佐」
エカテリーナはソファに深く腰掛けたまま、不満そうに片眉を上げた。
「何かって、大問題です! 一応、あなたはグリムロック王国の王族ですよ! それが大した警備もなしに……」
「警備ならアレンとテオがいるし、ヒューイット大佐、お前もいるじゃないか」
「いやいや、お付きの侍女もお手伝いもいらっしゃらないですし!」
「侍女なぞいらん。私は自分の事は自分でするからな」
堂々と言い放つエカテリーナに、アンドリューは「そういう問題じゃない!!」と頭を抱えた。
「そもそもここの領主はリチャード様です。勝手に決めるわけには参りません」
それまで全くの空気と化していたヨハンが、ここで最後の切り札を切った。
(そうだ! 親父!! よく言った!!)
アンドリューは心の中で親父に惜しみない拍手を送った。
「あぁそうだな…それを含めて兄上に話をするか。まぁ兄上が何を言っても、私がしばらくここに逗留するのは揺るがないがな」
エカテリーナは不敵に笑った。
ヨハンとアンドリューの父子は、同時に完全に絶句した。
領主の権限すら「私の前には無力」と言い切る王女の圧に、もうぐうの音も出ない。
アンドリューの部屋を出たエカテリーナは、騎士二人を1階に残し、一人で堂々と階段を上っていった。
そして——リチャードの部屋の前へ立ち止まるやいなや、ノックもなしに思い切りドアを開け放った。
バンッ!という荒々しい音とともに扉が開く。
大変不躾な訪問であったが、リチャードはたいして驚く様子もなかった。
「兄上、ごきげんよう!!」
「相変わらずだな、お前は」
「しばらくここに逗留する事にしたので、一応兄上の許可をもらいに来ました」
「許可も何も…リィーナ、お前は言い出したら絶対だからな。私の許可なんていらないだろ?」
「よくおわかりで。…ところで、兄上、引きこもり中ですか?なんか子供がやることのようで…カッコ悪いですね」
「私にも事情が……」
「事情ですか?…そういえば『ルーカス伯爵令嬢とご婚約なさった』とか、遅ればせながらおめでとうございます」
唐突に核心を突く名前を出され、リチャードは目を見開いた。
「そ…それは母上が勝手に」
「勝手に…でももう王宮ではその噂で持ちきりですよ。なんせスピルバーグ宰相が父上に詰め寄って、大変ご立腹だったので…兄上が引きこもる間に、怒りの矢をルーカス伯爵令嬢、えっとアシュリン嬢が一人で受けなければならないわけですものね、気の毒ですわ」
リチャードの顔から、一瞬で血の気が引いた。
宰相の激怒。王宮での噂。そして、そのすべてをたった一人で背負わされ、庇う者もなく矢面に立たされているアシュリンの姿。
自分が傷つくのを恐れて自室に逃げ込んでいる間に、守るべき大切な人が自分のせいで追い詰められている——。
その現実を突きつけられた瞬間、リチャードの中で何かが弾けた。
彼は立ち上がるとマントを羽織った。
「兄上、王都に向かうのなら、馬車よりも馬で行かれるとよい。そのほうが早い。私が乗ってきた馬をお貸しする」
何もかもお見通しのエカテリーナは、微笑んだ。
リチャードは、完全にエカテリーナの策に乗せられたことを悟った。 だが、今はそれでいい。
「そうさせてもらう」
そう答えると、リチャードは部屋を飛び出していった。
走れ、リチャード。
今度こそ、はっきりと自分の想いを伝えるために。




