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第六十七話 夢のあと

 黒い獣と茜音さんは取っ組み合い、もつれ合って激闘を繰り広げた。


 両者ともただならぬ唸り声をあげ、食らいつき合う。


 けれど、おかげで僕はどうにか茜音さんの怪力から逃れることができた。


 大きく咳をしつつ、めいっぱいに空気を吸う。そして一心地ついてから茜音さんと戦っている黒い獣の方を見た。


「あれは……!」


 その姿には見覚えがあった。


 僕が自宅の浴室でキナリ様に襲われた時、突然、虎ほどもある大きな黒い獣が現れてキナリ様を退治してくれた。まるで命の危機に見舞われた僕を助けようとするかのように。


 いま、茜音さんと取っ組み合っている黒い獣は、あの時に現れたものに似ている気がする。


 もっとも、断言はできない。浴室の扉は擦りガラス状になっていて、はっきりとその姿を確認できたわけではないからだ。


(あの黒い獣は一体……?)


 すると僕の視線に気づいたのか、黒い獣は茜音さんから離れ、顔をこちらに向けた。全身が真っ黒な毛で覆われており、時おりそれが陽炎のように揺らめく。あまりにも毛が黒いため、顔の造形も分からないほどだった。


 ただその中で、二つの目が鮮烈な輝きを放っている。露草(つゆくさ)色をした宝石のような瞳。


 それを見て、僕は思わず息を飲んだ。


「お前、ひょっとして……僕とずっと一緒にいた黒猫か!?」


 僕の声に反応したのか、黒い獣の体はするすると小さくなり、元の黒猫の大きさに戻る。そして小走りに僕のところに戻ってくると、なあん、と鳴いて僕の両足にまとわりついた。


 僕は身を屈め、黒猫の背を撫でる。


「お前はいつも僕を助けようとしてくれるんだな。……ありがとう、助かったよ」


 一方、茜音さんは黒猫との死闘でかなり体力を消耗してしまったらしく、すっかり疲弊していた。よろよろとした動きで身を起こすと、どうにか立ち上がる。


 しかも、その足取りも覚束ない様子で、たたらを踏んでいる。着物もボロボロで、いつ再び倒れ込んでもおかしくない。


「茜音さん、大丈夫ですか?」


 僕は茜音さんに駆け寄ろうとした。けれど、露草色の瞳をした黒猫が僕の前に回り込み、行く手を阻む。


「そこをどいてくれ。どれだけ茜音さんに傷つけられたとしても……嘘をつかれ、騙されていたのだとしても、それでも僕は茜音さんを放ってはおけないんだ!」


 しかし、黒猫も頑として道を譲らない。


 そうこうしているうちに、茜音さんの姿が歪んで、ゆらりと大きく揺れた。まるで蠟燭の炎のように。


 そして元に戻った時には、その姿は全く別人の姿になっていた。


 それは僕だった。顔や体格はもちろん、服装の細部に至るまで全く同じ。僕自身がすぐ目の前に立っている。


 何故、茜音さんが僕の姿に……? 呆気にとられる僕の前で、別の僕は両手で顔を覆う。そして、苦しげな表情で吐露するのだった。


「どうしてだろう。僕にある〈言霊の力〉が何故、茜音さんにはないんだろう? 僕は〈言霊の力〉を扱えもしないのに。この力を本当に必要としているのは茜音さんなのに。茜音さんに申し訳ない。どんな顔をして茜音さんに会えばいいのか分からない……!」


 もう一人の僕は、ひどく苦悩していた。


 そして苦しい心情を全て吐き出すと、すうっと暗闇の中に消えていった。


 その時、僕は初めて自分の中に巣食っていた感情に気づいた。


 これまで茜音さんの身に起こった出来事を追体験する中で、僕は常に心のどこかで考えていた。もし茜音さんに〈言霊の力〉があれば、茜音さんは巫覡になるという夢を叶えられたに違いない。それにきっと、茜音さんが〈言霊の力〉を持つことによって回避できた悲劇も数多くあっただろうと。


 そのことは、おそらく茜音さんが誰より痛感することだろう。だからこそ、考えてしまう。


 どうして茜音さんに〈言霊の力〉が無くて僕にあるのか。そしてもし、僕に〈言霊の力〉があることを知ったら、茜音さんはどう思うだろうか、と。


 そして、それゆえに僕はずっと茜音さんに罪悪感を抱いていた。


 目の前で言霊の才がないばかりに夢破れ、親友すら失って打ちひしがれる茜音さんの姿を目にして、心苦しさと申し訳なさでいっぱいだった。


 僕の首を絞めた茜音さんは、そんな僕の心が作り出した幻だったのだ。言わば、僕の抱いていた罪悪感や恐怖そのもの。だからこそ、彼女は僕に触れ、首を絞めることができたのだ。


 これまで、過去の世界に生きていた茜音さんには指一本触れることができなかった。それを考えても、先ほどの茜音さんは本物ではない。


 僕の茜音さんに対する後ろめたさが生み出した、ただの幻覚だったのだ。


 でもその時、ふと気づく。茜音さんに対して罪悪感を抱くことは本当に正しいのだろうか、と。


 茜音さんはもし僕に〈言霊の力〉があることを知ったとしても、僕が茜音さんに負い目を感じることを望まないだろう。むしろそれは、茜音さんに対する侮辱になってしまうのではないだろうか。


 何故なら、本物の茜音さんはこれまでどんな困難に直面しても、決して言霊の才がないことを言い訳にしなかったからだ。


 それに、恨み言を口にしたり自分を卑下したりもしなかった。だから、そんな茜音さんの姿を見て、僕が勝手に心苦しくなるのは間違っているのではないかという気がする。


(茜音さんは強い女性(ひと)だ。言霊の才が無くても、自らの力で幾多の困難を乗り越えてきた。だから僕もそれを尊重しよう。茜音さんに対して罪悪感を覚えてしまうのは、心のどこかで茜音さんのことを可哀想だと思っているからだ。でも、それは違う。違うんだ……!)


 どんな顔をして茜音さんに会えばいいのか分からない。幻の僕は、そう言って苦悶の表情を浮かべていた。


 確かに、何が正解かは難しいところだと思う。けれど、今まで通りに接するのが一番良いのではないか。それが僕の答えだった。


 僕は、〈言霊の力〉の有無で茜音さんに態度を代えて欲しくない。


 茜音さんもきっと同じなのではないかと思うからだ。


 感情の整理がつくと、ようやく周りの状況に目が向くようになった。とはいえ、周囲は真っ暗闇に包まれており、相変わらず何も分からない。もう一人の僕が消滅してから、この暗闇の中にいるのは僕と露草色の瞳をした黒猫だけだ。


「困ったな……これからどこへ行けばいいんだろう?」


 すると、黒猫はまたもや、なあん、と鳴いて走り出す。そして途中で立ち止まって、こちらを振り返った。


 体の色が黒いせいで、その姿はほとんど闇の中に溶けてしまっているが、二つの露草色の瞳が僕の方を見つめているので、辛うじて黒猫がそこにいるのだと分かる。


 僕は黒猫に向かって微笑んだ。


「分かっているよ。ついて来いって言っているんだよな?」


 黒猫は再び走り出す。僕もそのあとを追った。


 黒猫の姿はすっかり暗闇に紛れてしまい、気を抜くとその姿を見失いそうになる。それでも黒猫を見失わず追うことができるのは、黒猫が時おりこちらを振り返るからだ。


 そのたびに、一対の露草色の瞳が闇の中に浮かび上がる。だから僕は暗闇の中でも迷うことなく進むことができる。


 そうして黒猫の後を追って走りながら、僕は考えた。


 この黒猫は何者なのだろう。どうして僕とずっと一緒にいてくれるのだろう。


 この黒猫は僕の身に危険が迫ると、必ず助けてくれる。それは何故なのだろう。


 黒猫の露草色をした瞳を見ていると、ふと茜音さんのことが思い出された。


 茜音さんはいつも僕のことを守ると言ってくれる。そして、彼女がその約束を違えたことはない。そのせいだろうか。この黒猫と一緒にいると、茜音さんがそばにいてくれるような安心感を得られるのは。


 おかげで、僕はためらうことなく黒猫の後を追うことができた。この子の後についていけばきっと大丈夫なのだ、と。


 露草色の瞳が時おり気遣わしげに僕の方を振り返り、僕はそれを目安に進行方向を決める。そうして二人で走り続けているうちに、前方に真っ白な光がぽつんと浮かんでいるのが見えてきた。


 その光はこちらに向かって放射状に広がり、闇を薙ぎ払っていく。世界が黒から白に切り替わり、そして徐々に僕の意識も朦朧とし始めた。


 それでも僕は走る黒猫の後を追う。


 ただ一心に黒猫のこと、そしてその露草色の輝きを信じて。


「茜音さん……!」


 そう呟いた瞬間に、とうとう僕の意識は途切れてしまったのだった。



∗∗∗∗∗



 目が覚めると、僕は机に突っ伏していた。


 どうも、ずいぶん長い間、眠っていたらしい。体を起こすと、肩や首がすっかり凝っていて痛みが走る。


「ここは……?」


 ぼんやりしていた意識がはっきりしてくると、僕は周囲を見回した。


 そこは神御目(かごめ)市立図書館の一般開架室だった。


 どうやら僕は、その閲覧テーブルで居眠りをしていたらしい。テーブルにはいくつかの神御目(かごめ)市に関する民話集が積み重なったままになっている。


 一般開架室には窓から初夏の明るい日差しが差し込んでおり、不審な様子はどこにもない。老若男女、多くの利用者が本を読んだり寛いだりしている。


「ええと……僕は何をしていたんだっけ……?」


 偏った姿勢で眠っていたからか、どうにも記憶が曖昧だった。目の前に広がった民話集を見つめつつ、神御目(かごめ)市立図書館に来てからのことを思い出す。


(確か、狩森図書館や狩森神社のことを調べようと思って、この神御目(かごめ)市立図書館に来て……図書館司書の人からいざや桜のことを教えてもらったんだ。そして、いざや桜伝説にについて調べるため、神御目(かごめ)市に関する民話を集めた民話集を読んだ。

 もっと詳しいことを知りたくて他の書棚に向かったら、何故かそこに〈神御目(かごめ)市の歴史 5〉が置いてあり、しかも狩森図書館にあったものと違って中を読むことができた。ずっと気になっていた、狩森神社に関して記述された部分も、全て……!)


 そうだ、〈神御目(かごめ)市の歴史 5〉はどこに行ったのだろう。テーブルの上に積み重なった民話集を手に取るが、そこに〈神御目(かごめ)市の歴史 5〉は含まれていなかった。


(ない……! そういえば、〈神御目(かごめ)市の歴史 5〉を読んでいる途中で気味の悪い影たちに囲まれて……慌てて鞄の中に〈神御目(かごめ)市の歴史 5〉を入れて図書館から出たんだ。

 それでも影たちは執拗に僕を追いかけてきた。だから僕は狩森図書館に逃げ込むことにした。あの時はまだ、鞄の中に〈神御目(かごめ)市の歴史 5〉が入っていたはずだ)


 ところが、急いで鞄に手を突っ込み中を探すものの、〈神御目(かごめ)市の歴史 5〉はどこにもなかった。鞄に入っているのは僕の私物ばかりだ。


 念のため、〈神御目(かごめ)市の歴史 5〉が置いてあった本棚にも行ってみたが、そこにもやはり見当たらない。


 まるでそんな本は最初から無かったかのように。


「どういうことなんだ……?」


 眉をひそめてから、ふと気づいた。


 ひょっとして、僕は最初から夢を見ていたのではないだろうか。


 多分、いざや桜伝説に関する民話集を読んだところまでは現実の出来事だ。現にそれらの本は僕の目の前に並んでいる。


 でも、その後のこと……つまり、〈神御目(かごめ)市の歴史 5〉を手に取ってその中を読んだことや、その最中に奇妙な影の姿をした集団に囲まれたこと、そして彼らに追いかけまわされた挙げ句に狩森図書館へと逃げ込んだことなど、それらは全て僕が閲覧テーブルでうたた寝している間に見た夢だったのではないか。


(それじゃ、狩森図書館で茜音さんが眠っていたことも、茜音さんに触れた瞬間、狩森神社の過去の世界に引き摺り込まれたことも、ぜんぶ夢……?)


 あの世界で目にした荘厳かつ優美ないざや桜の姿や、茜音さんのお母さんや蘇芳(すおう)さん、そして藤黄老(とうおうろう)桔梗(ききょう)のことも、全て僕の脳が生み出した夢の世界……ただの幻影だったのだろうか。


「――……」


 まるで狐につままれた気分だった。


 何が何だか、わけが分からない。


 神御目(かごめ)市立図書館の一般開架室は静かだが、穏やかで心地良い空気に包まれており、それが余計に僕に現実を突きつけてくる。


 あんな奇怪で異様な体験が、現実に起きた出来事であるはずがないではないか、と。


(まさか……あれが全部夢だったなんて、そんなことあり得ない!)


 何か証はないか。僕が狩森神社の過去に行ったのだという明確な証拠がどこかにないだろうか。


 そう考えた僕は、はっとして、右腕に嵌めたおばあちゃんの形見である腕輪念珠に触れた。すると、すぐに冷たい感触が戻ってくる。


 服の右袖をまくると、そこには水晶玉が整然と連なり、輪になっていた。狩森神社の過去の世界でも、この腕輪念珠には何度も助けられ、そして支えられた。言うなれば、この腕輪念珠は苦難を共に乗り越えた相棒でもあるのだ。


 けれど、どれだけ観察してもその腕輪念珠には何の痕跡も残っていない。僕が過去の狩森神社の世界に行ったことはもちろん、そこで茜音さんの人生を追体験したことも。


「そんな……!」


 やはり、僕が体験したのは、居眠りしている間に見たただの夢だったのだろうか。全ては実際に存在しない虚構に過ぎないのだろうか。


 ひとり呆然としていると、鞄の中から振動音が聞こえてきた。マナーモードにしていたスマホにメッセージが入ったのだ。そのメッセージの発信主は茜音さんだった。


『夏目さん、今日は何かご予定がありますか? もしお時間があるなら、狩森図書館にお越しください。お話したいことがあります』


 どきりとした。


 どうして、このタイミングで茜音さんからこんな連絡が? 


 けれど、僕はすぐに気付く。今日は日曜日だ。学校が休みだから、時間の融通を利かせやすい。多分、茜音さんは僕に気を使ってくれたのだ。


 少し考えてから、僕は茜音さんに返信した。


『分かりました。これからお伺いします』


 すると、再び茜音さんからメッセージが届く。


『それでは、お茶を用意してお待ちしていますね』


 僕が見たことや体験したことが、夢か現かは定かでない。でも、僕も何となく茜音さんに会って話したい気分だった。


 何について話すか具体的に決めていたわけじゃない。でもとにかく、茜音さんの顔を見て、実際に声を聞きながら会話をしたかった。


 でなければ、茜音さんや狩森図書館の存在さえも夢や幻になってしまいそうで怖かった。


 すぐに席を立ち、鞄を肩に下げると、閲覧テーブルの上に広げた民話集を図書館の返却カウンターに戻し、外に出る。


 そのまま、まっすぐに駐輪場に向かうと、僕の自転車はそこにあった。神御目(かごめ)市立図書館に来た時、自転車を停めた時のまま、何の変化もない。


(自転車はここに停めたまま……か。やっぱり、僕が自転車に乗って狩森図書館に向かって、竹林のそばに乗り捨てにしたのは、夢だったんだろうか……?)


 駐輪場は相変わらず薄暗いけれど、樹木の茂みやそばに止めてある自動車の下から不気味な影が湧き出すということもなく、いたって普通だった。それを見ると、余計にあの影たちに追い掛け回されたことは夢だったのではないかと思えてくる。


 もっとも、今もあの時の恐怖は手の平にへばりつくように残っているけれど。


 ともかく、僕はサドルに跨って自転車を漕ぎだした。神御目(かごめ)市を包む空は眩しいほど真っ青で、ぽかりとした雲がいくつか浮かんでいるだけだ。日差しはやや強いものの、空気がからりとしていてとても気持ちがいい。


(あの黒い影たちに追いかけられていた時は、いまにも振り出しそうなほどの曇天だったのに……)


 やはりあれは夢だったのか。それとも、単に天気が急変しただけなのか。僕には分らない。


 僕は無心になってペダルをこぎ続け、茜音さんの待つ狩森図書館に向かうのだった。


 いつものように竹林のところにある空きスペースに自転車を停め、雑木林の間を潜り抜けて狩森図書館の扉を開ける。


 神御目(かごめ)市立図書館とは全く違う、しんと静まり返った古い木造の空間。さっき夢の中で来たばかりなのに、何だかとても懐かしい。心の底からほっとする。まさに実家のような心地よさだ。


 とはいえ、正直なところ僕はどんな顔をして茜音さんに会えばいいのか分からなかった。


 確かに僕が神御目(かごめ)市立図書館で居眠りをしていたのは事実だと思う。でも、僕が見た夢の全てが嘘や偽りであるようにも思えない。茜音さんに直接、確認したいけれど、そうしたら僕が狩森神社や茜音さんについて勝手に調べ回っていたことがばれてしまう。それは何となく、茜音さんに知られない方がいい気がした。

 

 そのせいもあってか、茜音さんに遭うのが何となく気まずい。


 取り敢えず、いつものように狩森図書館全体に聞こえる声を張り上げてみる。


「こんにちは、茜音さん。夏目です」


 声をかけると、すぐに茜音さんが一般開架室から廊下に顔をのぞかせ、そして僕の方にやって来た。茜音さんはいつものように微笑んで僕を出迎えてくれる。


「ごめんなさい、こんな風に突然、お呼び出ししてしまって」


「あ、いえ、いいんです。気にしないでください。今日は日曜日ですし、その……特にやることもないので」


 やはり、神御目(かごめ)市立図書館に行ったことは黙っておこう。


 茜音さんの笑顔を見て、改めてそう思った。

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