第19話 灰かぶり姫と謎の男リチャードの衝撃の出会い 前編
シンシアスの小屋を後にしたアシュリンは、もはや自分がどこを歩いているのかも分かっていなかった。
手の中には、かつて「完璧な差し入れ」として誇らしく抱えていた二キロのサンドイッチ。それが今では、自分の愚かさを凝縮したような、ただの重たい「岩石」のなり損ないに見えた。
「(岩石……爆乳ではない……筋肉の塊……)」
脳内でリフレインするシンシアスの非情な言葉。
アシュリンの目からは、汗ではない、正真正銘の涙がポロポロとこぼれ、その発達した大胸筋の上を滑り落ちていく。
彷徨うこと数刻。気づけば、森の奥深くにある静かな湖のほとりに行き当たっていた。
アシュリンはふと、水面に映る自分の姿を見た。そこには、泣き濡れて化粧もボロボロ、淑女の面影もない「ひどい状態」の女が映っていた。
「……これでは、バルクが泣きますわ」
アシュリンは、せめて汚れを落とそうと、水面を手ですくってバシャバシャと豪快に顔を洗い始めた。
しかし、一度火がつくと加減ができないのがアシュリンである。勢い余って、気づけば高級な淑女用のドレスはびしょ濡れになっていた。
「あら。……でも、ちょうどいいですわ。このモヤモヤ、水で冷やして流してしまいますわ!」
アシュリンは思い立った。濡れたついでだ。
彼女はためらいなくドレスを脱ぎ捨て、下着姿になると、そのまま湖へと飛び込んだ。
最初は悲しみを忘れるためだった。だが、泳ぎ始めるとアシュリンの血が騒ぎ出す。
「この水の抵抗……。広背筋に効きますわ! クロール一掻きで、シンシアスの暴言を一つ忘れる……。バタフライ一回で、失恋の痛みも脂肪と共に燃焼されますわ!」
本格的に「水泳トレーニング」と化したアシュリンは、湖の真ん中で凄まじい水しぶきを上げながら往復し始めた。
泳ぐのが楽しくて仕方なくなった彼女は、もはや自分が下着姿であることも、森だということも忘れていた。
だが、その時。
岸辺では、一匹の大型の猟犬・ジョンソンが、主人の先を歩いて偵察を行っていた。
ジョンソンの鼻が、草むらに置かれた「何か」を嗅ぎつける。
(……ワン!)
ジョンソンにとって、それは格好の獲物――あるいは遊び道具に見えた。彼は、びしょ濡れで放置されたアシュリンのドレスをがぶりと咥えると、尻尾を振りながら、森の奥から歩いてくる主人のもとへと駆け戻っていったのである。
一方、その頃。
「ふぅ、スッキリしましたわ。……さて、そろそろ屋敷に戻ってプロテインを飲まなくては」
満足げに湖から上がったアシュリンが見たのは、何も置かれていない、ただの平坦な草地だった。
「…………ドレスが、ありませんわ」
アシュリンの前に、かつてない危機が訪れていた。
森の小道を歩いていたリチャード・ブラックウッドは、愛犬ジョンソンが何かを誇らしげに咥えて戻ってくるのに気づいた。
「ジョンソン、何を拾ってきた? ……ん? これは、女性のドレスか?」
リチャードは、ジョンソンが足元に放り出した、まだ湿り気を帯びたドレスを拾い上げた。
まだ湿り気を帯びたその生地を広げ、彼は眉をひそめる。
「おい、物取りにでもあったのか? 」
リチャードは、持ち主が誰かに襲われたのではないかと純粋に心配して、ドレスを腕にかけ、足早に湖の方へと歩みを進めた。
主人のただならぬ気配を察したのか、ジョンソンもまた、期待に満ちた顔で先導するように草むらをかき分けていった。
流石に下着姿で帰るわけにはいかなかった。
そんな恐ろしい事をすれば、貴族の令嬢としての立場がなくなることぐらい、いかに筋肉馬鹿のアシュリンでもわかることだった。今ここで誰かに見られれば、伯爵家の名誉は文字通り「粉砕」される。
「どうしましょう……。わたくしのバルク(筋肉)は隠せても、わたくしの尊厳が隠せませんわ!」
彼女が焦燥に駆られ、せめて大きなシダの葉で身を隠そうとしたその時だった。
「ジョンソン、前にでるな!もし野党類だったら慎重に……」
向こうから、低い男の声と犬の足音が近づいてくるのが聞こえた。
アシュリンは心臓が止まるかと思った。
そして、運命の歯車が噛み合う。
ガサリ、と茂みが大きく左右に割れた。
そこに立っていたのは、愛犬を連れた漆黒の髪の男――リチャードだった。
その腕には、ジョンソンが持ち去ったアシュリンのドレスがしっかりと抱えられている。
「…………ッ!?」
「…………」
固まるアシュリン。
そして、当然ながらリチャードもまた、石像のようにその場に凍りついた。
リチャードは、持ち主を救うために必死で駆けつけた誠実な紳士だった。
だが
濡れた薄い下着を身に纏い、夕陽を浴びて彫刻のように浮き上がった筋肉美を持つ女性。
それは、贅肉など欠片も存在しない、極限まで絞り込まれた肉体。特に腹部は、並の男性さえも凌駕するシックスパックが、濡れた布地の下で鮮明な陰影を描き出している。
彼は一瞬、羞恥すら忘れて目を奪われてしまった。
「……あ、……あああああぁぁぁぁっ!!」
アシュリンは悲鳴を上げ、反射的に再び湖へと飛び込んだ。
ザパァァァン!! と凄まじい水しぶきを上げ、彼女は首まで水に浸かってリチャードを睨みつけると、力任せにバシャバシャと彼に向かって大量の水を浴びせた。
言葉にならない叫び。それは乙女の恥じらいというよりは、縄張りを侵された猛獣の威嚇に近い。
「待て……! 私の犬がこのドレスを咥えて持ってきてしまったんだ。それで、誰かに襲われたんではないか?と心配して……」
リチャードは顔にかかった水を拭いもせず、必死で弁明した。
気まずく、そして険悪な空気が二人の間に流れる。リチャードは紳士として目を逸らすべきか、まずはドレスを返すべきか葛藤していた。
だが、その凍りついた空気を切り裂いたのは、愛犬ジョンソンだった。
バシャバシャと激しく水を飛ばすアシュリンの姿を見て、ジョンソンは「新しい遊び」が始まったのだと勘違いしたらしい。
(ワンッ! ワンワンッ!)
「ジョ、ジョンソン! 待て!」
リチャードの制止も聞かず、興奮したジョンソンは湖へと勢いよくダイブした。
大きな体が水面に叩きつけられ、アシュリンにまで特大の水しぶきが降りかかる。
「ひゃっ!?」
ジョンソンはそのままアシュリンの元まで犬かきで近づくと、彼女の顔を熱烈に舐め回し始めた。
さっきまでの猛獣のような威嚇はどこへやら、アシュリンは突然の「モフモフの襲撃」に、思わず頬を緩めてしまう。
「やだ! 何……ふふふっ、くすぐったいですわ! ……ふふっ、可愛いワンちゃん」
年相応の可憐な笑い声が漏れた。アシュリンはジョンソンの大きな体を抱き寄せると、そのまま一緒に楽しそうに泳ぎ始めたのである。
岸辺に立ち尽くすリチャードは、その様子をどこか楽しそうに眺めていた。
初対面の男に凄まじい威嚇を見せたかと思えば、犬一匹でこれほど屈託のない笑顔を見せる。
数多の人間を見てきたリチャードにとっても、これほどまでに生命力に溢れ、かつ「完成された肉体」を持つ女性は初めてだった。
静かな湖畔に、アシュリンの笑い声とジョンソンの水音が、心地よく響き渡っていた。




