第20話 灰かぶり姫と謎の男リチャードの衝撃の出会い 後編
しばらくして、アシュリンがふと岸辺を見ると、ドレスが丁寧に置かれていた。リチャードの姿はない。彼女は湖から上がり、濡れた下着の上からドレスを纏った。前面の編み上げ紐を掴み、大胸筋を包み込むようにギリギリと引き絞る。
「ふぅ……。ひとまず、最低限の尊厳は守られましたわ……」
「……終わったか?」
不意に、背の高い生垣の後ろからリチャードが姿を現した。彼はアシュリンが身支度を終えるまで、ずっと背を向けて隠れていてくれたのだ。
「私の愛犬が失礼をしたな。……その様子だと、無事に紐は結べたようだが」
「ひ、卑怯ですわ! 隠れて見ていらしたのね!?」
「まさか。私は騎士の誓いに基づき、あちらで木々の枝ぶりを眺めていたよ」
リチャードは微笑み、夏の夕暮れの冷え込みを案じて、自らの上着を差し出した。
「これを。……私の館はすぐそこだ。そこで服を乾かしていくといい」
「……えっ? でも」
アシュリンは躊躇した。
少し前、森で出会った正体不明の媚人たちの小屋へは、空腹のあまり思考が停止してノータイムで突撃した彼女だったが、湖で泳いで少しだけ頭が冷えた今は、貴族の娘としての最低限の理性が警鐘を鳴らしたのだ。
「(いくらなんでも、初対面の殿方の館へずぶ濡れで伺うなんて……。それに今のわたくし、パンプアップも解けてコンディションは最悪ですわ)」
断ろうと口を開きかけた瞬間。
「ワンッ!」
ぶるぶるぶるぶるぶるッ!!
湖から上がったジョンソンが、アシュリンの真横で全身ドリルを開始した。爆散する水飛沫。
「ひゃうっ!? ちょっと……やめて……っ!」
せっかくのドレスはずぶ濡れになり、肌にぴったりと張り付いて、筋肉のラインが露わになった。
「……どうやら、ジョンソンは君を帰したくないらしい」
リチャードは苦笑しながら、手際よく先ほど差し出した自分の上着をアシュリンの肩に掛けた。
「館には乳母の老婦人もいる。私の名誉にかけて、不埒なことはしない。……さあ、行こう」
「…………わかりましたわ。お言葉に甘えさせていただきます」
観念したアシュリンは、その温かさに心が解れるのを感じながら言った。
「ただし、変な気を起こさないでくださいましね? わたくし、怒るとこのくらいの太さの薪なら素手でへし折りますので」
リチャードは声を立てて笑った。
「ああ、肝に銘じておこう。……さあ、行こうか。私の館へ」
二人はジョンソンと共に、黄金色に染まる森の奥へと歩き出した。
森の小道を進むリチャードの歩調は、アシュリンを気遣ってか緩やかだった。しかし、アシュリンの方はといえば、濡れたドレスの重みを感じさせないほど足取りが力強い。
「君は……歩くのが速いな。ドレスがその状態では、普通なら足がもつれるものだが」
「ええ、大臀筋とハムストリングスを意識して歩いておりますので。地面をしっかりと蹴り上げる。これ、基本ですわ」
「……だい、でんきん? はむ……?」
リチャードが聞き慣れぬ単語に首を傾げている間に、視界が開けた。
そこに佇んでいたのは、森の緑に抱かれるようにして建つ、石造りのこじんまりとした館だった。
アシュリンはそれを見て、少しだけ安堵した。
「(……あら。案外、こじんまりとしたお屋敷ですわね。きっと、この森を管理されている役人の方か、あるいは少し余裕のある自由市民の方かしら?)」
豪華絢爛な貴族の屋敷とは違う、落ち着いた佇まい。それゆえにアシュリンは、彼が自分と同じ階級の、それも王族に近い人間であるとは微塵も思わず、ただの「親切で少し風変わりな森の住人」として彼を見始めていた。
「坊ちゃま! お帰りなさいませ。……おや、お客様ですか?」
玄関の重い扉が開くと、温和そうな老婦人が顔を出した。リチャードを育てた乳母のマーサである。
「マーサ、急ですまない。お嬢さんの服を乾かして差し上げたい。あと、暖かい飲み物と……」
リチャードの言葉に、マーサはアシュリンのずぶ濡れの姿、そして何よりドレスの上からでも隠しきれない「逞しすぎる肩幅」と「濡れた布地の下でボコボコと浮き出た腹筋の陰影」をまじまじと見つめた。
そして、マーサはゆっくりと、非常に怪訝な顔になった。
「坊っちゃま!!」
館に響き渡ったのは、温和なはずのマーサの鋭い怒鳴り声だった。
何故いきなり怒鳴られたのか見当もつかないリチャードは、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で目を白黒させた。
「ま、マーサ? 一体どうしたんだ」
「情けない……本当に情けないですわ。マーサは坊ちゃまを、そんなはしたない男に育てた覚えはありません!」
マーサは震える指先で、リチャードと、その隣でずぶ濡れになっているアシュリンを交互に指した。話が全く見えてこないリチャードは、さらに困惑を深める。
「マーサ? 何を言って……」
「しらを切るおつもりですか! 見ればわかります。こんな人里離れた森で、うら若き乙女を、あろうことかこんなにずぶ濡れにして……! 女性を無理やり連れ込むなんて、あぁ、坊ちゃまが……。そんな卑劣なことをなさるなんて!」
マーサは芝居がかった仕草で顔を覆うと、さも絶望したかのようにサメザメと泣いてみせた。
ここでようやく、リチャードは彼女が何を「解釈」したのかに気づいた。
夕暮れの密会、ずぶ濡れの美少女、そして自分の上着を羽織らせて連れ帰ってきたという状況。客観的に見れば、それは「狩り」のついでに獲物を捕らえてきた不埒な貴族の構図そのものであった。
彼は必死に首を振って否定した。
「違う! どこをどう解釈してそうなるんだマーサ! 飛躍しすぎだ、あまりに失礼だろう!」
「飛躍? 飛躍なもんですか。こんなに立派な……ええ、それこそ一筋縄ではいかなそうな強そうなお嬢さんを、これほどまでに濡らし、震えさせて……。坊ちゃま、力ずくで湖に沈めでもしたのですか?」
「殺人的な誤解はやめろ! 私はただ、ドレスを拾って届けただけだ。彼女は、その……勝手に泳いでいただけなんだ!」
リチャードの必死な叫びに、マーサは顔を覆っていた手をすっと下ろした。その目には涙の跡など欠片もなく、冷徹なまでの観察眼が宿っている。
「……あら? そうなんですか?」
マーサは、まるで最初からそうくることを知っていたかのような素早さで「泣き真似」を切り上げると、視線をリチャードからアシュリンへと移した。
「お嬢様。……この馬鹿げた言い訳をしている男の言うことは、本当ですの?」
アシュリンは、突然自分に振られた矛先に一瞬たじろいだ。
だが、この老婦人が主人の不品行を本気で案じて怒っている(演技だとしても)様子を見て、彼女は反射的に、そしていつもの「筋肉至上主義」な正直さで答えてしまった。
「ええ、本当ですわ。わたくし、広背筋のキレを出すために、自らの意思で湖にダイブいたしましたの。彼はただ、わたくしのバルク……いえ、体調を案じてくださっただけですわ」
「……こうはいきん? ばるく?」
今度はマーサが目を白黒させる番だった。
ずぶ濡れにされた悲劇のヒロインを想像していた彼女の前にいたのは、濡れたドレスの下で鋼のような筋肉を躍動させ、自信満々に自らのトレーニング内容を語る「規格外の乙女」だった。
マーサは数秒ほどアシュリンを凝視していたが、やがてその顔に、先ほどまでの怒りとは正反対の、感嘆と喜びの色が広がった。
「まあ! 自分の意思で! なんてたくましいお嬢様なの!」
マーサは鮮やかに豹変した。まるでお宝でも見つけたかのように、ずぶ濡れのアシュリンの手を両手で握りしめる。
「最近の貴族のお嬢様方といったら、風が吹けば折れそうな細い方ばかりで。でも、あなた様のような『中身』の詰まったお方は初めてですわ。坊ちゃまが連れてこられたのが、このような健康そのもののお嬢様だったなんて!」
「マーサ、今度は喜びすぎだ……」
リチャードの呆れ声など耳に入らない様子で、マーサはアシュリンの二の腕を「失礼しますよ」とばかりに軽く叩き、その弾力にさらに相好を崩した。
「ならば早く乾かさなくては! せっかくの立派な……ええと、ばるく? が冷えて萎んでしまったら大変ですものね。お嬢様、さあこちらへ! 私が最高に吸水性の良いタオルを持ってまいりますから!」
「あ、ありがとうございます……」
圧倒されるアシュリンを連れて、マーサは意気揚々と奥の部屋へ向かっていく。それを見送ったリチャードは、慣れた手つきで袖を捲り上げた。
「……さて。あれほどエネルギーを使い果たした顔をされては、生半可なスープでは足りないだろうな」
リチャードにとって、この森の館で自ら包丁を握るのは日常の風景だった。彼は迷いのない足取りで厨房へと向かう。今日仕留めたばかりの良質な鹿肉が、熟成を終えて出番を待っているはずだ。
「どうやら今夜ばかりは賑やかになりそうだ」




