第30話 灰かぶり姫の父ルーカス伯爵は激怒する
領地での重要な仕事がまだ山積みであるはずのルーカス伯爵が、予定を大幅に切り上げて、猛烈な勢いで屋敷に帰還した。
その顔は怒りで土色になり、手には王都の各店舗から領地にまで転送されてきた、膨大な量の「支払い催促状」と「領収書の写し」が握りしめられていた。
玄関ホールに踏み込むなり、伯爵の怒号が響き渡る。
「ハンス!! 一体これはどういう事だ!!」
主のあまりの剣幕に、執事ハンスは腰を抜かさんばかりに震え上がった。
「だ、旦那様! まだ領地におられるはずでは……」
「こんなものを見せられて、仕事など手に付くか! 見ろ、この宝石店からの請求を! この最高級ワインの山を! 一体誰の許可を得て、これほどの贅沢をしたんだ!?」
伯爵は、レティシアが調子に乗って開いた大宴会の支払い証を、ハンスの鼻先に叩きつけた。
「これは、その……。奥様が、その……」
「ハンス! しどろもどろになるな。まさかレティシアが、私が不在なのをいいことにこれほど好き勝手に振る舞っていたというのか!?」
ハンスは口を閉ざした。
「……それでなくても、このところやたらと『屋敷の修繕費』や『謎のプロテイン代』の支払いが増えているのだ。一体どうなっているんだ!?」
伯爵が突きつけた別の書類には、レティシアの浪費とは別に、明らかに「物理的な破壊」を物語る高額な修理費が並んでいた。
言うまでもなく、それはレティシアではなく、実娘のアシュリンによる「日々の鍛錬の副産物」なのである。
そこへ、騒ぎを聞きつけたレティシアが、悠然と階段を下りてきた。
彼女は、怒り狂う夫を見て、心底うんざりしたようにため息をついた。
「(あぁ、やはり、ブラックウッド公爵様と比べると男ぶりも、全てが劣りますわ。何故わたくしこんな人と再婚したのかしら?)」
前夫の伯爵を亡くし、無一文で放り出され、行き場のなかった自分を娘ごと引き受けてくれたというルーカス伯爵の懐の大きさを、すっかりレティシアは忘れていた。
「ずいぶんお早いお帰りでしたのね。まだ向こうにおられると思っていましたのに。そんなに大声を上げて、はしたないわ」
「レティシア、この宝石だの、ドレスだのの支払いはなんだ」
詰め寄る伯爵に、レティシアは扇子をゆったりと動かし、勝ち誇ったように言い放った。
「あら、この屋敷でエドワード王子をお迎えして、大宴会をいたしましたのよ。エドワード王子は、我が義娘アシュリンの婚約者ですわよ? そんな大切な方をお迎えして、伯爵家の恥になるような、みすぼらしいパーティーをやれとおっしゃるの?」
「婚約者だと……? いつそんな話になったんだ!」
初耳すぎる単語に、伯爵の目が点になる。そんな夫を、レティシアは嘲笑うように見下ろした。
「まぁ、貴方は仕事ばかりで、娘たちの将来のことを考えてませんものね。わたくしがこの子たちのために、どれほど心を砕いているか、これっぽっちも分かっておられないのね」
「……アシュリンの、婚約……。そうか、それほどの大物をお迎えしたというのなら……」
妻の強気な物言いに、ルーカス伯爵が「この膨大な支払いも、娘の将来のためには仕方のないことだったのか」と納得しかけた、その時だった。
屋敷の重厚な扉を叩く、無作法な音が響く。
ハンスが戸惑いながら対応に出ると、そこには異様な三人組が立っていた。
派手な色のドレスに身を包んだ、気の強そうな女性。そしてその背後には、はち切れんばかりの筋肉を蓄えた、やたらと恰幅のよい大男が二人、用心棒のように控えている。
女性は、ハンスを突き飛ばさんばかりの勢いで言い放った。
「レティシア・ルーカスに用があるんだけど」
「お、奥様ですか……?」
ハンスが困惑して振り返ると、レティシアは眉をひそめ、ドアの方を見やった。しかし、その女性の顔に全く見覚えがない。
「どちら様かしら? わたくし、貴女のような無作法な方と知り合った覚えはありませんけれど」
レティシアの冷たい言葉にも、その女性は鼻で笑った。
「えっとさぁ、中に入れてもらえる? 立ち話するような内容じゃないのよね」
「いえ……しかし……アポイントメントもなしに……」
ハンスが遮ろうとすると、女性の目が鋭く光った。
「ここで叫んでもいいの? あんたたちが王都中でとんだ恥さらしになるだけだけど」
不穏な空気を感じたハンスは、恐る恐る三人組をホールへと入れた。
女性はレティシアの正面に立つと、値踏みするように彼女を上から下まで眺めた。
「あんたがレティシア・ルーカス?」
「えぇ、そうですけれど。一体何なんですの、その失礼な態度は」
レティシアが扇子を広げ、不快感を露わにした瞬間。
女性は懐から一枚の書面を叩きつけるように差し出し、ホールに響き渡る声で吠えた。
「――だったら、払うもん払ってもらおうか!!」
天文学的な数字が並ぶ「借用書」が、レティシアの目の前で突きつけられた。
「な、なんですの……この、ふざけた額は……!」
レティシアの指が、怒りと動揺で小刻みに震える。
「ふざけてるのはどっちだい?惚れ薬を特攻で作られておいて、ニコニコ現金払いせずにつけ払いしたんだ、利子がはいるのは当たり前だ」
「惚れ薬?惚れ薬とはなんだ。レティシア、惚れ薬なんて買ってどうするつもりだったんだ」
「それは…その…ですね。貴方とのマンネリ解消に…おほほほほほほ」
レティシアの必死すぎる、そしてあまりにも苦しい言い訳がホールに虚しく響き渡る。
「とにかく今日中にこの料金を払ってもらおうか! 払えないって言うんなら、あんたにうちで働いてもらうしかないね!」
借金取りの女が冷酷に言い放つと、背後の大男二人が重圧をかけるように一歩踏み出した。レティシアは真っ青になり、すがるような目で夫であるルーカス伯爵を見た。
しかし、伯爵は手元の請求書と借用書を交互に見比べ、絶望に打ちひしがれたように首を振った。この天文学的な数字を今すぐ用意できるほどの財力は、今のルーカス伯爵家には残っていない。
「レティシア……とてもじゃないが、今すぐこの額の金を用意するのは無理だ。我が家が破産する……」
夫の拒絶。その瞬間、レティシアの中で何かがぷつりと切れた。羞恥も体裁もかなぐり捨て、彼女は形相を変えて叫んだ。
「なんですって! この貧乏伯爵! やはり貴方なんて全然駄目だわ! ブラックウッド公爵様とは比べものにならない! あの方なら、こんな借金なんて屁でもないはずですわ!」
「な……何を言っているんだ、お前は……!」
絶句する伯爵をよそに、レティシアは借金取りの女のドレスを掴まんばかりの勢いで身を乗り出した。
「ねえ、もう一回魔女に惚れ薬を作るようにお願いしてちょうだい! 今度こそ、今度こそ確実にブラックウッド公爵様を落としてみせるわ。そうすれば、こんな端金、公爵家の財力で一瞬で返してあげますわよ!」
必死になるあまりの、完全なる自爆。
ホールには、レティシアの激しい息遣いだけが響き渡った。
「……レティシア。お前、今、何と言った……?」
伯爵の声は、地底から響くような低さだった。
妻が自分以外の男を――それも国を代表する公爵を、薬を使ってまで手に入れようとしていた。その衝撃の告白に、伯爵の目は怒りと悲しみで血走っていた。




