第32話 灰かぶり姫の父、忌まわしき「バルク」の目覚めにぶったまげる
こうして、嵐を巻き起こした義母レティシアと、その娘たちの処遇が決まった。ホールに静寂が戻ると、伯爵はようやく、本来この屋敷の主役であるはずの人物の不在に気づいた。
いつもなら、真っ先にホールに顔を出し、強烈な「体当たり(ハグ)」を見舞ってくるのが実娘、アシュリンのはずである。
「ハンス……? アシュリンはどうした。一向に顔を出さないが、まさか……何か道端で拾い食いでもして、病気で寝込んでいるのか?」
伯爵の真顔での問いに、ハンスは一瞬フリーズした。
「だ……旦那様。拾い食いとは、いくらなんでもお嬢様に対して酷い言いようではございませんか?」
「何を言う。あの子は昔から、道端に何か食べ物らしきものが落ちていると、すぐ口に入れる癖があっただろう。そのせいで腹を壊しては、私を心配させていた」
「いや、それは……それはお嬢様がまだほんの幼い頃のお話でございまして。今は流石に、淑女……として、そのようなことはなされては……」
ハンスはそこまで言いかけて、言葉を止めてしまった。脳裏をよぎるのは、アシュリンが「この野草、バルクアップに効きますぅ!」と庭の雑草をムシャムシャ食べていた姿や、漆黒のプロテイン塊を幸せそうに咀嚼していた姿だ。
「(……否定、できない。むしろ今のあの方なら、そこらの毒草すら筋肉に変えてしまいかねない……)」
「ハンス? どうした、急に黙り込んで。まさか本当に何か拾って食べたのか?」
「い、いえ。そうではなくてですね、旦那様……。お嬢様は現在、その……ブラックウッド公爵邸に出かけられております」
「公爵邸にだと!?」
ハンスの報告を聞いた瞬間、ルーカス伯爵の顔から怒りで血の気が引いた。
「ハンス、お前、何をのんきなことを言っている! 年頃の娘が、親の許可もなしに独身の公爵閣下の屋敷へ、しかもこんな時間まで入り浸っているなど……! 社交界で知られれば、アシュリンの、いやルーカス伯爵家の名は地に落ちるぞ!」
「い、いえ、旦那様、それには深い事情が……」
「事情など後だ! まさかレティシアのような不埒な真似をしているのではあるまいな!」
伯爵は土埃のついた旅装のまま馬車に飛び乗った。
「(アシュリン、お前というやつは……! どうか、手遅れでありませんように!)」
馬車は夕焼けの王都を猛スピードで駆け抜け、ブラックウッド公爵邸の重厚な鉄門へと滑り込んだ。しかし、そこで伯爵が目にしたのは、優雅な茶会でもなければ、密やかな逢瀬でもなかった。
「せいやぁぁぁーーーっ!!」
空気を震わせる咆哮と共に、優に100kgはありそうな巨大な丸太が放物線を描き、公爵邸の芝生へと叩きつけられた。ジョンソンが歓喜の声を上げてそれを追いかける。
ルーカス伯爵の記憶にある可憐な娘の面影はどこにもない。そこにいたのは、夕日を浴びて血管が浮き出るほどに鍛え上げられた、美しき「筋肉モンスター」だった。
それは、アシュリンの母が健在だった頃。3歳のアシュリンが庭の重厚な「大理石の噴水台」を事もなげに持ち上げた時、母は直感していたのだ。
この子は、自分の母方の祖母の妹――大叔母と同じであることを。
大叔母は一見すれば淑やかで優しい貴婦人であった。しかし、そのドレスの下には鋼のような筋肉を宿した「筋肉モンスター」だったのである。
彼女は一生をかけて猫を被り続け、しおらしく振る舞っていた。
だが、不意に馬車の車輪を持ち上げて直してしまったり、暴走する馬を片手でねじ伏せたりと、隠しきれない本性が露呈してしまう。
結局、その圧倒的な「強さ」に怯えた殿方たちは去っていき、彼女は一度も縁談がまとまることなく、独身のままその生涯を閉じたのだ。
「(私の可愛いアシュリンまで、あの大叔母様のようになってしまうの……!?)」
娘には、普通の幸せを掴んでほしい。誰かに守られる、可憐な女性になってほしい。
母は震える手でアシュリンを抱き寄せ、その瞳をじっと見つめて言い聞かせた。
「良いですか、アシュリン。人前では、徹底的に猫を被りなさい。お淑やかに、弱々しく振る舞うのです」
「にゃ、にゃあ?」
「……そして、約束なさい。決して、決して自ら身体を鍛えようなどと考えてはいけませんよ! 貴女の中の『眠れる獅子』を、決して起こしてはならないのです!」
それが、亡き母が遺した呪いにも似た「遺言」であった。
猫を被ることだけは覚えていたが、筋肉を鍛えては駄目だということをすっかり……というか、その部分は忘却の彼方に追いやってしまったアシュリンは、シンシアス好みの爆乳を目指して(胸を鍛えて作る筋肉は爆乳ではない!)、ひたすら筋肉を鍛え上げてしまったのだ。
今、目の前で丸太を投げ飛ばし、夕日に照らされて上腕二頭筋を躍動させている娘を馬車の中から見て、伯爵は、震える手で顔を覆った。




