第41話 灰かぶり姫は動揺が収まりません!既婚者だと思っていた公爵は実は正真正銘のフリーでした
「笑い飛ばすなど、度重なる非礼を……。失礼しました、伯爵」
ようやく笑いを収めたリチャードが、ハンカチで目元を拭いながら居住まいを正した。
「いや……こちらこそ、とんだ失礼を。そもそも、独身の公爵閣下に隠し子がいるなどと、とんでもない思い違いをしてしまった上に娘が…。重ね重ね、申し訳ない」
ルーカス伯爵のその言葉が耳に入った瞬間、アシュリンの思考回路がガチリと止まった。
「(……え? 独身……? 待って。お父様、何を仰っているのかしら。リチャードには奥様がいるはずでは!?)」
放っておけば、この父はまたしても公爵に対して失礼な勘違いを上書きしてしまう。そう危惧したアシュリンは、親切心から助け舟を出した。
「……お父様。また勘違いなさってるわ。リチャードは独身ではありませんわよ。ちゃんと、素敵な奥様がいらっしゃいます」
「ア、アシュリン!」
「お嬢様ーーーっ!!」
本日二度目となる、ルーカス伯爵とハンスの悲鳴にも似た絶叫が応接間に響き渡った。
アシュリンは驚いて二人を交互に見やり、最後にリチャードへと視線を戻した。
……彼は、笑っていなかった。
先ほどまでの柔らかな気配は霧散し、そこには社交界が恐れる「氷の公爵」そのものの、至極真面目な――そして底冷えのするような真顔があった。
そのあまりに冷徹な視線に射抜かれ、流石の「筋肉モンスター」アシュリンも、思わず肩をすくめて俯いた。
「……何故、私が既婚者だと思ったのか、答えてもらってもよいだろうか?」
低く、静かな声が部屋の温度を一段下げる。
「それは……その、森の邸宅でドレスをお借りした際に、マーサさんが『旅好きの奥様の』とおっしゃっていたので……。それで、てっきり……」
アシュリンが消え入りそうな声で白状すると、リチャードはわずかに目元を和らげ、小さく溜息をついた。
「……それは、私の母のことだ。私に妻はいない。マーサは、隠居して旅を続けている母のことを、今でも敬意を込めて『奥様』と呼んでいるからね」
「そう、だったんですのね……。え……。じゃあ、リチャードは独身? え……ええっ!!?」
アシュリンは、燃えるように熱くなった頬を両手で押さえ、文字通り飛び上がらんばかりに驚愕した。
隠し子もいなければ、妻もいない。
正真正銘、フリーの独身男性。
「(待って……待って待って! そんなの困るわ。独身だなんて……!)」
アシュリンは心の中で激しく動揺し、そして、そう思ってしまった自分自身の思考にさらに驚愕した。
「(え……独身だと、何が困るの? 待って、私……何をそんなに動揺しているの!? 筋肉の収縮が……鼓動が、オーバーワーク気味ですわ……!)」
もはやルーカス伯爵以上に顔を真っ赤にし、視線を彷徨わせるアシュリンに代わって、伯爵が必死に頭を下げた。
「す、済みません! 親子共々、とんだ勘違いを……! ブラックウッド公爵、何とお詫びしてよいやら……!」
「構いません。色々誤解が解けたようで……今日はこちらに来た甲斐がありました」
リチャードはアシュリンの方を向き、ふわりと、あまりにも眩しい笑みを浮かべた。
その瞬間、アシュリンの全身に電流が走ったような衝撃が突き抜けた。恐怖ではない。あまりにもその笑顔が「好きすぎて」、心筋が異常なまでのパンプアップを起こしてしまったのだ。
「(あああ……穴があったら入りたい! でも、この応接間に穴なんてないわ! ……穴がないなら、今すぐここで掘れば良いのかしら!? でも、そんな暴挙に出てまた屋敷を壊したら、修繕費用がかかってしまって、お父様に迷惑をかけるわ)」
そんな彼女の葛藤など露知らず、リチャードは落ち着いた仕草で本題へと戻った。
「ルーカス伯爵、先ほどの話の続きですが……。この屋敷を売却されるのであれば、ぜひ私が買い取らせていただきたい。いかがでしょうか?」
「そ、それは……! 我ら親子にとっては、願ってもない救いの手です、閣下!」
伯爵は感極まった様子で、勢いよくソファから立ち上がった。
「ありがとうございます。では、具体的な手続きについては、後日改めて私の専属弁護士をこちらへ向かわせます。正式な売買契約書の作成などは、すべてこちらで手配させましょう」
リチャードの淀みないリードに、伯爵は何度も首を縦に振った。
「何から何まで……。ブラックウッド公爵、この恩、生涯忘れませんぞ」
伯爵は感涙にむせびながら、がっしりとリチャードの右手を握りしめようとした。その時、伯爵の視線がリチャードの指先の黒い汚れに止まった。それに気づいたリチャードが、きまり悪そうに口を開く。
「ああ……お見苦しいところを。先ほど書斎で、少々急ぎの書類を整理しておりましてね。不覚にもペンを走らせすぎました」
リチャードは困ったように微笑み、軽く手を引いた。
公爵ともあろうお方が、執務中に手を汚したまま客間に現れるなど、本来であれば考えにくいことだ。だが、伯爵は「公爵ともなれば、多忙で身なりを整える暇もないほど執務に追われることもあるのだろう」と、勝手に好意的に解釈した。
まさか、執事のセバスから「アシュリン嬢を妻に迎えては」と茶化され、動揺のあまりインク瓶を倒したなどとは、夢にも思わなかったのだ。
「それはよくあることですから……どうぞ気になさらないでください」
伯爵は温かくフォローし、力強く握手を交わした。
「これでようやく、肩の荷が下りました。あとは使用人の何人かに暇を出して、大急ぎで田舎へ引っ越しの準備を――」
「そのことですが、ルーカス伯爵。田舎へ戻られる必要はありません。このまま、この屋敷に居住されてはいかがでしょうか」
「いや……それは……。お気持ちは嬉しいが、流石に甘えすぎです。家主が閣下になられた以上、私はただの借家人。お恥ずかしい話ですが、この規模の屋敷を借り続ける賃貸料を払えるかどうか……」
伯爵が言い淀むと、リチャードは待っていましたと言わんばかりにアシュリンを見た。
「それでしたら、アシュリン嬢が我が家のジョンソンの専属トレーナーに就任されましたので。その専属費用と家賃を相殺するという形ではいかがでしょうか?」
実質的に「今のままこの屋敷に住み続けてよい」という、リチャードからの最大限の配慮だった。
「まあ……リチャード!!」
その瞬間、驚きと溢れんばかりの喜びで、アシュリンの胸はいっぱいになった。
独身だと知ったばかりの動揺も、屋敷を失う不安も、すべてを溶かすようなリチャードの優しさ。
「ありがとう、リチャード! 大好きですわ!!」
感情が溢れ出したアシュリンは、考えるよりも先に、弾かれたようにリチャードの胸へと飛び込んでいた。
「……!?」
リチャードは驚きに目を見開いた。
腕の中に飛び込んできた、アシュリンの確かな体温。そして、「大好き」という無邪気で、けれどあまりに破壊力のある言葉。
常に冷静沈着であることを叩き込まれてきたリチャードだったが、この至近距離での「奇襲」には、なす術もなかった。
「(……アシュリン、嬢……)」
リチャードの顔が、一気に熱くなる。
彼女を抱き締め返すことも、突き放すこともできず、ただ添えようとした手が空中で彷徨った。
アシュリンの柔らかい髪の香りと、トク、トクと速まる彼女の鼓動がダイレクトに伝わってくる。
「ア、アシュリン!!」
「お嬢様!!!」
ハンスとルーカス伯爵の、本日三度目の絶叫が応接間にこだました。




