第36話 灰かぶり姫はジョンソン専用トレーナーになる
いつものようにブラックウッド公爵邸へと足を運び、猟犬ジョンソンのための特製「高タンパク餌」を作り終えたアシュリン。しかし、今日の彼女にはいつものような、調理中に筋肉が躍動するような輝きがなかった。
餌を作り終えたあと、彼女は庭の隅に、魂が抜けたようにぼんやりと座り込んでいた。
「ギュイ……?」
丸太投げはしないのかと、ジョンソンが不思議そうにアシュリンの周りをぐるぐると回る。鼻先で彼女の腕を突いて促すが、今の彼女には丸太を掴む気力さえ湧かなかった。
様子がおかしいことを察したリチャードが、バルコニーから庭へと降りてきた。
「どうした? いつもの元気さがないと料理長も心配していたが、何かあったのか」
不敵な笑みも、冷徹な公爵としての表情もない。そこにあるのは純粋な懸念だった。
アシュリンはゆっくりと顔を上げ、リチャードを見た。複雑な感情が渦巻き、どうしようか迷った挙句、彼女はついに、自らの誇りよりも大切な家族のために、恥を忍んで打ち明けた。
「リチャード……いえ、ブラックウッド公爵様。お願いがあるのです。今更、こんな虫のいいことを言うのも……自分勝手だと分かってはいるのですが」
うつむいていたアシュリンが、すがるような、それでいてどこか諦めを含んだ瞳でリチャードを見つめる。
「ジョンソンの餌作りの手間賃というか……それを、正式な『仕事』として、私を雇っていたいただけないでしょうか?」
リチャードは一瞬、言葉を失ったように目を見開いた。
常に自信に満ち溢れ、己の力一つで突き進んでいた「鋼鉄の乙女」が、金銭的な見返りを求めて頭を下げている。その事実に、彼は何とも言えない衝撃を受けていた。
「……ダメ、ですよね。以前、あんなに偉そうなことを言っておきながら……」
震える声で俯くアシュリンに対し、リチャードは驚きと困惑、そしてその裏にある深い事情を察するように、穏やかに問いかけた。
「理由を聞いてもいいだろうか? 言いたくないなら話さなくてもよいが」
「それは……」
アシュリンは視線を泳がせた。家が破産寸前だということ、父が自分のせいで倒れたこと。それを口にするのは、彼女にとってどんな重量のバーベルを持ち上げるよりも重く、苦しいことだった。だが、彼女は勇気を振り絞り、打ち明けた。
「私のせいです。私が屋敷を壊したせいで、とんでもない借金に……。私が力加減を怠った……いえ、力加減がわからないせいで、お父様まで病に伏してしまったのです」
絞り出すような告白に、リチャードは瞬時に事態の深刻さを理解した。そして、この「友」を救うために迷わずこう切り出した。
「その借金は、私が肩代わりしよう」
「えっ!」
驚いて顔を上げたアシュリンに、リチャードはかつて彼女が自分にくれた、あの眩しいほどの言葉を返した。
「ジョンソンと君は友達だ。そして私も、君のことは友達だと思っている。……だから、友達を助けるのは当たり前だ」
それは以前、食欲不振のジョンソンのために餌を作ってくれたお礼を申し出た際、アシュリンが「友達を助けるのは当たり前」だと言った言葉そのものだった。
しかし、アシュリンはその申し出を激しく首を振って拒んだ。
「それはいけません……それは駄目です! お気持ちだけ受け取りますわ」
彼女には譲れない一線があった。何より、彼女はまだ大きな誤解をしていたのだ。
「(リチャード様は、こんなに広大な公爵邸に住んでいながら、身分ばかりで実情は貧乏な公爵様に違いないわ。そんな方に、私の不始末まで背負わせるわけにはいかない……!)」
たとえ彼が国一番の富豪であったとしても、己の未熟さで生んだ負債を他人に押し付ける気など、アシュリンには毛頭なかった。
そんな彼女の頑なな表情を見て、リチャードは無理に肩代わりを押し付けることはできないと悟った。彼はふっと目元を和らげると、提案を変えた。
「わかった……。ならば、貸し借りではなく『契約』だ。今度から君を、ジョンソン専用のトレーナーとして雇わせてもらいたい」
「トレーナー……ですか?」
聞き慣れない言葉に、アシュリンが目を丸くした。
ジョンソンの体調管理、栄養指導、そしてあの「丸太投げ」を含めた運動の補助。それは、この世界に前例のない、だがアシュリンにしか務まらない唯一無二の役職であった。
「そうだ。手間賃ではなく、ジョンソンの健康を維持するための重要な職務だ。相応の報酬は支払う。……これなら、文句はないだろう?」
「……はい! ありがとうございます、リチャード様! 私、ジョンソンの専用トレーナーとして頑張ります!」
ようやくアシュリンの瞳に、いつものような力強い光が戻った。
彼女が深々と頭を下げ、少しだけ軽い足取りで公爵邸を去っていったあと、リチャードはバルコニーから彼女の背中を見送りながら、静かに執事のセバスを呼んだ。
「セバス。至急、ルーカス伯爵家の経済状態がどうなっているのか調査し、報告してくれ。それと……」
リチャードは一度言葉を切り、どこか遠くを見つめるように目を細めた。
「『ダイバダッタ』に連絡をとってくれ」
その名を聞いた瞬間、老練な執事であるセバスの眉がぴくりと動いた。
「ダイバダッタ……。あの、偏屈な爺さんですか?」
「『偏屈』は余計だ。あれでも、大陸中に名を馳せた伝説の武闘家だ」
リチャードの脳裏には、かつて見たその男の神懸かった「力の制御」が浮かんでいた。ダイバダッタ――魂を拳に宿し、巨岩を粉砕する力と、触れた羽根さえ傷つけぬ繊細さを併せ持つ、孤高の師範。
「今の彼女に必要なのは、金だけではない。己の内に宿る強大な力を御する術だ。……彼なら、アシュリン嬢の『バルクの調整』を導けるかもしれん」
「わかりました。……直ちに手配いたします」
セバスは一礼すると、主の意図を汲み取り、音もなくリチャードの私室を後にした。
アシュリンが己の筋肉と向き合い、真の「力」を知るための道が、今、静かに動き出そうとしていた。




