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第22話灰かぶり姫は誤解を加速させる

リチャードは、しばし呆然とした後、口元に手をやって考え込んだ。

「……イノブタか。イノブタラ、ね」


まるで未知の難問を解く呪文のように、彼はその名を反芻した。美食の限りを尽くしてきた彼にとって、脂にまみれたイノブタラを「最高の一皿」として認めるのは、これまでの料理観を根底から覆すような衝撃だった。


だが、目の前で申し訳なさそうに、それでいて瞳の奥に野生の渇望を宿らせているアシュリンを見て、彼はふっと、降参するように笑った。


「わかった。君がそこまで言うのなら、次にここへ来るときには、私が責任を持って『最高のイノブタラ料理』を用意しておこう。……今日のところは、この鹿肉で妥協させてしまうが、許してくれるかな?」


何故だか、またここに来ることが当然であるかのような物言いだった。本来なら無作法と断るところだが、アシュリンは不快に思うどころか、その約束にパッと目を輝かせた。


「……本当ですの!? 楽しみにしておりますわ!」

現金な反応にリチャードが苦笑していると、アシュリンの視線が、サイドメニューとして出された温かなスープに釘付けになった。


「……あら? このスープに浮いているのは……」

それは、黄金色のスープに浮かぶ、香ばしく焼き上げられた小さなクルトンだった。ただのパンの切れ端ではない。独特の香りと、ずっしりとした穀物の質感。


「ああ、気づいたか。君が籠に入れていた、あのサンドイッチのパンだよ」

えっ、あれは……わたくしが、悲しみのあまり無残に押し潰して、ただの塊にしてしまった……」


「形は変わっても、味は変わらないからね。少し乾燥させて焼き上げれば、極上のスープの引き立て役になる」


アシュリンは言葉を失った。

自分があの時、惨めで、情けなくて、力任せに握り潰してしまった「失恋の残骸」。それを彼は、一つも無駄にすることなく、丁寧な手仕事でこんなにも温かく、美味しい料理へと変えてくれたのだ。


「……美味しい。すごく、美味しいですわ……」

アシュリンはスプーンを口に運ぶたび、お腹だけでなく、ギスギスに強張っていた心まで溶かされていくのを感じた。


「(……なんてこと。お料理まで完璧だなんて。……これで節操のある誠実な殿方でしたら、最高でしたのに。本当に、不実なことが悔やまれますわ)」


一方、その様子を壁際で見ていたマーサは、再びハンカチを握りしめた。

「(まあ……! スープに浮いたパンの切れ端一切れにまで、あんなに大切そうに、涙ぐんで見つめて……。ルーカス家では、きっとこんな何気ない食事さえ満足に与えられず、常に飢えていたのね。ああ、健気なお嬢様……!)」


リチャードは、自分の料理技術がアシュリンに認められたことに満足しつつも、彼女の背後に漂う「凄まじい誤解」の空気には、まだ気づく由もなかった。


食後、温かいハーブティーを啜りながら、アシュリンはふと窓の外の暗さに気づいた。


「あら……。もうこんな時間ですのね。そろそろ失礼しなくては」


「ああ、夜の森は危ない。馬車を出そう」


リチャードの言葉と同時に、玄関の扉が開く音がした。入ってきたのは、マーサの夫であり、この館の雑用や馬車の御者を一手に引き受けるベテラン使用人のヨハンだった。


「ちょうどいい、ヨハン。ルーカス伯爵邸までお嬢様をお送りしてくれ」


「承知いたしました。すぐに準備を……」


ヨハンが頷きかけたその時、マーサが鋭く割って入った。

「お待ちになって、坊ちゃま! お嬢様を、こんな夜道にたった一人で馬車に乗せて帰すおつもりですか!?」


「……ヨハンが御者台に座るんだ。一人ではないだろう?」


「そういう意味ではありませんわ! このお嬢様が、どれほど心細い思いをされてここへ辿り着いたか。あんな……あんな家へ帰る道中、もしまた悲しい思い出がぶり返してしまったら……っ!」


マーサは(勝手に膨らませた)アシュリンの不幸な境遇に、再びハンカチを握りしめて訴えた。


「坊ちゃま、あなた様も同乗なさい。お嬢様を玄関先まで、責任を持って見守るのです! 騎士の誓いはどうなさいましたの!」


「……マーサ、君の騎士の定義は少し広すぎないか?」


リチャードは溜息をついたが、マーサの「不幸な令嬢を守れ」という気迫に押され、結局折れるしかなかった。

「わかった、わかったよ。……アシュリン嬢、迷惑でなければ、私が邸まで同乗しよう」


「えっ……。あ、ありがとうございます。(なんてこと……奥様がいないのをいいことに、深夜に女性と二人で馬車に乗るなんて。このお方、やはり相当な手練れ……不実のバルクですわ……!)」


アシュリンは戦慄した。だが、それ以上に恐ろしいのは、それを当然のように、むしろ使命感に燃えて勧めてくるマーサの存在だった。


「(……それにマーサ様まで。主人の不実を嗜めるどころか、率先して女性との密室(馬車)を用意するなんて。この館、『不倫推奨ジム』です…なんて恐ろしい……!)」


アシュリンは、親切の皮を被った「組織的犯罪(に見える親切)」への警戒心を限界まで高めながら、マーサに見送られて馬車に乗り込んだ。


「さようなら、お嬢様。いつでも、ここをあなた様の第二の家だと思ってくださいね!」


マーサが振るハンカチを背に、馬車は夜の森へと走り出した。

揺れる馬車の中、リチャードは隣に座るアシュリンに声をかけた。


「……すまないな、うちの乳母が騒がしくて。だが、君を心配しているのは本当だ」


「いいえ……。マーサ様には、その、過分なほどのご厚意をいただきましたわ」


アシュリンは、月明かりに照らされるリチャードの顔を見つめた。

不実。不貞。節操なし。


……しかし、その顔には、嘘偽りのない誠実な騎士の陰影が宿っているように見えて、彼女の心は、かつてないほど複雑にざわつくのだった。

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