第七十一話 僕たちが出した答え
「少し待っていてください。いま紅茶を淹れ替えますから」
茜音さんは席を立つと、給湯室でティーポットにお茶を淹れ、再び一般開架室に戻ってくる。そして僕のティーカップに温かいお茶を注いでくれた。
茜音さんのレアチーズケーキは洗練された見た目通り、とてもおいしかった。上のチーズクリームが滑らかなのに対し、土台の砕いたクッキー生地を固めた部分はサクサクしていてバランスも良い。
「これ、レアチーズケーキですよね? すっごくおいしいです。くちどけが良くて、酸味もほど良く効いていて……」
思わず感嘆の声を上げると、茜音さんは淡く微笑んだ。
「基本はクリームチーズを使うのですが、隠し味にレモン果汁とヨーグルトも入れているんです」
「ああ、だから後味がこんなに爽やかなのか」
「日差しの強い日が増えてきたので、何か冷たいお菓子が良いのではないかと思ったのですが……」
「はい、確かに自転車を漕いでいても汗ばんでくるくらいなので、こういうひんやりとしたスイーツがとても有難いです」
「ふふ、そうですか。良かったです」
茜音さんはとても嬉しそうだ。お菓子の話になって少し表情が明るくなった。
それを見ていると、神御目市立図書館で見た夢の出来事が思い出される。
あの夢の中で、茜音さんは自分の元を訪れた藤黄老にも手作りのクッキーを振舞っていた。あの光景を見て、僕はとても茜音さんらしいなと感じ、心を打たれた。
茜音さんは自分の元を訪れた人を何とかしてねぎらいたいのだろう。きっと、今も昔と同じように。
そこに、狩森図書館の地下で聞いたヒソヒソ声が言っていたような、邪な意図があるとは思えなかった。
(もうこれ以上、あの声に振り回されるのはやめよう。例のヒソヒソ声の言っていたことが、全て正しいと証明されたわけでもないんだ。……今は茜音さんを信じる。そう決めたんだから)
やがて一般開架室の古い柱時計が午後六時の到来を告げる。
いつの間にか、すっかり長居をしてしまった。そろそろ家に戻らなければ。
給湯室で茜音さんと一緒に食器を片付け、一般開架室を出ようとする。すると、茜音さんは僕を狩森図書館の玄関まで見送ってくれると言う。
玄関ホールまで来た時、僕は茜音さんの方を振り返って言った。
「次の怪談蒐集が決まったら、また連絡してください。いつでも駆け付けますから」
ところが、それを聞いた茜音さんは浮かない表情をする。どうやら僕の口にした言葉は彼女が予想していたものとはだいぶ違っていたらしい。瞳を伏せて僕に尋ねた。
「……。本当に……それで良いのですか?」
「もちろんです。僕は怪談の聞き手役なので。今のところ、それを辞めるつもりはありません」
けれど、その言葉もやはり茜音さんを喜ばせることはなかった。それどころか、茜音さんは何だかとても悲しそうな笑みを浮かべる。
気のせいか、その笑みはどこか苦しそうでもあった。
「……夏目さんは優しいのですね」
僕は微笑んでそれに答える。
「優しいのは僕じゃありません。茜音さんの方ですよ。茜音さんが優しいから、僕もそれに応えたいと思うんです」
すると茜音さんは小さく首を横に振った。
「私が優しいなんて……それは夏目さんの買い被りですよ。私はこの図書館に閉じこもってばかり。怪談を集めて記録することしかできない、無力な存在です。しかもその怪談蒐集でさえ、夏目さんに苦しい思いをさせてしまいました。もし夏目さんが怪談の聞き手役のアルバイトを負担だと感じるなら、本当はいつでも……」
僕はその時、初めて察した。茜音さんが怪談蒐集の仕事も入っていないのに、なぜ僕を狩森図書館に呼び出したのか。
茜音さんはひょっとしたら、僕に逃げ道を作ろうとしてくれているのかもしれない。
今ならまだ間に合う、今ならまだ引き返せる……と。
そう悟った瞬間に、僕は口を開き、言葉を発していた。
「……いざや桜の木のもとに君を待つ」
茜音さんは、はっと息を飲んで僕を見つめた。
僕も茜音さんを見つめ、続けて口にする。
「今のは、いざや桜の下で行われていたおまじないだそうです。別れた二人がいつかまた必ず再会できるように、と」
「夏目さん……」
「また来ます。今日はごちそうさまでした」
それを聞いた茜音さんが何を思ったのかは分からない。
茜音さんはしばらく澄んだ瞳を揺らしていた。
けれど、やがてそこに少しずつ強い光が宿っていく。
《鬼神の法》を受けると決断した、あの時のように。あるいは、いざや桜が燃えた晩、鬼になりかけた桔梗の胸を弓で貫いた時のように。
最初小さかったそれは、徐々に確固とした輝きへと変貌を遂げていく。
茜音さんは一瞬だけ瞼を閉じた。
そして再び僕を見た時には、いつもの茜音さんらしい、しなやかな笑顔を取り戻していた。
「……いえ、こちらこそお付き合いいただいてありがとうございました。次の怪談蒐集の際に、またお会いしましょう」
僕は頷き、玄関扉のドアノブに手をかける。
「それでは、これで失礼しますね」
「はい。気をつけてお帰り下さい」
最後にそう言葉を交わしてから、僕は狩森図書館を後にしたのだった。
ありのままを受け入れるのは難しい。
僕はまだ、何かをありのまま受け入れられるほど強くないからだ。
つい自分の興味や好奇心に振り回されてしまう。そのくせ、知ったら知ったで疑心暗鬼に陥ったり、不安になったりしてしまう。ただでさえ、人間は自分の見たいものしか見ないという偏った状態に陥りがちだ。僕がおばあちゃんの言っていた域に達するのは、少なくとも百年は早いのだろう。
でも、どれだけ難しくても、まずはありのままを受け入れてみよう。
ありのままの茜音さんを、そして茜音さんに惹きつけられてやまない、ありのままの自分を。
既に日が傾きかけているせいか、狩森図書館の周囲を覆う雑木林の中は日没後のように暗く、いつもに輪をかけて不気味だった。
足早にその中を通り抜けようとしたその時、足元を何かがサッと横切って行く。
何度も嫌になるほど遭遇してきた、黒く小さな影。突然の不意打ちに僕は思わず足を止める。
黒い影の方もまた、僕の二メートルほど先で立ち止まり、こちらを振り返った。金と紅の鮮やかなオッドアイ。いつもの憎たらしい黒猫だ。
鋭い瞳で、ぎろりと僕を睨んでいる。そして、やはりいつものように僕のことが気に入らないのか、敵意を隠そうともしていない。むしろ一刻も早く追い払おうとしているかのようだ。
でも僕は、いつもみたいに黒猫に毒づいたりはしなかった。
それどころか、息を詰めオッドアイの主をじっと見つめる。
(蘇芳さん……!)
もし仮に神御目市立図書館で見た夢が本当だとしたら、この黒猫は茜音さんの実の兄、蘇芳さんだ。彼はきっと、鬼神となりその力を失って、さらには猫ほどの大きさになってからも、ずっと茜音さんと共にいたのだろう。
ただ、この黒猫が蘇芳さんだという確証はない。何せ、僕が見たのはあくまで夢であって、事実とは限らないからだ。
それでも僕は、黒猫に語り掛けていた。
「お前……鬼神か? ひょっとして、黒猫ではなく鬼神だったのか」
すると、黒猫は目を細め、威嚇するように口を開けた。
暗闇にギラリと光る金と紅の瞳。そして同時に黒猫の牙が生えた口腔がくっきりと浮かび上がる。
それはまるで、ニタリと笑っているようでもあった。
『お前など、いつでも頭からがぶりと喰ってしまえるのだぞ』……そう言わんばかりの、ぞくりとする笑みだった。
僕はその圧倒的な迫力に怯み、思わず半歩ほど後ずさりしたが、それでも黒猫に向かって告げる。
「僕は茜音さんを諦めない。いくら脅しても無駄だからな」
黒猫は口を閉じ、しばらくじっと僕を見つめていた。
しかし、突然、興味を失ったように僕から顔を背けると、雑木林の茂みの奥に姿を消す。
僕はその後姿を見つめながら考えた。
(鬼神となった蘇芳さんには、茜音さんの記憶はないはずだ。それでも蘇芳さんはずっと茜音さんのそばにいる。それだけ、蘇芳さんの茜音さんに対する想いは強いのかもしれない……)
しかし、だからと言って、僕も大人しく追い払われるつもりはない。蘇芳さんが茜音さんのことを想っているのと同じくらい、僕も茜音さんのことを想っているつもりだから。
僕は背後に建つ狩森図書館を見上げた。
この図書館にはまだ秘密が眠っていると僕は考えている。
茜音さんは何のために怪談、もしくは鬼譚を集めているのか。そして、夢の中で茜音さんが育てていた、いざや桜の若木はどこへ行ったのか。まだ明らかになっていない謎がいくつかあるからだ。
でも、それが明らかになる日はそう遠くないのではないかと思う。
きっと、茜音さんが覚悟を決めたその瞬間に、その未来が確定づけられたのだ。
でもそれで構わない。
僕は茜音さんのありのままを受け入れると決めたのだから。
その時、ふと気づいた。二階の窓から誰かが僕の方を見つめている。背格好から茜音さんではない事だけは分かった。でも、誰かは分からない。その人影は黒っぽく、ひどくぼんやりとしているからだ。
不意に突風が雑木林を吹き抜けていく。その激しさに、僕はほんの一瞬目を瞑り、そしてすぐにそれを開いた。
その僅かな間に、二階の人影は忽然と消え失せていた。
まるで、最初からそこには誰もいなかったかのように。
僕はしばらくそれを見つめた後、踵を返して再び雑木林の外を目指す。
ざわざわと木々の枝が揺れる。
その動きに伴って、そこかしこで影が蠢く。
どこかから不機嫌そうな猫の鳴き声が聞こえてきた。
その声は最初、甲高かったけれど、次第に低い声が混じるようになる。まるで亡者の怨言のようでもあり、慟哭のようにも聞こえる、背筋がぞっと粟立つ声だ。
それを聞き、僕は確かに悟った。
もう後戻りはできないのだと。




