第64話遅れてきた思春期の公爵様
別宅の扉を開けると、ヨハンがすぐに出てきた。
「庭にダイバダッタ老師の鉄の鳥が置いてあった。二人は戻ってきたのか?」
リチャードははやる気持ちを抑えきれず、早口に尋ねた。
「お戻りなられております。今、奥の部屋で……」
ホールでのリチャードの声を聞きつけて、奥からマーサもやって来た。だが、彼女が口を開くより早く、
ドスドスドスドス!
別宅の床をこれでもかと揺らす、凄まじい質量を感じさせる足音が響き渡ってきた。
廊下の角から現れた足音の主は、リチャードの姿を認めるなり、満面の笑みを浮かべて両手を広げた。
「リチャード!」
「母上!」
ラプンツェルこと、リチャードの母、ララである。
彼女はその太ましい腕をリチャードの体に勢いよく巻きつけると、愛息を思い切り抱きしめた。
みしり、とリチャードの背骨が鳴るような、凄まじいハグだった。
そこへようやく、ダイバダッタ老師もやって来た。
「戻ってきたぞ、リチャード。いやはや、重量オーバーでもう少しで、鉄の鳥が落ちるとこじゃったわい」
「まぁ失礼ですわね。重量オーバーだなんて、私があれに乗ったからみたいじゃあありませんか?」
「あれに乗った……? 母上、もしかして、あの鉄の鳥に乗ってきたんですか?」
嫌な予感がした。
どうか自分の聞き間違いであってくれ、というリチャードのささやかな願いは、目の前の母親の輝くような笑顔によって無残に打ちのめされる。
「そうですよ。私、ペルシャにおりましたの。あれは便利ですね、リチャード。普通なら何ヶ月もかかるのに、たったの三十時間でこっちに来れたんですもの」
「ふん、重量オーバーでなければ二十四時間で到着しとったわい」
だが、リチャードの耳には、もう二人の賑やかな会話など全く入っていなかった。
別宅の扉を開けたとき、いつもなら自分を目がけて真っ先に突進してくるはずの、ジョンソンが駆けてこなかった時点で、本当は察するべきだったのだ。
ダイバダッタ老師のあの鉄の鳥。
よく考えずとも、あれに備え付けられた座席は、前後の二人分しか存在しない。
老師が前で操縦し、その「後ろ」の席に母・ララが乗って帰ってきたということは、つまり――。
アシュリンも、ジョンソンも、まだこの地には戻っていない。
彼の顔から、すうっと生気が失われていく。
『絶望』と表現するにはあまりにも酷で、しかし、見るからにすべてを失ったかのような、あからさまな落胆がリチャードの顔を覆った。
早鐘のように脈打っていた胸の鼓動が、一瞬で冷たく静まり返っていく。
今朝からさんざんイザベラに精神を削られ、ようやく心の安息と、アシュリンとの再会を夢見てここまでなりふり構わず駆け抜けてきたというのに、この仕打ちはあんまりだった。
「……リチャード? どうしたの、そんな急に干からびた虫のような顔をして。私のハグがそんなに嫌だった?」
不思議そうに顔を覗き込んでくる母の、呑気な声。
だが、リチャードはもう何も言えなかった。「アシュリン嬢はどうしたのか」と尋ねる気力すら、今の彼には残っていなかったのだ。
彼はふらつく足取りで、自分の私室へと向かってしまった。
私室へと入り、静かに扉を閉める。
カチャリ、と鍵が閉まる小さな音が、やけに広く感じられる私室に響いた。
リチャードはそのままデスクの椅子に深く沈み込み、顔を両手で覆った。
(……戻ってこなかった)
別宅の庭で見つけたあの鉄の鳥。
あれを見た瞬間に「アシュリンが帰ってきた!」と、子供のように胸を躍らせて駆け出した自分。
思い出すだけで、あまりの恥ずかしさと落胆で、顔から火が出そうだった。
リチャードは深く、深く天を仰いだ。
一方、階下のホールでは――。
ララが息子の素っ気ない態度に首をひねっていた。いつもなら、旅の土産話をねだるのに、それすらなしで私室に行ってしまったリチャード。おまけにあからさまに落胆の色が浮かんでいた。
「マーサ? あの子どうしちゃったの、まさかあの年で反抗期かしら」
マーサはリチャードの気持ちを一番理解していたが、それを言うのは躊躇われた。
階段の上をそっと見上げ、それから慈愛に満ちた、しかしどこか楽しげな笑みを浮かべてララに向き直った。
「反抗期というより、ようやくやってきた思春期ですわ、奥様」
マーサの言葉に、ヨハンも深く同意するようにコクコクと頷いている。
一人、事情の分からないララだけが「ふぅん、男の子って複雑ねぇ」と不思議そうに首を傾げるのだった。




