第40話灰かぶり姫親子の勘違いに公爵様は腹筋崩壊
抱え込んでいる羽根枕と頭に被っている睡眠用の三角帽子が気になったが、流石にそれを指摘するのも憚られたので、リチャードは必死に真顔を作った。
そして意を決して、「ルーカス伯爵、ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした」と切り出した。
だが、ルーカス伯爵はリチャードから視線を外して、彼を見ようともしない。
「どうも……」
ただそれだけ言った。
父親の失礼極まりない態度にアシュリンは口を挟む。
「もうお父様ったら、本当に駄目な方ですわね。相手の顔を見ないで『どうも』ってなんですの! 『どうも……どうも……ルーカス伯爵です』ぐらい言ったらどうですの?」
「(お嬢様! 『どうも』なんて公爵に挨拶すること自体、失礼極まりないです)」
ハンスは心の中で突っ込んだ。
「アシュリン嬢には色々とジョンソンがお世話になっております」
ジョンソンの名前が出た途端に、ルーカス伯爵が顔を引き攣らせた。
「君の所にいるジョンソンとかいう輩は、随分と礼儀を知らない不埒な男のようだな」
「ジョンソンがですか? あれでもきちんと躾をしたつもりですが」
リチャードは、伯爵のあまりの剣幕に微かな違和感を覚えつつも、あくまで「愛犬」の話として言葉を返した。
「ほう。躾をした。ブラックウッド公爵、君とそのジョンソンとかいう男の関係は何だ? 彼は君の息子か?」
「あぁそうですね。ジョンソンは息子のようなものかもしれないですね」
ジョンソンはリチャードが子供の頃から飼っていた、ジョンソン&ジョンソンという名の猟犬が親だった。生まれた時から自分が育てたので、彼にとってはジョンソンは息子のようなものだったのだ。
「(何ということだ。ブラックウッド公爵は女嫌いだと社交界でもっぱらの噂だったというのに、密かに隠し子がいたとは……!)」
ルーカス伯爵はワナワナと震えた。
「ルーカス伯爵?お顔の色が冴えないようですが…」
リチャードが心底心配そうに身を乗り出したその瞬間、ルーカス伯爵の中で「親としての誇り」と「蓄積されたストレス」が、ついに臨界点を迎え、爆発した。
「冴えない……? 当たり前だ!! ブラックウッド公爵!!」
ドゴン!!
伯爵が、手にしていた羽根枕を思い切りソファに叩きつけた。ボフンという音と共に、中の羽毛が派手に舞い散り、伯爵の睡眠用三角帽子の房飾りが激しく揺れた。
「君という男は……! 社交界では『氷の公爵』などと澄ましていながら、裏ではそんな野性味溢れる息子(隠し子)を囲っていたとは! しかも……しかも、あろうことか我が娘を、その『ジョンソン』なる男に……!」
「伯爵、落ち着いてください。先ほどから『男』と仰っていますが、彼は――」
「黙れ! 釈明など聞きたくない! アシュリンからすべて聞いているぞ! その男、言葉も喋らず四つん這いで走り回り、あまつさえ娘を押し倒して顔中を舐め回すというではないか! それを『息子』と呼び、あまつさえ『躾をした』などと……! 君の家系はどうなっているんだ!!」
リチャードは、あまりの剣幕に言葉を失った。
「(……四つん這い? 顔を舐める? ……いや、犬なら当然の行動だが……待てよ。この御仁、まさかジョンソンを『四つん這いで生活する、全裸同然の野蛮な人間』だと思っているのか!?)」
あまりに突拍子もない勘違いに、流石のリチャードも脳の処理が追いつかなかった。
「お父様、大きな声を出しては筋肉が分解されてしまいますわ! ジョンソンが言葉を喋らないのは、彼が肉体(全身)で語るタイプだからです。それに、四つん這いであの速度を出せるのは、素晴らしい体幹の証拠。お父様も見習うべきだと申し上げたはずですぅ!」
アシュリンが、火に油を注ぐような「バルクアップ的称賛」を投げかけた。
「見ろ! 娘が……淑女であるはずの娘が、そんな野蛮な男を全肯定している! これもすべて、公爵、君の差し金か!? 我が家を……我が家を笑いものにする気か!!」
伯爵の叫びは、もはや絶叫に近いものだった。怒りとショックのあまり、彼の三角帽子がハラリと脱げ落ち、完全に力尽きたような表情のハンスが、そっとそれを拾い上げた。
リチャードが、こめかみを押さえながら、今にも噴き出しそうな笑いと、説明不能な疲労感を必死に抑えて口を開いた。
「ルーカス伯爵……ジョンソンは、私の愛犬です」
ルーカス伯爵は一瞬理解できず、「……へっ?」と間の抜けた返事を返した。
そして彼はアシュリンの顔を見て、ハンスを見て、真正面に座るリチャードの顔を見た。
「犬? 犬だと……。いやしかし、君は自分の息子だと……」
「生まれた時から世話をしているので、息子のようだと思っていたので……。紛らわしい言い方をしてしまいました。申し訳ない」
リチャードは、笑いを堪えながら頭を下げた。
「そうか……犬か……。犬が押し倒した。そうか……」
ルーカス伯爵は脱力したようで、声に力がなかった。
「嫌だわお父様ったら、ジョンソンを人間だと思ってらしたのね。もうとんだ勘違い!」
「何を言っている! お前が、誤解を招くような話し方をするからだ!」
「やだ、私にとばっちり! お父様の勘違いを私のせいにしないでください。恥ずかしいですわ!」
「何が恥ずかしいだ! そもそも――」
「もう旦那様もお嬢様も止めてください! 公爵様の前で親子喧嘩なんかして、恥ずかしいと思わないのですか!?」
ハンスがたまりかねて叫び、ようやく二人は我に返ってリチャードを見た。
彼は笑いを堪えるのに必死になって俯いていたが、限界だったらしく、盛大に笑い出した。
ひとしきり笑い、涙が滲んだ目元を指先で拭ったリチャードは、ようやく呼吸を整えて表情を引き締めた。
「いや……失礼しました」
対するルーカス伯爵は、茹で上がったタコのように顔を真っ赤にしていた。己の盛大な勘違いもさることながら、パジャマ姿で枕を抱え、挙げ句の果てに娘との泥沼の口論まで目の前の公爵に晒してしまったのだ。これでは伯爵家の権威も名誉もあったものではない。
「……こちらこそ……その、失礼をした。ジョンソン殿を、その、公爵の愛犬だと知らず……。度重なる無礼を重ねてしまい、誠に申し訳ない」
ルーカス伯爵は、消え入りそうな声で深々と頭を下げた。
リチャードは居住まいを正し、本来の「公爵」としての重厚な空気を纏い直した。
「私が本日伺ったのは、アシュリン嬢が度々我が家を訪れているにもかかわらず、父親である伯爵になんのご挨拶もできていなかったことへのお詫びを申し上げるためです」
一度言葉を切り、リチャードは真っ直ぐに伯爵の目を見据えた。
「……そして、もう一つ。大変不躾な話になるのですが……。ルーカス伯爵、聞き及ぶところによれば、この屋敷を売り払い、田舎の領地に戻られるとか」
「……っ、それは……」
伯爵の顔が、今度は別の意味で青ざめた。家計の窮状は、彼にとって最も触れられたくない急所だった。
「もしよろしければ、私がこの屋敷を買い取りたいと考えているのですが、いかがでしょうか?」
リチャードの静かな提案が、応接間に響く。負債に喘ぐ伯爵にとっては、願ってもない救いの手のはずだった。だが、伯爵が返事をするよりも早く、横から鋭い声が飛んだ。
「まあ……リチャード! それは駄目だわ!」
アシュリンが、食い気味に、そして断固とした表情でリチャードの提案を遮った。
「だってこの屋敷は、古臭くてガタついているけれど、それなりにお高いんですもの。リチャード、借金してまで買うことはないわ! あなたは貧乏なんですもの! 無理なさらないで!」
「ア、アシュリン……ッ!!」
「お嬢様ぁぁ!!」
公爵に対して、よりにもよって「貧乏」と断じた娘の暴言に、ルーカス伯爵とハンスは泡を吹かんばかりに青ざめた。だが、当のリチャードは怒るどころか、再び「ふっ……」と口角を上げた。
「アシュリン……お前は、何か根本的な勘違いをしていないか? ブラックウッド公爵家が貧乏なわけがないだろう。……我が家と違ってな」
ルーカス伯爵が、己の不甲斐なさを噛みしめながら呆れたように諭した。
「え? でも……森にある邸宅はすごく小さいですし、ボロボロですわ。使用人も年老いたふたりだけですし……何より、リチャードはご自分で狩りをなさって、日々の食料を確保してらっしゃるのよ?」
「……いえいえ、お嬢様。あなたは今まで何度も、ブラックウッド公爵の本宅に行かれていますよね? あの、王城にも匹敵する広大な敷地と、白亜の豪邸を一体なんだと思ってらしたのですか?」
ハンスが、震える声で確認した。
「あれ? ……あれは、仮住まいかしらって。どなたか慈悲深い方から、一時的にお借りしている屋敷ですよね? ……そうですよね、リチャード?」
アシュリンは、微塵の疑いもない純粋な瞳でリチャードを見つめた。彼女の中では「森のボロ屋=リチャードの本来の生活水準」であり、豪華な本宅は「見栄を張るための借り物」として完結していたのだ。
「…………」
リチャードは天を仰いだ。そして。
本日二度目、いや、人生で最大級の「決壊」が訪れた。
リチャードは腹を抱えて笑い続け、その笑い声は、気まずさに身を縮める伯爵と、遠い目をするハンスを置き去りにして、しばらく止むことはなかった。




