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第48話 灰かぶり姫は上の空、公爵は恋の余裕ゼロ

あの前代未聞の「鑑賞宣言」のあと、夕暮れの湖畔には何とも言えない、甘痒くも気まずい空気が流れていた。

しかし、そこはリチャードである。声こそ綺麗に裏返ったものの、彼は修羅場をくぐってきた大人の男だ。これ以上この場に留まるのは、ドレスの裾をたくし上げたまま中腰で固まっているアシュリンにとって酷であると瞬時に判断した。


リチャードは溢れそうになる気恥ずかしさを強靭な精神力で抑え込むと、すぐに衣服を身に纏い、ジョンソンを従えてアシュリンを伴い、ブラックウッドの別邸へと引き返した。


道中、リチャードは彼女の緊張をほぐそうと、意識して穏やかな声で語りかけた。


「今日は森の魔女のところへ行っていたのだろう? ……どうだったかい、何か面白い話でも聞けたかな」

「……はひっ!? あ、はい……大人の、大変仕上がった……素晴らしい筋肉のセパレートでして……」

「……アシュリン嬢?」

「あ、いいえ! なんでもありませんですぅ! 忘れてくださいですぅ!」


アシュリンの返答は完全に上の空だった。

いつもなら筋肉について熱弁を振るうはずの彼女が、顔を真っ赤にしたまま、自分の両手をぎゅっと握りしめてキョロキョロと視線を彷徨わせている。


リチャードは彼女の様子を見て、心の中でそっとため息をついた。

「(やはり、相当なショックを与えてしまったな……)」


彼は自分の鍛え上げられた上半身を見られてしまったこと、何より、アシュリンがパニックのあまり「鑑賞してしまった」と自爆した恥ずかしさで頭がいっぱいなのだと理解していた。


だが、リチャードは決定的な勘違いをしていた。

彼はアシュリンのその大動揺の奥底に、自分に対する切ない「恋心」が芽生えているとは、これっぽっちも気づいていなかったのだ。


「(年頃の若い女性だ。いくら普段は筋肉のことばかり考えているとはいえ、男性の剥き出しの肌を間近で見てしまえば、当然これほど困惑もするだろう。紳士として、しばらくはこの話題には触れずにそっとしておくのが正解だな)」


そんな風に、どこか保護者のような理屈で自分を納得させていたのである。まさか彼女の胸のドラムが、自分への純情で破裂しかけているとは夢にも思わずに。


そうして二人が、それぞれの思惑で妙な空気感を漂わせながら別邸の敷地へと戻ってきた、その時だった。


「……ん? あれは……」

リチャードがふと足を止め、眉をひそめた。

別邸の正面玄関の前に、豪奢な装飾が施された見慣れた馬車が静かに停車していたからだ。燦然と輝く王家の紋章。


リチャードはその馬車の主が誰であるかを、瞬時に、そして嫌というほど理解した。わざわざブラックウッドの別邸にまで馬車を回してくるような者など、王宮広しといえども一人しかいない。


案の定、玄関の重い扉が開き、中から困り果てた顔をした男が足早に駆け寄ってきた。マーサの夫であり、この館の雑用や馬車の御手を一手に引き受けるベテラン使用人のヨハンだった。

ヨハンは戻ってきたリチャードの姿を見るなり、救いを求めるような、そして同情を禁じ得ないような複雑な表情で頭を下げ、声を潜めて告げた。


「お戻りをお待ちしておりました、リチャード様……。その、大変申し上げにくいのですが……エドワード王子様が、殿下が、応接室でお待ちです。……リチャード様はもちろんですが、その、アシュリンお嬢様にもぜひ、お会いしたいとおっしゃいまして……」


その言葉を聞いた瞬間、リチャードの端正な顔が、目に見えて鋭く引き締まった。

彼は自分の背後にいるアシュリンを片腕でそっと庇うように一歩前へ出ると、ヨハンへ向けて、低く、しかし断固とした声で告げた。


「勿論、私は殿下にお会いするが……アシュリン嬢に会わせるわけにはいかない。ここでは、彼女は私の大事な客であるからね。勝手に他人に引き合わせるような非礼はできない」


リチャードとしては、勝手に追いかけてくる不埒なエドワード王子からアシュリンを守るための、紳士としての精一杯の防壁だった。

だが、その言葉をすぐ横で聞いたアシュリンの胸に、冷たい楔のような痛みがチクリと走った。


「(……大事な、客)」


それは、ぐうの音も出ないほどに正しい言葉だった。

力の制御の修行をさせてもらう為に、師であるダイバダッタ共々、ブラックウッド公爵の厚意によってこの別邸に置かせてもらっている身。リチャードからすれば、預かっている「客」以外の何者でもないのだ。


いつもなら、その理路整然とした事実に「そうですわね! 居候としてのバルク(弁え)を保たなくては!」と納得できたはずだった。


しかし、さっき湖畔でリチャードの美しい肉体美を目撃し、激しく乱されたばかりの彼女の心は、その『客』という明確な境界線に、思った以上のショックを受けていた。


「(どうして……こんなに胸の奥がキュウと痛むのかしら。リチャード様はわたくしを守ろうとしてくださっているのに、どうして……寂しいなんて、思ってしまうの……)」


己の心の理由なき不調に、アシュリンはさらに深く、自分のドレスの裾をぎゅっと握りしめてうつむいた。まだ自覚のない恋心が、彼との「距離」に悲鳴を上げていることすら、今の彼女には分からなかった。


そして、恋に関しては、リチャードは大人の余裕など(鈍い)持ち合わせていない。だからそんな微妙な乙女心の変化に気づかなかったのだ。

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