第55話灰かぶり姫は鉄の鳥に乗って行く
アシュリンが力強くインドに行くと宣言した夜、リチャードの部屋では、マーサの怒号に近い訴えが響いていた。
「坊ちゃま! インドなんて冗談じゃないですよ。反対してください。だいたいあんな宗教家の口車に乗って、どうかしてます!」
「マーサ、ダイバダッタ老師は宗教家じゃない。格闘家だ」
リチャードは机の上の書類から目を上げ、困ったように眉を下げて宥める。しかし、マーサは腰に手を当てて鼻で笑った。
「宗教家だろうが格闘家だろうが一緒です。怪しさ100%です! 片道1年もかかるような未知の国へ、あんな胡散臭い老人と二人きりで令嬢を旅立たせるなんて、正気の沙汰ではありませんわ」
「それは……私だって、行かせたくはない」
リチャードは羽根ペンを置き、ぽつりと本音を漏らした。
1年もアシュリンと会えなくなる。その事実だけで、彼の胸は引き裂かれそうなほど痛んでいた。だが、昼間の彼女のあの、真っ直ぐで力強い瞳を思い出すと、どうしても引き止める言葉が出てこないのだ。
「だから、私が前にも言いましたよね!?…お嫁に貰えば全て解決だと! 坊ちゃま!! 今すぐ結婚してしまいなさい!!」
マーサの言葉に、リチャードはまたしてもインク瓶を倒してしまった。
「ま……マーサ、それとこれとは別問題だ!」
「別問題じゃありませんよ! 坊ちゃまが夫になれば、流石にインドに行くなんて事は仰らないはずです!?」
「そ、それはそうかもしれないが、いきなり結婚だなんて……! アシュリン嬢だって心の準備というものがあるし、何より彼女は今、己の筋肉と力の制御にすべてを懸けているんだ。そこに私が不躾に求婚などしたら、彼女の修行の邪魔になってしまうかもしれないだろう!?」
「坊ちゃま、そこは『私のために残ってくれ』と男らしく抱きしめる場面です。筋肉の邪魔になるとか、配慮の方向性が完全にマッスルに毒されてますよ」
ハァ、と深いため息をつくマーサを前に、リチャードは顔を真っ赤にしながら、倒れたインク瓶を起こして机を拭う。
「私は……彼女の選択を応援したいんだ。それがたとえ、1年という長い離別になるとしても……」
リチャードのどこまでも誠実で、少し切ない本音に、マーサも今度こそ言葉を失った。これ以上は、外野が口を挟むべきではない。アシュリンを笑顔で送り出すための、静かで、少し寂しい夜が更けていく――はずだった。
翌朝。
インドへの旅に向かう為の大荷物を整えたアシュリンが、ブラックウッド別宅のホールに立っていた。
リチャード、マーサ、ヨハン、料理長が、それぞれの想いを胸に彼女を囲んでいる。
「それでは行ってまいります」
そう言って、アシュリンは深く頭を下げた。
これで、1年という長い離別が始まる――。ホールに重い沈黙が流れた、その時だった。
「ブラックウッド公爵様……いえ、リチャード」
アシュリンが顔を上げ、リチャードの目を真っ直ぐに見つめた。初めて愛おしそうに紡がれた自分の名前に、リチャードはハッとして息を呑む。
もじもじと指先を動かしていたアシュリンだったが、次の瞬間、意を決したようにリチャードの胸へと飛び込み、その細い(しかし強靭な筋力を秘めた)腕で彼に抱きついた。
「リチャード、大好き……いえ、大好きだけでは足りません。超超超大好きです! だから……私は必ずインドから戻ってきます!」
リチャードの脳内は、一瞬で真っ白になった。
胸に飛び込んできたアシュリンの驚くほどの柔らかさと、耳元で囁かれた純粋すぎる愛の告白。あまりの破壊力に、リチャードは心臓が口から飛び出そうになり、完全にフリーズしてしまった。
背後でマーサが「よくやった!」と言わんばかりに音の出ない拍手を送り、料理長はハンカチで涙を拭っている。
リチャードが真っ赤になりながら、震える手でアシュリンの背中に手を回そうとした――まさにその至高の瞬間だった。
バリバリバリバリバリバリ……!!!
ドォォォォォォン!!!
ホールの窓を激しく振動させ、すべてを台無しにする凄まじい「金属の駆動音」と爆音が庭から響き渡った。
そこに浮かんでいたのは、木と鉄屑でツギハギに作られ、明らかに物理法則を無視してプロペラを激しく回転させている『謎の鳥』だった。
その翼の上で、ダイバダッタ老師が不敵にニヤリと笑い、手招きしている。
「老師! これは一体?」
リチャードが尋ねると、ダイバダッタはニヤリと笑った。
「何って空を飛ぶ乗り物じゃあ。ワシがこれで来たのを知らんかったのか? リチャード。これなら3日でインドじゃあ」
リチャードたちは、アシュリンとの一年の別れを覚悟していた。まさか三日でインドへ辿り着ける乗り物が存在するなど、夢にも思っていなかった。
「えっ!!」
驚く一同。
あまりにも謎の物体すぎて、
「ぼ……ぼ……坊ちゃま!! 駄目です。あんな物でインドなんて……危険すぎますやめさせてください」
と、マーサがリチャードの腕にすがった。さすがのマーサも、目の前の物理法則を無視した鉄屑に恐怖している。
しかし、肝心のアシュリンは初めて見る空を飛ぶ乗り物とやらに目を輝かせた。
「私、着くまでに1年を覚悟してました。こんな素晴らしい乗り物があったなんて!!」
「そうじゃろう、そうじゃろう」
ダイバダッタ老師が自慢げに鼻を高くする。
アシュリンは嬉しそうに頷くと、
「荷物をとって参りますわ」
「荷物は要らん。荷物を載せたら重量オーバーじゃあ」
「え……でも」
「いるものは向こうで買えばよい。現地調達じゃ」
現地調達。
そう言われてアシュリンは、リチャードたちが用意してくれたプロテイン用のお肉や着替えが詰まった、せっかくの荷物を潔く諦めて飛行機に乗りこんで行ってしまった。
――その後。
主を乗せた鉄の鳥が見えなくなったブラックウッド公爵別宅の庭では、リチャードたちが呆然と立ち尽くしていた。だが、静寂が戻ったのも束の間、屋敷の中から慌てた声が響き渡る。
「ぼ、坊ちゃま!! 大変です!! ジョンソンが……ジョンソンがどこを探しても見当たらないのです!!」
ヨハンが息を切らして走り込んで来た。
「何だって!? ジョンソンがいない!?」
リチャードが驚愕し、マーサがハッとして空を見上げる。
「まさか……」
その「まさか」は、大正解だった。
遥か上空、ものすごい速度でインドへと突き進む飛行機の狭いキャビンの中。
現地調達と言われたはずの座席の足元、狭い隙間にその巨体を器用に丸め込み、何食わぬ顔で顔を覗かせる立派な犬がいた。
「ワンッ!」
「あら、ジョンソン!? あなたいつの間に…」
「なんじゃと!? おのれこの大型犬、いつの間に密航しおったぁぁーーー!! ど、道理で機体が重いと思ったわい!!」
ギギギ……と重量オーバーの不穏な軋み声を上げる機体の中で、ジョンソンはどこ吹く風でハッハッと息を荒げ、嬉しそうに尻尾を振っている。
こうして、一人の令嬢と一人の老師、そして主を置いてけぼりにした一匹の密航愛犬を乗せた謎の鳥は、不穏な爆音を響かせながら、一路インドの山奥へと爆走を続けるのだった。




