第六十六話 闇の中
「その図書館とやらには、残った巫覡が総力を挙げ、結界を施すこととしよう。狩森以外の外部から認識されにくくなる、特別な結界だ。
また同時に、お前や蘇芳の鬼化を遅らせる結界も張らねばならんな。蘇芳はともかく、茜音、お前はこの二十年ものあいだ全く姿かたちが変わっておらん。だがそれでも、鬼化が進まぬという保証はない。お前が鬼となってしまったら、他の鬼神たちやその魂を回収する者がいなくなってしまう。念には念を入れ、万全を期すための措置だ」
「はい……!」
「ただしこの結界には副作用がある。一度、結界を張ったら最後、お前たちはその中から出られなくなるということだ。無論、全く出られないというわけではない。物理的にはいつでも結界の外に出ることは可能だ。だが、一度外に足を踏み出せば、結界の力が逆に作用し鬼化が強まってしまうのだ」
「……つまり、私と兄さまは実質的に、結界の外には出られなくなってしまうということですね?」
「そういうことになる。……それでも覚悟は変わらぬか?」
藤黄老は念を押すように尋ねた。けれど、やはり茜音さんの答えは変わらない。
「はい、もちろんです。もし仮に一人きりになったとしても、私は狩森の鬼神たちの……みなが還る場所を守るつもりです」
「……そうか。お前は強い娘だな。本当に強い娘だ」
しみじみと噛みしめるようにそう言ってから、藤黄老はそっと目を閉じた。彼の吐く息は、心なしか震えを帯びている。
とうの昔にいざや桜や狩森神社を失い、残った狩森の人々は今もなお分断と闘争に明け暮れている。
二十年もの間、そのような光景ばかりを見せられ続け、藤黄老もいつしか心のどこかで諦め始めていたのかもしれない。このままでは狩森神社の再興はおろか、鬼神たちの魂の救済さえも叶わないのではないかと。
だからこそ、余計に茜音さんの存在に救われるのではないか。僕はそう思えてならなかった。
やがて再び目を開くと、藤黄老は茜音さんの方を見る。
「……あと最後に一つ、個人的な頼みごとをしても良いか?」
「何でしょう、藤黄さま?」
「儂が死んだら、黄昏の石室を介し、いざや桜に魂を還して欲しい」
それを聞き、茜音さんは血相を変えた。
「そんな、死ぬだなんて……! 藤黄さま、どうかそのような滅多なことを仰られないでください!」
それに、「黄昏の石室を介して」という条件をつけたということは、藤黄老は自ら〈鬼神の法〉を受け、鬼神になるつもりなのではないか。何故なら黄昏の石室は、暁の石室で鬼神となった魂をいざや桜に還す場所だからだ。
どうしてわざわざそんなことを。僕が訝しく思っていると、藤黄老はふと微笑を浮かべる。
「お前の気持ちは嬉しいが、おそらくその時は近い。これを見よ」
そう言うと、藤黄老は片腕の着物の袖をまくる。
その中から覗いた腕は、半分以上、黒い靄に包まれていた。鬼となった桔梗がそうであったように。
僕はそれを目にしてぎょっとした。
「あれは……!」
茜音さんもひどく衝撃を受け、両手で口元を覆う。
「これは、まさか……! 藤黄さま……!!」
ショックを露わにして体を震わせる茜音さんに対し、藤黄老は冷静だった。それどころか、どこか自嘲気味に己の心境を語り始める。
「儂はかつて多くの同胞に〈鬼神の法〉を施し、彼らを鬼神にしてきた。そんな己が鬼と化すのはある意味、当然の報いなのかもしれん。そう、これは罰だ。同族を生きながらにして鬼神にし苦しめてきた。その罰が下ったのだ。
本来は自分の始末は自分でつけるべきなのだろう。だが、このまま鬼となって他の狩森の人間の手を煩わせるというのも、どうにも忍びない。だから、完全に鬼と化す前に鬼神となり、いずれはいざや桜の元に還るのが最善ではないかと考えたのだ。他の狩森の巫覡たちの多くがそうなったように。
いざや桜と暁の石室、そして黄昏の石室があるならそれが可能だ」
それを聞いていて、僕は思った。ひょっとしたら、これは藤黄老なりのけじめなのかもしれない、と。桔梗を追い詰め、いざや桜や狩森神社を失ってしまった責任を、藤黄老は彼なりの方法で取ろうとしているのではないか。
もっとも、そこにいかなる事情があろうと、茜音さんにとっては辛く苦しい依頼であることに違いはない。茜音さんにとって、藤黄老は師とも言うべき存在だからだ。
「藤黄さま……そんな……! 藤黄様までいなくなってしまったら、私は……!!」
茜音さんの頬に涙が滴り落ちる。
確かに茜音さんは強い。でも、失うことに慣れているわけではないのだ。
それに、決してひとり孤独に生きることを良しとしているわけでもない。そうせざるを得ない環境に身を置いているだけで。
(……それでもきっと、茜音さんは藤黄老に〈鬼神の法〉を行うのだろう。茜音さんもまた狩森の巫覡だ。鬼となって調伏され、そのまま消滅するよりも、鬼神になって静かに眠る方がずっと幸せだということを彼女は知っている。いざや桜があれば、鬼神の魂はいつか還るべき場所に還ることができるのだから……)
鬼神にした藤黄老を、今度は茜音さんが鬼神にする。まったく、何という因果なのだろう。僕はその容赦のない現実に言葉もなかった。
本当は茜音さんも、こんな形で藤黄老との別れなど迎えたくなかったはずだ。
茜音さんはずっと藤黄老を尊敬し、慕ってきた。だからこそ、藤黄老を鬼神にするのではなく、ひとりの人間として、そしてひとりの巫覡として堂々と見送りたかったはず。
長年、狩森神社のために尽力してきた藤黄老その人のために。
藤黄老はその姿を目にし、表情を和らげた。今まで見たこともないほど優しい目だ。
「……お前は泣いてくれるのだな、茜音。お前や兄を鬼神にしたのはこの儂なのに……それでもお前は儂のために泣いてくれるのだな」
そして、茜音さんの方に体全体を向けると、静かに頭を下げた。
「大きな重荷を背負わせることになって本当にすまない。だが茜音、いまとなってはお前だけが頼りだ。……いざや桜と鬼神たちの魂を頼む」
茜音さんは肩を震わせていたが、こうべを垂れる藤黄老の姿に気づいてすぐに涙を拭い、毅然とした表情をする。
そして、藤黄老に向かって頭を下げ返した。
「はい。藤黄さまの想い、必ず私が受け継ぎます。全ての鬼神たちの魂を取り戻すまで、きっと……!」
誰の目にも、茜音さんが無理をしているのは明らかだった。けれど、彼女は決して自らの歩みを止めないだろう。
茜音さんは誰に対しても誠実であろうとする。桔梗に対する想いを忘れることはないだろうし、藤黄老との誓いも果たそうとするだろう。
それ故に、茜音さんは自らに課せられた狩森の呪縛から逃れることができないのだ。
「茜音さん……」
僕は書斎の奥から縁側で会話をする茜音さんと藤黄老の姿を見つめていた。
(茜音さんは怪談の聞き手役のアルバイトをする僕に対してとても優しい。わざわざお菓子を振る舞ってくれるし、怪談について会話を交わすのも大きな楽しみの一つだ。
でも、茜音さんは時おり、どことなく寂しそうな顔をしていて……僕にはそれが何故だか分からなかった。どんなに楽しそうにしていても、茜音さんには埋めようのない空虚さがあるように感じられて、その度に胸が苦しくて仕方なかった。
何とかしたいと何度も思ったけれど、僕にはどうしようもなくて……でも今、茜音さんが寂しそうだったその理由が少しだけ分かったような気がする)
茜音さんは重い使命を背負っている。一人で狩森の鬼神の魂を救うという途轍もなく重い使命を。
その使命を果たすため、彼女は自ら狩森図書館に閉じこもるという過酷な道を選んだ。茜音さんの使命を果たすには、それ以外の方法は無かったから。
そういえば、以前、僕は茜音さんを神御目市立図書館に誘ったことがある。でもその時、僕は茜音さんにその申し出を断られた。自分は狩森図書館を離れることができないから、市立図書館に行くことはできないと。
あの時は体よくあしらわれたのだと思って、けっこうショックだった。でもそれは僕の思い違いだったのだ。
茜音さんは本当に文字通り、狩森図書館から出ることができない。
狩森図書館には結界が張られていて、それを破って外に出ると結界の作用が悪い方向に働いてしまうからだ。
茜音さんは嘘を言っていなかった。彼女は狩森図書館に半永久的に閉じ込められていて、そこからどこにも行くことができないのだ。
(……ということは、茜音さんは知り合いも非常に限られているんじゃないかな。〈神御目市の歴史 5〉によると、狩森神社が廃絶したのは明治の頃だと書いてあった。茜音さんは鬼の力を持っているからか、現代でもほとんど姿が変わっていない。でも、他の巫覡は違う。当時の狩森の巫覡たちはみなとうに鬼籍に入っているだろうし、藤黄老もきっともう……。
かと言って、新しい知人や友人を簡単に作ることもできない。何せ茜音さんは狩森図書館の外に出られないんだから。しかもその狩森図書館は、人がほとんど立ち入らないよう結界まで施してある。つまり茜音さんは、多くの時間をあの狩森図書館の中だけで過ごしてきたんだ。たった一人きりで……)
いくら鬼神の魂を取り戻すため、あるいは狩森の秘術を守るためと言ったって限度がある。明治時代から現代まで百年もの間、ひとり孤独に過ごすことがどれだけ辛いことか。
僕ならきっと十年でさえ耐えられない。
さらに茜音さんの孤独を複雑なものにしている要因が他にもある。それは桔梗の存在だ。
(ひょっとしたら、桔梗を手にかけてしまったことで、茜音さんが狩森一族や鬼神たちに対して抱いている責任感は、使命というよりもはや贖罪になりつつあるのかもしれない……)
茜音さんが作業をしていた文机の前にある座布団には、金と紅のオッドアイをした黒猫と、露草色の瞳をした黒猫が仲良く並んでくつろいでいる。まるで親子か、兄弟姉妹のように。
それを見つめながら僕は思った。
茜音さんが二十年たった今も桔梗のことを忘れていないのは間違いない。でもそれは、茜音さんにとって必ずしも良いことばかりではないだろう。
茜音さんと桔梗の思い出は、ポジティブなものばかりではない。それどころか、茜音さんはいざや桜が
燃えたあの夜、桔梗を調伏するという決断を下したことを後悔している可能性すらあるのだ。
僕はあの時の茜音さんの判断は間違っていなかったと思う。茜音さんが決断をせねば、おそらくもっとたくさんの人が血を流して死んでいた。
でも、だからと言って、茜音さんにとっては何の慰めにもならないだろう。
どんな事情があれ、彼女が桔梗の命を奪ったという事実は変わらない。茜音さんはきっとそれを一生背負っていくつもりに違いないからだ。
唯一、茜音さんを許すことができるのは桔梗だけだが、彼女は既に死んでしまった。そのため、いまとなっては茜音さんを許すことができるのは茜音さん自身だけだ。
けれどそれを決めるのはあくまで茜音さん自身でしかない。他人がどうこうできる話ではないし、軽々しく踏み込んだり干渉すべきでもない。
「一体、僕に何ができるだろう? 茜音さんのために何をしたらいいんだろう」
答えは出ない。茜音さんが背負っているものの重さを考えると、どんな言葉をかけて良いのかすら分からなくなる。
茜音さんはこの百年、何を思って生きてきたのだろう。
たった一人で、どれだけの苦しみに耐えてきたのだろう。
いつか茜音さんが狩森の呪縛から解放される日は来るのだろうか。
「もし……もし茜音さんに僕の〈言霊の力〉があったら、何かが変わったのだろうか……?」
僕は思わずその考えを口にしていた。
これまでも、〈言霊の力〉が茜音さんにあればと考えたことはある。でも、今まではそれを口に出すことはなく、自分の胸の中に留めていた。それはあくまで仮定の話であって、どう足掻こうと現実にはなり得ないことを理解していたからだ。
でもこれだけ茜音さんの過酷な過去を見せつけられると、心から願わずにはいられない。
大して活用もできていない僕の〈言霊の力〉が、茜音さんのものだったらいいのに、と。
ところが、僕がそう呟いた瞬間のことだった。突如、周囲の光景が暗転する。書斎や縁側、畳はもちろん、本や巻物がびっしりと並べられた書棚も全てが暗闇に包まれる。その真っ暗な空間に存在しているのは、僕と僕に背を向けて正座する茜音さんだけだ。
「これは……? 何が起こったんだ?」
僕は慌てて周囲を見回す。これまで、場面が変わる時は必ず白い光に包まれていた。でもこういう風に、真っ暗闇になるのは初めてだ。
一体、何が起こっているのだろう。
戸惑っていると、茜音さんは僕に背を向けたまま呟いた。
「どうして私には言霊の才が無いのだろう。言霊の才さえあれば正式な巫覡になれたし、もっと兄さまと一緒にいられた。言霊の才さえあれば、もっと効率よく鬼神たちやその魂を回収することができた。〈言霊の力〉さえあれば、唯一の親友だった桔梗を殺めることもなかった。それどころか、鬼と化した桔梗を救うことすらできたかもしれない……!」
茜音さんの声は今まで聞いたこともないほど、どす黒い感情に染まっていて、僕はそのあまりの禍々しさにただ凍りつくしかなかった。
「あ……茜音さん……?」
すると、茜音さんはすっと立ち上がった。そしてこちらを振り向き、僕の方を見る。他の何でもない、まっすぐに僕の方を。
そして僕に向かって叫んだ。
「どうして私には〈言霊の力〉が無いのだろう。何故、お前には私にはない〈言霊の力〉があるのか。使いこなせもしないのに! 〈言霊の力〉……お前が持て余しているその力さえ私にあれば……!」
茜音さんが僕を見つめる瞳は氷のように冷たく、そして憎しみと嫉妬にまみれていた。まるで汚いものでも見るかのような、蔑んだ眼だ。いつもの穏やかで優しい茜音さんの面影はどこにもない。胸の奥がずきりと痛む。
「な……なぜ……?」
何が何だかわけが分からず、僕は混乱するばかりだった。
これまで僕は、この過去の世界にとって完全に傍観者だった。
全く触れられないし、干渉することもできない。そして存在が気付かれることもない。実際、僕はこれまで幾度となく茜音さんに呼びかけたが、その声は一度たりとも彼女に届かなかった。
それなのに、なぜ今になって僕の姿が茜音さんに見えているのだろう。
茜音さんは般若のような顔をして、僕の方に近づいてきた。
逃げなければ。そう思って腰を浮かすものの、長いあいだ同じ姿勢で座っていたからか、足が痺れてもつれ転倒してしまった。
茜音さんは着物の袖から太ももが露わになるのにも構わず、僕の上に馬乗りになると、その両手を僕の首にかけた。そして力いっぱいに締め付ける。
(茜音さん……どうして……!)
いや、茜音さんが僕のことを憎んだとしても仕方のないことだ。
茜音さんは生まれつき言霊の才が欠けていたせいで、多くの苦労を強いられてきた。憧れていた巫覡にもなれず、多くのことを諦めなければならなかった。
一方の僕は生まれ持った〈言霊の力〉をうまく使えず、失敗ばかり。ついには同級生に怪我まで負わせてしまったのだ。〈言霊の力〉を欲しているであろう茜音さんに僕の姿はどう映るか。そんなの、言わずもがなではないか。
「お前が憎い……お前が憎い、どうしようもなくお前が憎い! 〈言霊の力〉を得ながら、可能な限りそれを使おうとせず、ひたすら現実から逃げているお前が憎くてたまらない!! そんなに必要のない力なら、それを今すぐ私によこせ! 今すぐに!!」
茜音さんの両手がぎりぎりと僕の首に食い込んだ。その力はあまりにも強く、とても人間のものとは思えなかった。
うまく息が吸えなくて苦しい。意識が朦朧としてくる。
このままでは間違いなく窒息死してしまうだろう。
〈言霊の力〉はできるだけ使いたくない。特に茜音さんに対しては。でも、もはやそんなことを言ってはいられなかった。僕はありったけの力を込めて叫んだ。
「あ……あか……! 茜音さん、やめてください!!」
しかし、〈言霊の力〉は全く効果がなかった。相手が茜音さんだからなのか、それともあまりにも息が苦しくて〈言霊の力〉がうまく作用しなかったのか。
ともかく、茜音さんは僕の首を絞める手に容赦なく力を込める。
どれだけ抵抗しても、それを解くことはできない。まるで万力によって固定されたかのようにびくともしない。おまけに茜音さんの体もひどく重かった。人間ではなく、牛や馬といった大型の動物が上から圧し掛かっているかのようだ。
どう抗っても逃げられない。今にも途切れそうな弱々しい意識の中で僕は思った。
……ここで僕は死ぬのだろうか。大好きな女性に首を絞められ、殺されてしまうのだろうか。
でも、それはそれで良いのかもしれない。
僕が死ぬことで茜音さん少しでも救われるなら、それでも構わない。
それで茜音さんが幸せを感じられるのなら。
何もかも諦めかけた、その時だった。
突如、暗闇の中で獣の咆哮が轟いた。そして、真っ黒い巨大な四つ足の獣が大きく身を躍らせ、僕の上に馬乗りになっている茜音さんに向かって飛びかかってくる。
「ギャアアッ!!」
茜音さんは大きな黒い獣に突き飛ばされ、押し倒されて悲鳴を上げた。
黒い獣はさらに茜音さんへと追撃をかける。




