第27話 灰かぶり姫はジョンソンのために腕を振るう
ブラックウッド公爵邸の朝は、かつてない悲壮感に包まれていた。
広大な庭園に響き渡るのは、一頭の犬による、魂を削るような悲しげな遠吠えである。
「ウォォォォォン……。……ウゥゥッ」
公爵家の使用人、ジョンソン担当のお世話係が、震える手でリチャードに報告した。
「……閣下、ジョンソン様が、本日も一切お食事をお召し上がりになりません。これで三日目です」
「ジョンソン様」――。
旅好きで滅多に屋敷にいない母や、森の別宅で彼を見守る育ての親マーサに代わり、常にリチャードの傍らで公爵家の孤独を分かち合ってきた愛犬ジョンソン。彼は使用人たちからも、敬意を込めてそう呼ばれている。
リチャードは、三日間手つかずのまま下げられた皿を見て眉をひそめた。
王都でも指折りの獣医が呼ばれたが、診断結果は絶望的なものだった。
「……体格、数値、どこにも異常はございません。ただ、ジョンソン様はお食事を召し上がらないだけです。何か思い当たることはありますかな? リチャード様」
獣医の困惑した問いに、リチャードは重い沈黙を返した。
思い当たる節しかなかった。
三日前、ルーカス邸でアシュリンが錬成した、あのドス黒いペースト。それを食べた瞬間のジョンソンの、魂を震わせるような歓喜の表情。
ジョンソンがガリガリに痩せ細る前に、打てる手は一つしかない。リチャードはすぐさま馬車を出させ、ルーカス邸へと向かった。
一方、ルーカス伯爵邸。
リチャードの来訪を告げるハンスの声を聞いた瞬間、まだ腹痛で寝込んでいたはずのレティシアに神がかった活力が宿った。
「な、なんですって!? 公爵様がまたお見えに……!?」
腹痛などどこへやら。
彼女は「お肉の脂で顔がテカっているかしら!?」と叫びながら、執念の厚塗りで土気色の顔を隠し、クローゼットの中から最も派手な、若作り全開のよそ行きドレスを引っ張り出した。
扇子を片手に「ほほほ」と高笑いしながら、最高に気取った足取りでレティシアがホールへと降り立った時――。
そこには、もぬけの殻となった静寂が広がっていた。
「……あら? 閣下は? 公爵様はどこにいらして?」
キョロキョロと周囲を見渡すレティシアに、執事のハンスが極めて事務的な、しかし残酷な事実を告げた。
「ブラックウッド公爵閣下でしたら、つい先ほど、アシュリンお嬢様を伴ってお帰りになりました」
「…………は?」
「何でも、ジョンソン様という方の命を救えるのはアシュリン様だけだと仰り、そのままお二人で馬車に……」
レティシアの扇子が、床に虚しく転がった。
「あの筋肉女……っ、わたくしのリチャード様を、どのような卑劣な手でたぶらかしたのよ!!」
レティシアの怒号がルーカス邸を揺らした。
目も眩むような豪華絢爛な屋敷。
大概のご令嬢なら、その豪華さに目を輝かせ、資産価値を値踏みするものだが、初めて足を踏み入れたアシュリンは、公爵邸の広大な廊下で「ここ、全力でサイドステップを踏んでも壁にぶつかりませんわね!」とリチャードに熱弁を振るった。
ブラックウッド公爵邸の厨房では、王宮の料理長も務めたという誇り高きブラックウッド家の料理長が、真っ白な顔で立っていた。
「か、閣下! この……お嬢様はいったい……?」
「下がっていろ。……彼女が『特別』なものを作る」
「は!? このような小娘が何を――」
公爵家の料理長の言葉を遮るように、アシュリンは持参したスパイスバッグ(謎のプロテイン粉末入り)を調理台に叩きつけた。
「さあ、調理開始です! まずは繊維の徹底破壊からです!」
ドガッ!! バキッ!! ズドォォォォン!!
厨房内に、およそ調理場では鳴り響かないはずの破壊音が轟いた。
アシュリンが素手でイノブタラを叩きつけ、握力で筋繊維を粉砕する音だ。
公爵家の料理長が「ひいぃっ、肉が悲鳴を上げている……!」と腰を抜かして震える中、その音を聞きつけた一頭の影が、ふらつきながらも猛烈な勢いで姿を現した。
ジョンソンである。
三日間、死んだように横たわっていたはずの彼は、アシュリンの「破壊音」を聞いた瞬間、瞳に野生の輝きを取り戻したのだ。
「ウォォォォォン!!」
ジョンソンはアシュリンの足元に駆け寄り、まだ調理途中(というか破壊途中)のイノブタラの肉の塊を熱烈な眼差しで見つめる。
「まあ、ジョンソン! 今、もっとも吸収効率の良い状態にして差し上げますからね!」
アシュリンはさらに高火力でフライパンを煽り、見たこともない異臭……もとい、芳醇な野生の香りを厨房中に充満させていく。
出来上がった「どす黒いペースト」を皿に盛るや否や、ジョンソンは尻尾をプロペラのように振りながら、夢中で皿を舐め上げた。
すると、まるで魔法にかかったかのように毛艶が蘇り(栄養の超速吸収である)、弾むような足取りでアシュリンの胸元へ飛び込んだ。
「まぁ、ジョンソン良かった! 元気になりましたのね!」
アシュリンは大型の猟犬のジョンソンを受け止め、その背中を愛おしそうに撫でる。
その横で、公爵家の料理長だけは茫然自失としていた。
自分が持てる技術のすべてを注ぎ込み、ジョンソンのために用意した極上のドッグフードが否定され、目の前の「どす黒いナニカ」がジョンソンの命を繋いだのだ。彼はプルプルと震えながら、自分の包丁を握りしめて静かに膝をついた。
リチャードは、活力を取り戻した愛犬と、太陽のように笑うアシュリンを交互に見つめていた。
そして、彼はゆっくりと歩み寄り、アシュリンの節くれだった(しかし力強い)手を取った。
「ありがとう、アシュリン嬢。君がいなければ、ジョンソンはどうなっていたことか……。何か礼をさせてほしい。望むものがあれば、公爵家の名にかけて叶えよう」
金貨か、宝石か、あるいはルーカス家への便宜か。
リチャードがそう問いかけると、アシュリンは不思議そうに首を傾げた。
「お礼なんて……要らないです。だって私とジョンソンはお友達ですもの。お友達を助けるのは当たり前です!」
屈託のない、ダイヤモンドよりも純粋な笑顔。
リチャードは、その瞬間、心臓の奥を熱い鉄棒で貫かれたような衝撃を覚えた。
これまで彼に近づいてきた女性は、皆その肩書きや財産、あるいは彼の美貌という「価値」を求めていた。
だが、アシュリンは違う。
彼女は、公爵である自分ではなく、ただの「犬」であるジョンソンと友達になり、見返りも求めず全力で救ったのだ。
「……友達、か」
リチャードの喉の奥から、絞り出すような声が漏れた。
彼の胸の内で、これまで感じたことのない温かな熱がじわりと広がっていく。それは感動という言葉では足りない、もっと根源的な「救い」に近い感情だった。
「リチャード様? 顔が赤いですわ。もしや、お熱でもありますの?」
アシュリンが心配そうに顔を覗き込み、手のひらをリチャードの額に当てようとした。
公爵家の主が、一介の伯爵令嬢に気安く触れられるなど、本来なら許されない。だが、リチャードはその手を拒むどころか、吸い寄せられるように視線を固定してしまった。
「……いや。ただ、少し……胸が熱くなっただけだ。アシュリン、君は本当に……」
リチャードは言葉を続けようとして、ふっと目元を和らげた。
鉄面皮と恐れられた彼の口元に、雪解けのような微かな笑みが浮かぶ。
それは、ブラックウッド公爵としてではなく、一人の男としての、嘘偽りのない表情だった。
「君のような女性には、今まで一度も会ったことがなかった」
「なんですって? それはきっと、リチャード様の周りに筋肉が足りなかったせいですぅ! 筋肉は裏切りませんけれど、真心も筋肉に宿るものですわ!」
「……ふっ、そうかもしれないな」
リチャードは、自分の額に触れようとしていたアシュリンの指先に、そっと自分の手を重ねた。
その手は、他の令嬢のように白くも滑らかでもない。トレーニングによって作られたマメがあり、料理の熱を帯びている。だが今のリチャードにとっては、どんな宝石よりも尊く、力強いものに感じられた。
足元では、すっかり元気を取り戻したジョンソンが「ワンッ!」と祝福するように短く吠え、二人の足の間に強引に割り込んでくる。
「ああ、ジョンソン。……これからは、君に倣って私も、彼女を『友達』として頼ることにしよう」
「ええ! いつでも頼ってくださいです!」
満面の笑みで胸を叩くアシュリン。
夕暮れ時の厨房に、異様な異臭(スパイスと肉の焦げた匂い)が漂っていることさえ忘れさせるほど、そこには穏やかで、しかし確かな「何か」が芽生え始めていた。




