第67話 帰って来た筋肉モンスターは淑女と化す
リチャードに一刻も早く会いたい。その一心でアシュリンはペルシャから駆けて来た。
彼女はブラックウッド公爵の別宅の前に立ち、玄関ドアを叩いた。
コンコン。
インドの山奥へ修業に行く前のアシュリンなら、ドアを叩いた瞬間にそのままぶち破っていたに違いない。
だが、力の制御を完璧に身につけ「シン・アシュリン」へと進化した今の彼女のパワーは、完全にコントロールされていた。
「あら? 誰も出ていらっしゃいませんわね」
アシュリンはドアに取り付けられた引っ張り式の呼び鈴を引いてみた。
だが、それでも応答する気配はない。
それもそのはず、ブラックウッド公爵の別宅にはマーサとヨハン、それにいつの間にか居候と化した料理長しか使用人がいないのだ。
通常なら呼び鈴が鳴れば執事室にいるヨハンが気づいて応対するのだが、生憎と今の彼は食卓にいた。
そもそも、この別宅へ歩いてやって来る者などいるはずもない。基本は馬車である。馬車で来れば、車輪の音でマーサかヨハンもすぐに気づいたはずなのだ。
仕方なく、アシュリンは勝手口のある裏手に回ることにした。
――その頃、食卓では。
リチャードがマーサと母ララによる、怒涛の「食べろ攻撃」に晒されていた。
年配の女性というものは、なぜだか他人に食べることを強く勧めたがる。それは今も昔も、古今東西変わらぬ真理であった。
「坊ちゃま、遠慮なさらずおかわりをどうぞ」
「いやマーサ、流石にこれ以上は……」
「リチャード、食べなきゃ駄目ですよ! 貴方は昨日、昼も夜も何も食べていないんですから。しっかり食べて昨日の分の栄養を取り戻しなさい」
「母上、明らかに消化器官のキャパシティを無視した暴論だと思いますが……」
「何を言っているのです。貴方は少し痩せすぎですよ。もっとふっくらとお肉をつけるべきです」
「いやいや母上、私をどこかに出荷させる気ですか?」
「まあ、人聞きの悪い! 私がまるで、貴方を太らせて出荷しようとドナドナを企む悪の組織みたいじゃないですか。そんなことしませんよ!」
裏手に回ったアシュリンは、窓越しにリチャードの姿を見つけた。
(ああ……リチャード……!)
愛しい人の姿を目にして胸を躍らせたアシュリンだったが、ふと自分の姿が窓ガラスに映り込んでいることに気づき、愕然とした。
――酷い有様であった。
それもそのはず、ペルシャから素足同然で爆走して帰ってきたのだ。髪は乱れ、服は長旅の土埃にまみれている。
(私としたことが……! どうして王都の自分の屋敷に真っ先に戻り、完璧なドレスと身支度を整えてから来なかったのかしら!?)
乙女として、大好きな人にこんな泥まみれのボロボロな姿を見られるわけにはいかない。
アシュリンは急激に己の思慮の浅さを呪い、すっと青ざめた。
今ならまだ気づかれていない。一度自分の屋敷に戻り、最高のドレスに着替えてから改めてノックし直そう――そう固く決意し、アシュリンが音もなく踵を返そうとした、その瞬間。
隣にいた相棒(犬)のジョンソンが、空気を読まずに歓喜の声を上げた。
「ワン! ワンワンワンッ!」
バッと勢いよく跳躍したジョンソンは、開いていた食卓の窓から躊躇なくダイブした。
「「「!?」」」
突如として窓から飛び込んできた巨大犬に、食卓の全員が跳び上がる。
そして驚きと共に窓の外へ目を向けた人々は――そこに佇む、ボロボロの服を着た「帰ってきた筋肉モンスター」の姿を捉えた。
カチャンッ!!
リチャードの手が滑り、テーブルの上のティーカップが豪快にひっくり返った。
逃げるタイミングを完全に逸したアシュリンは、腹をくくった。
せめて……せめて立ち振る舞いだけでも、完璧な淑女でいなければ!
彼女はボロボロになったドレスの裾を指先でそっとつまむと、優雅に片足を引いて膝を折り、極上の微笑みを浮かべながら完璧なお辞儀を披露した。
「……ただいま戻りましたですぅ」
泥まみれの服、ダイブしてきた巨大犬、ひっくり返ったティーカップ。
カオス極まる食卓に、シン・アシュリンの愛らしい猫被りボイスが静かに響き渡ったのだった。




