第42話灰かぶり姫はダイバダッタに真の力を学ぶ
家計の火の車が鎮火し、ようやく一息ついたルーカス伯爵は、領地の政務を片付けるため、地方にある本領へと戻ることになった。
出発の朝。伯爵は馬車に乗り込む直前、アシュリンを呼び寄せて、これ以上ないほど真剣な面持ちで釘を刺した。
「いいか、アシュリン! いくらブラックウッド公爵閣下がお優しい方だとはいえ、くれぐれも不躾な真似だけはするなよ。いいな?」
不躾な真似。
アシュリンは、数日前の応接間での出来事を思い返した。
リチャードを貧乏公爵だとか、既婚者だと思い込んでいた……。
「(お父様ったら。あれは不躾というより、ただのちょっとした誤解ですわ。もう解決したはずなのに、心配性なんですもの)」
「もう、お父様ったら……。あんまり心配しすぎると、顔の筋肉が強張って老けてしまいますですぅ。もっと広背筋を広げて、ゆったりと構えてくださいですぅ!」
アシュリンが能天気な励まし(筋トレ的アドバイス)を送ると、伯爵は「それが心配なんだ……」と言わんばかりに深く溜息をつき、今度はハンスに向き直った。
「ハンス……くれぐれもアシュリンが羽目を外さないよう、お前がしっかりと目を光らせておけ。何かあったら、すぐに手紙を書いて寄越すのだぞ」
「承知いたしました、旦那様。このハンス、命に代えましてお嬢様の手綱を握り締めておく所存です」
ハンスの悲壮感漂う返事に満足したのか、伯爵は何度も頷き、ようやく馬車へと乗り込んだ。
がたごとと音を立てて、父を乗せた馬車が遠ざかっていく。
再び父親と離れて暮らす寂しさは、確かにあった。だが、今のアシュリンの胸中にあるのは、しんみりとした情緒だけではなかった。
「……さて。お父様も行かれたことですし、ハンス」
「……何でしょう、お嬢様。嫌な予感しかいたしませんが」
アシュリンは、父が見えなくなった街道の先から、くるりと屋敷の方へ振り返った。その瞳には、並々ならぬ決意の光が宿っている。
「お父様がいらした間、ジョンソンのトレーナーとしてのお仕事を休んでいましたわ。今日からまた再開いたします。――ですので、当分この屋敷には戻りません!」
「お……お嬢様。戻りません、とは……?」
ハンスの顔が、みるみるうちに青ざめていく。
「言葉のとおりですわ! リチャードの屋敷に泊まり込みます。屋敷を買い取っていただいた分の働きをしなければなりませんもの!」
「ま、待ってくださいお嬢様! それは、ブラックウッド公爵もご了承済みなのですか!?」
「いいえ……でも、私はもう決めました!」
迷いのない力強い宣言。
父親の「不躾な真似はするな」という忠告が、馬車の車輪の音と共に虚空へ消えていくのを、ハンスは遠い目で見送った。
ハンスの忠告等どこ吹く風、すぐさま行動に移したアシュリンは、当面の着替えや身の回りの品を馬車に詰め込み、意気揚々とブラックウッド公爵邸に向かった。
出迎えた執事のセバスは、大荷物を抱え込んでいるアシュリンを見ても、驚く素振りすら見せなかった。彼は至極冷静に、アシュリンを応接室へと案内した。
「多少ゴーイングマイウェイですけど……。いいわよね?」
誰に聞かせるわけでもなく、アシュリンは一人ごちた。
屋敷を買い取ってもらった恩を、全身全霊(主に筋肉)で返さねばならないという使命感が、彼女を突き動かしていたのだ。
しばらくすると、リチャードが姿を現した。
「こちらから迎えに行こうと思っていたのだが……」
リチャードはそう言いかけて、部屋の隅に置かれた山のような大荷物に目を留めた。
「……その荷物は?」
「あの……私の身支度一式ですわ!」
「ああ……。それは手間が省けたな」
リチャードは納得したように頷いた。
「(手間が省けた……? 私、ジョンソンのトレーナーとして泊まり込みたいというお話を、まだリチャードにしていないのですけれど。……リチャードって、もしかして私の心を読んだのかしら? いえ、そんなはずは……)」
アシュリンが内心で首を傾げていると、リチャードが続けた。
「昨日、ようやく印度から彼が来てくれてね。紹介するので、私と一緒に来てもらえるかな?」
訳がわからないまま、アシュリンは言われた通りに部屋を出た。
「彼」とは一体誰なのか。ジョンソンのライバルか、あるいは……。
リチャードの背中を追いながら、アシュリンの新しい生活が、予想もしない方向へと動き始めようとしていた。
リチャードに導かれ、アシュリンは屋敷の裏手にある練武場へとやってきた。そこには、筋肉隆々……どころか、今にも風に吹き飛ばされそうなほど細く、竹のような杖をついたヨボヨボの白髪の老人が立っていた。
「紹介しよう。彼の名はダイバダッタ。印度の山奥で、精神と肉体の極致を究めた修行僧だ」
『精神と肉体を究めた男』普通の人が見たら、とてもそうは見えない。だが、アシュリンは一目見た瞬間に、この老人が只者ではないことを察した。その枯れた肉体からは、まるで研ぎ澄まされた刃のような、静かな「圧」が放たれていたからだ。
そして、それはダイバダッタも同じだった。
彼はアシュリンを見た瞬間に、その分厚い胸筋や鋼のような四肢に宿る「荒れ狂う生命の奔流」を感じ取り、わずかに眉を動かした。
「(ほう……。この若き娘、これほどの「プラーナ(気)」を肉体に閉じ込めておるとは。だが、あまりに御しきれておらぬな……)」
ダイバダッタは、砂が擦れるような掠れた声で口を開いた。
「……若き乙女よ。パワーは確かにあるようじゃあ。だが、残念ながらそれだけのようじゃあ。……制御できぬパワー、それはただの暴力。破壊の衝動に過ぎん」
「は、破壊の衝動……!」
図星をつかれたアシュリンは、思わず自分の拳を見つめた。これまで幾多の壁や床を「つい、うっかり」粉砕してきた過去が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
「力を常に出し切るのではない。それを制御できてこそ、真の力なり」
「……真の、力。……出し切るのではなく、制御する……!」
アシュリンの脳内に、衝撃が走った。
これまで「重ければ重いほど良い」「壊れるのは全力を出した証」と信じて疑わなかった彼女にとって、それは全く新しい、未知のプロテインを摂取した時のような衝撃的な教えだった。
「どうだろうか?アシュリン嬢。老師の教えを受けてみては」
自分の力が制御できないばかりにルーカス伯爵邸を破壊して、迷惑をかけてしまった事をリチャードに話した。彼はその事を覚えていて、アシュリンの為に己の力を制御する為の師を呼んでくれたのだ。アシュリンに断る理由等なかった。
何よりリチャードの気遣いが嬉しかった。
「…是非ともよろしくお願いします。」
アシュリンは、ヨボヨボの老人の前で深々と頭を下げた。
こうして、ブラックウッド公爵邸でのジョンソンの為の「泊まり込み」は、印度からの賢者を師に迎え、肉体と精神の調和を目指すアシュリンの新たなステージへと突入することになったのだ。




