第七十話 日曜日の茶会③
(狩森の闇……か)
その言葉を聞き、僕はまたもや、神御目市立図書館で見た夢の内容を思い出していた。
茜音さんのために鬼神なる決意をした蘇芳さん。
〈鬼神の法〉を受けるのが嫌で、とうとう自ら鬼となってしまった親友の桔梗。
そして多くの同胞を暁の石室に導き、〈鬼神の法〉を受けさせ鬼神にしてきたことで、自らも鬼と化してしまった師匠、藤黄老。
形は違えど、みな狩森の闇の犠牲になったのだと言えなくもない。だから茜音さんが狩森の闇の餌食にならない人間を仕事のパートナーに選んだというのは分かる気がする。
(でも、僕は巫覡じゃないし、蘇芳さんや桔梗、藤黄老のような鬼に対処するための特殊な力を持っているわけでもない。あるとしたら〈言霊の力〉くらいだけど……)
けれど、その〈言霊の力〉も、決して自在に操れるわけではない。どう考えても、僕には自分に狩森の闇に対抗する力があるとは思えなかった。僕はその思いを率直に茜音さんに伝える。
「……すみません、茜音さん。もし僕が茜音さんに一目置かれているなら、これほど光栄なことはありません。でも……僕自身はどうしても自分のことをそこまで特別な存在だとは思えないんです」
すると茜音さんは、これまで見たこともないほど柔らかい微笑を浮かべるのだった。
……それはまるで、最愛の人を慈しむような。
「いいえ、夏目さんは十分に特別ですよ。他では決して代替することのできない、かけがえのない存在なのです。……少なくとも、私にとっては」
何も知らない時の僕であったら、舞い上がって小躍りしていただろう。
でも、今は困惑の方が勝った。
自分が茜音さんにとって特別な存在だなんて。もちろん、そうであるならこの上なく幸せだけど、心のどこかで本当だろうかと訝しんでしまう。
それはきっと、僕にとって茜音さんがまだまだ謎多き女性だからだ。
決して茜音さんの言葉を信じていないわけではない。そもそも、茜音さんは無為に嘘をつく性格ではないということも理解している。
でも、茜音さんの真意がどこにあるのか、完全に掴めていないからか、どうしても翻弄されているような感覚が拭いきれない。
もっとも、僕も未だに〈言霊の力〉のことを隠しているから、そのことで茜音さんを責めるつもりは全く無いけれど。
すると、今度は突然、茜音さんが口を開いた。
「夏目さん、今度は私が夏目さんに質問をしても良いですか?」
「え? あ、はい。どうぞ」
まさか茜音さんの方から質問をされるなんて、思いもしなかった。若干の緊張を覚えつつ、僕は背筋を正す。そんな僕に、茜音さんは優しい口調で尋ねる。
「夏目さんは、どうして怪談の聞き手役のアルバイトをしようと思ったのですか?」
「それは……」
どう話したものかと、一瞬だけ迷ったけれど、結局、僕はありのままを話すことにした。これ以上、茜音さんに隠し事をしたくなかったからだ。
「ええと……正直に言うと、最初はただ、アルバイト代に釣られただけだったんです。怪談蒐集の聞き手役という仕事内容の方は、実のところあまり興味がなくて。何て言うか、その……完全にお金が目的で……。本当にすみません……!」
何だか自分がひどく格好悪く思えてきて、僕はとうとう項垂れてしまった。
「いいえ、謝ることはありませんよ」
茜音さんは穏やかに首を振った。おそらくある程度、予想していた答えだったのだろう。
ただ、当時の僕にとって金銭的な問題はどうしても解決しなければならない喫緊の課題だった。僕はできるだけ当時の気持ちを思い出しながら、茜音さんに説明する。
「僕、どうしてもアルバイトがしたかったんです。一刻も早くお金を稼いで、こんな僕でも一人前になれるんだという確証が欲しかった。
ところが、あろうことか僕が入学した柊星学院高等学校は厳格にアルバイトが禁止されていたんです。もっと早くに気づくべきだったんですけど、祖母が急逝して突然の進路変更を余儀なくされて……そこまで調べている余裕が無かったんです。
その点、狩森図書館には利用客がほとんど来ないので、隠れてアルバイトをしても周囲にばれにくいだろうと思いました。そういった面でも、狩森図書館はバイト先として都合が良かったんです」
「そうだったのですね……」
茜音さんの反応は決して冷たくはなかったけれど、どこか淡々としていた。僕の本音に対して、特に失望した様子も、怒っている様子もない。良くも悪くも、一貫して冷静だった。
何故だろう。
どうして茜音さんは僕を怒らないのだろう。
最初から僕に期待なんてしていないからか。
つい落ち込みそうになるものの、僕はすぐに思考を切り替えた。
茜音さんはきっと、キナリ様という脅威に晒された僕の恐怖を少しでも和らげようとして、僕をお茶に誘ってくれたのだろう。だから僕も茜音さんの気持ちに応えたかった。そして僕が怪談蒐集のアルバイトをしようと決めたのは、お金だけが目的だったわけではないということを伝えたかった。
「……でもその時は、狩森図書館でアルバイトをしようかどうか、まだ迷っていました。というのも、怪談の聞き手役という業務内容のイメージがどうしても掴めなかったからです。なので、狩森図書館に足を踏み入れた時はどちらかというとまだ興味本位でした。そんな僕が怪談蒐集のアルバイトをしようと心に決めたのは、狩森図書館で茜音さんに出会ったからです」
「え……?」
目を伏せていた茜音さんが僕の方を見る。
僕はわずかに見開かれた彼女の瞳をまっすぐに見返して言った。
「茜音さんの姿を見た時、初めてここで働きたいと強く思ったんです」
一般開架室に沈黙が降りる。古いアンティーク調の柱時計……夢の中でも見たそれが、夢の中と全く同じ音で時を刻んでいる。
茜音さんはじっと僕を見つめていた。
まるで全てを見通すような、澄んだ瞳。
僕はその視線が何となく気まずくなって、つい頭をかく。
「あ、いえ……正直、狩森図書館の雰囲気は何だか怖いなって思ったんです。周囲は雑木林に覆われているし、何と言っても建物自体、薄暗くてとても古いし……。はっきり言って、不気味だなって。だから少しだけ中を覗いて、すぐに帰るつもりでした。
でも、茜音さんが応対してくれて気が変わったんです。あの時の茜音さんはいつもと同じで、優しくてすごく落ち着いていて……その時に思いました。ああ、なんだかすごく居心地がいいな、茜音さんの雰囲気が好きだなって……」
そこまで口走って、僕はハッとした。「茜音さんの雰囲気が好き」って、それはもはや告白も同然ではないか。
それに気づき、慌てて弁明する。
「い……いや、茜音さんの雰囲気は死別したおばあちゃんにすごく似ていて、それで僕的に親しみやすいというか、めちゃくちゃ懐かしくて……すみません! その……決して変な意味で言ったわけではないんです!」
不思議なもので、人はこういう時、言葉を重ねれば重ねるほど逆に本音を隠せなくなる。それは僕も例外ではなく、釈明すればするほど加速度的に自分の頬が熱を帯びていくのが分かる。今なら僕の顔面で茶を沸かすこともできるだろう。
こんなことになるくらいなら、余計なことは言わず黙っておけば良かった。何か格好の良いことを言おうとしたって、失敗するのは分かり切っていたのに。
僕はそう後悔しつつも、恐るおそる茜音さんの方を見る。
そして、茜音さんの顔を見て絶句してしまった。
茜音さんの頬を一筋の涙が滴り落ちていた。透明で何ものにも染まっていない清らかな雫が、軌跡を描いて溢れ落ちていく。
僕の呆気にとられた視線で茜音さんもその事に気づいたのか、すぐに指先でその涙を拭った。
「……ごめんなさい。そんなことを言われたのは、本当に……本当に久しぶりで……」
茜音さんが涙を拭うその仕草を見て、僕は悟った。
この人は本当に長い間、孤独だったのだ。
誰から好意を寄せられることも、温かい言葉をかけられることもない。
たった一人で、ひたすらに怪談を蒐集してきたのだ。
僕は茜音さんのことを完全に理解できたわけではない。むしろ、まだ何も知らないに等しいのかもしれない。
けれど、茜音さんはずっと一人だった。ちょっとした言葉に涙が溢れ出るほど。
それだけは間違いのない事実なのだ。
そして、茜音さんの涙を目にした瞬間、僕の中に燻っていた感情は全て吹き飛んでしまったのだった。
「……」
我ながら、何て単純なのだろうと思う。
決して茜音さんの涙に絆されたわけではない。
僕のこの気持ちはそんな単純なものじゃない。
でも、駄目なのだ。
茜音さんの涙を目にすると、胸が締め付けられて苦しくなる。この人のために何か力になりたい。そういう思いに突き動かされてしまう。
理屈ではない。
感情でもない。
もっと本能に近い衝動的な部分が僕を強く揺さぶるのだ。
(僕は茜音さんが好きだ。多分、初めて会ったあの時から、茜音さんが好きだった。そしてきっと、これからも……。それはもう、変えられないんだ)
そもそも僕は、茜音さんから何を聞き出したかったのだろう?
茜音さん本人の口から真実が語られるのを聞きたかったのだろうか。狩森神社の過去やいざや桜のこと、そして〈鬼神の法〉……夢で見たそれらの出来事が本当のことだったのだという確証が欲しかったのだろうか。
それとも、茜音さんを……そしてこの狩森図書館に通うのを諦める口実が欲しかったのだろうか。
キナリ様の呪いは、明らかに尋常ではなかった。あの呪いのせいで僕は生命の危機すら感じたし、茜音さんや狩森図書館のことにも強い疑問を抱くようになったのだ。
本当は、僕は心のどこかで狩森図書館での怪談の聞き手役を辞めたいと思っていたのではなかったか。
いや、もしかしたら僕は茜音さんを試したかったのかもしれない。本当は僕のことをどう思っているのか。茜音さんの発した言葉の端々から、無意識のうちにそれを嗅ぎ取ろうとしたのではなかったか。
でも、結局はどれも無意味な行為なのだと僕は悟った。
茜音さんは僕の思い通りになるような人じゃない。だからきっと、本当のことは言わないだろう。
ただでさえ茜音さんには本当のことを口にできない事情がある。彼女が狩森の巫覡である以上、誰にも真実を打ち明けることはない。茜音さんには命を賭しても守らなければならないものがあるからだ。
この先、もしかしたらそれで苦しむこともあるかもしれない。
好きな人が嘘をついているかもしれない……常にそれを意識させられることがどれだけ辛いことか。
僕は決して特別な人間じゃない。だから、いつかその苦しさに耐えきれなくなることもあるだろう。
或いは、キナリ怪談の時のように容赦なく身の危険に晒されることもあるかもしれない。
自宅の浴室でキナリ様に襲われた時は、これまで経験がないほどの恐怖を味わったし、もう駄目かもしれないという絶望感にも苛まれた。怪談の聞き手役をしている限り、きっと常にそのリスクはつきまとう。
ひょっとしたら、その事でいつか茜音さんから僕の気持ちが離れる時が来ることもあるのかもしれない。
もう無理だ、怪談の聞き手役はこれ以上、続けらない……そう判断したとしても、誰も僕を責められないだろう。
でもそれは今じゃない。
僕たちはもう、出会わなかった頃には戻れないのだ。
――ゆるすっていうのは受け入れることさ。ありのままの自分を、そしてありのままの世界を受け止める……それがゆるすということだよ。
何故だかふと、おばあちゃんの言葉が脳裏に甦る。
それと同時に、僕は腕に嵌めた水晶の腕輪念珠に手を添えていた。おばあちゃんから譲り受けた形見の品だ。
物事をありのままに受け入れる。言葉で言うのは簡単だけど、実行するのはこの上もなく難しい。自分のことすらなかなか受け入れられないのだから、他者のことなんてそう簡単に受け入れられるはずがない。
だから僕は、これまでおばあちゃんの助言についてあまり深く考えて来なかった。それはあくまで一種の理想論であって、真剣に考えても仕方がないのだと。
でも今は、かつてないほどその言葉が身に染みる。
茜音さんは本当のこと言っていない。全てが全くの嘘というわけでもないけれど、完全な事実を口にしているわけでもなくて、僕は時々、茜音さんのことが分からなくなる。本当に茜音さんのことを信じて良いのか、その自信が無くなってくる。
でも、今回の茶会で僕は気付いた。いま目の前に座っている茜音さんは、夢で見た茜音さんと同じなのだということに。
夢で見た茜音さんは言霊の才が無いにもかかわらず、まっすぐに巫覡を目指し、その夢が破れてもいざや桜や御霊の丘を管理し清掃するという仕事に一生懸命、励んだ。
さらに〈鬼神の法〉で父や母を失い、おまけに兄の蘇芳さんが鬼神になっても誰も恨むことなく、自ら鬼となった桔梗のため、そして世に散っていった鬼神たちやその魂を鎮めるためにその身を捧げた。
そして今も僕を気遣い、できるだけ不信や不安を解消しようとしてくれている。
確かに茜音さんは嘘を言うけれど、行動は常に一貫しているのだ。
いつも誰かのため、誰かを想って動いている。
だから僕も茜音さんを信じようと思った。
言葉ではなく、ありのままの茜音さんを受け入れる。
茜音さんの優しいところ、穏やかで落ち着いているところ、孤独なところ、お菓子作りが上手なところ。
強いところも、弱いところも、すべてありのままに。
長い沈黙の後、僕は茜音さんに言った。
「……茜音さん、いろいろな質問に答えてもらって本当にありがとうございました」
「……。もう、いいのですか?」
怪訝な顔をする茜音さんに、僕は笑顔を返す。
「はい。これ以上は多分、僕自身の問題なんです。だから今はこの話を続けるのはやめておきます。いつか話の続きをする機会があったら、その時は改めて質問をすることにします。僕が茜音さんのことを知りたい気持ちに変わりはありませんから」
「そうですか……」
茜音さんは複雑そうな表情をしていた。安堵と戸惑いが半々といった様子だ。
ひょっとしたら、僕の出した答えは茜音さんの想像していたものとは違うのかもしれない。
でも、それでも構わなかった。
僕は敢えて明るく振舞い、茜音さんに言った。
「せっかくですから、ケーキをいただいても良いですか? とてもおいしそうですね」




