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第六十四話 茜音さんと藤黄老

 昔を思い出したのだろう、藤黄老(とうおうろう)は感慨深げに茜音さんをじっと見つめていた。


 けれど、不意に彼女に尋ねる。


茜音(あかね)、いま幸せか?」


「藤黄さま……?」


「無理をして狩森の因縁を背負わなくても良いのだぞ。茜音、今江は普通の鬼神(オニガミ)とは違うのだ。お前には使役主は必要ないし、短期間で鬼化が進む心配もない。齢を取らぬから一つ所に長く住み続けることは出来んだろうが、お前の性格ならばどこに行っても上手くやれるだろう。狩森から命じられた謹慎とて、その効力は無限ではない。お前にはこのまま人の世に紛れ、穏やかに生きる道もある」


 すると、茜音さんはきっぱりとそれを否定した。


「いいえ。私は何があっても、狩森の鬼神(オニガミ)の魂を鎮める方法を探し続けます。そして、彼らの魂を必ずあるべき場所に還す。私はそのために〈鬼神(きしん)の法〉を受けたのですから」


 茜音さんの決意は固い。二十年経ってもそれは変わらなかったし、きっとこれからも変わらないのだろう。けれど、藤黄老は顔を曇らせる。


「しかし、〈鬼神の法〉の要となるいざや桜は、もう……!」


「まだ望みはあります。藤黄さま、庭の鉢をご覧ください」


 茜音さんにそう促され、藤黄老は彼女の指し示す方に視線を向ける。


 そこには、鉢に植わったしだれ桜の姿があった。


 まだ若木だ。


 でも、可愛らしい花を咲かせている。


 藤黄老は驚きに目を見開き、そして身を乗り出した。


「あれは……まさか、いざや桜か!?」


「そうなんです。確かにいざや桜は燃えてしまいましたが、中には一部、燃えずに残った枝がありました。私はその枝をいくつか集め、小さな鉢に詰めた土に()し、育ててみることにしたのです。いざや桜が甦ることを願って……」


()し木……つまり、このしだれ桜の若木はいざや桜そのもの、ゆえにいざや桜の強力な霊力が宿っている可能性があるということか!」


 茜音さんは頷いて説明を続けた。


「最初、いざや桜の枝は二十本以上ありました。けれどほとんどうまく育たず、若木にまで育ったのはこの一本だけです。それだけに、この木にはとりわけ強い生命力が宿っているのだと思います。

 今はまだ頼りないかもしれません。ですが十年後や二十年後、この木が大きくなる頃には、きっと豊かな〈()〉を取り戻しているでしょう。……私たちのよく知るいざや桜のように」


 このやり取りを見ていて僕は気付いた。


「ひょっとして狩森神社が燃える中、茜音さんが本殿の方に向かったのは、いざや桜の枝を回収するためだったのかな。茜音さんは決して自暴自棄になったわけではなくて、あの瞬間も未来のことを考えていたのかも……!」


 そうか……そうだったんだ。


 そういえば、燃え盛る炎の中で茜音さん自身が口にしていた。「鬼神(オニガミ)の魂が戻ってくる場所を守らなければ」、と。


 彼女は最初から全てを諦めてしまったわけではなかったのだ。何とかして、未来に希望をつなぐ。茜音さんはただ、そのために行動していただけなのだ。


 それでも僕は茜音さんに、「あなたは独りではない」と叫んだことを後悔していない。たとえ声が届かなくとも、気持ちは届いていると思うから。


 黒猫が僕の手に頭をこすりつける。まるで、信頼した相手に身を委ねているかのように。僕も黒猫の頭や首をなでてやる。黒猫も抗うことなく、気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らす。


 藤黄老は真剣な顔をして、茜音さんの言葉に何度も頷きを返した。


「そうか……そうか。狩森神社が今もなお対立し、愚かな争いを繰り返している間、お前だけが狩森神社の未来を考え行動していたのだな。たった一人で。やはり狩森のことを任せられるのはお前だけのようだ」


 そう言うと、藤黄老は小さくまとめた振分(ふりわけ)荷物の中から文書の束を取り出す。


「茜音よ、お前にこれを託そう」


「この文の束は何なのですか?」


「お前の知っての通り、儂は全国に足を運んで狩森の鬼神(オニガミ)やその魂の行方を追ってきた。これはその調査結果をまとめたものだ。

 常であれば、この調査所は狩森神社に提出していただろう。だが、狩森神社は先の通り、二十年ものあいだ対立を続けたままだ。その長引く(いさか)いにより、いくつかの分家を残して本家は壊滅。二度と一つにまとまることはないだろう。

 連中には狩森の鬼神(おに)を追うつもりなど毛頭ないし、実際のところその余裕もない。だから今後はその調査書をお前に預けることにする。お前なら、きっとこの文書を有効に活用してくれるだろうからな」


 茜音さんは藤黄老が差し出した紙の束を両の手に取った。厚さが普通の煉瓦(れんが)一枚ぶんほどもある、ずしりとした分厚い束。(ひも)で括ってあるが、今にもはちきれそうだ。茜音さんはそれを丁寧に膝の上に置くと、藤黄老に尋ねる。


「……中を読んでも構いませんか。藤黄さま?」


「ああ、もちろん構わんさ」


「ありがとうございます」


 茜音さんはさっそく紙の束をまとめていた紐を解き、調査資料書を広げると、それを読み進めていく。真剣な表情をして文書に目を通す茜音さんに、藤黄老は沈んだ顔をして語り続ける。


「正直なところ、鬼神(オニガミ)の捜索は難航している。現役の鬼神(オニガミ)はまだいい。彼らはまだ器となる肉体を持っているからな。鬼神(オニガミ)の姿のままで活動しているので、良くも悪くも目立ち、探しやすいのだ。怪異や怪談の噂話を辿っていくと発見できることも多く、実際、現役の鬼神(オニガミ)の回収は既に八割がた終わっている。

 問題なのは魂となってしまった鬼神(オニガミ)の行方を把握することだ。彼らは(からだ)を持たぬゆえに、却って何にでもその身を潜めることができる。物に()りついたり、人に憑依したりと、な。だが、何に憑いているかを突き止めるのは難しい。先月もいくつかの怪異事件を追ってみたが、どれも狩森の鬼神(オニガミ)とは関係ないものばかりだった」


 それを聞き、茜音さんも眉を寄せた。


「そうですか……魂となった鬼神(オニガミ)たちはどこへ行ってしまったのでしょう?」


「これは、長らく調査を続けてきた儂の個人的な予測だが……狩森の鬼神(オニガミ)は言霊……つまり言葉に強く反応する性質を持つ。事実、狩森の巫覡は言霊の才によって鬼神(オニガミ)を使役してきた。その点を鑑みても、もしかしたら鬼神(オニガミ)の魂たちは、言葉の中に潜ったのかもしれん」


「言葉の中に潜る……それはどういうことなのでしょうか?」


 興味をそそられたのか、茜音さんは身を乗り出した。


「それはまだ儂にもよく分からん。ただ、東京府の方でおかしな怪談が広まっているらしいという話を聞いた。聞くだけで呪われるという奇妙な怪談だ。狩森の鬼神(おに)が関係しているという保証はないが、どうにも気になる。次はそれを調べてみようと思っている」


 二人のやり取りを聞いていると、僕の中である考えが湧き上がった。


鬼神(オニガミ)たちの魂が、言葉の中に潜る……か。藤黄老はそれに怪談が関係していると考えているみたいだ。そういえば、狩森図書館で茜音さんが言っていた。『言葉には霊的な力……言霊が宿っている。だから無数の言葉によって構成される物語……特に怪談は、霊的な力をさらに増幅させていて、もはやそれそのものが呪術と言っていいかもしれない』、と。茜音さんが言っていたことは藤黄老の考えにどこか似ている気がする。言霊、鬼神 (オニガミ) 、それに怪談……これらには何か関わりがあるのかな?) 


 藤黄老の言う「鬼神(オニガミ)の魂たちは言葉の中に潜ったのかもしれない」という現象と、現代の狩森図書館で茜音さんが怪談を蒐集していることには、きっと何らかの繋がりがある。


 でもそれが具体的にどういったものであるかはまだ分からない。


 一方、茜音さんは藤黄老の言葉に深く頷いた。


「分かりました。藤黄さまがまとめられたこの文書も、非常に興味深いものばかりですね。これも資料として編纂して良いでしょうか?」


「ああ、もちろんだ。存分に活用してくれ」


 藤黄老は一瞬、茜音さんに笑みを向けた。けれど、すぐにその目を伏せ、険しい表情に戻ってしまう。


「ただ……鬼神(オニガミ)、特に魂の回収は困難を極めるであろうな。この二十年あまり、払った労力に対して得られた成果はあまりにも少なすぎる。もし我らの悲願を達成することができたとしても、途轍もない時間と労力が必要となるだろう。

 儂を含め、いざや桜の存在を知る世代はこれから徐々に数を減らしていく。おまけに残った者の大半は今も憎しみ合うという体たらくだ。こんな中で本当に我らは狩森の巫覡としての責任を果たすことができるのだろうか……?」


「藤黄さま……」


 するとその時、なあご、とふてぶてしい猫の鳴き声が響いた。何だか聞き覚えがある、憎たらしい鳴き声だ。


 見ると、庭先にいつの間にか黒猫の姿があった。


 ふさふさとしているようにも見える黒い毛は、ぼんやりとしていてひどく輪郭が曖昧だ。ギロリと睨みつけるような瞳は紅と金のオッドアイ。僕は思わず声を上げた。


「あ、あいつは狩森図書館に棲みついている……!」


 オッドアイの黒猫は、藤黄老や茜音さんには目もくれず、縁側から家の中に入り、当然のような顔をして茜音さんの座っていた座布団に寝転がった。そして、呑気に毛づくろいを始める。


 それに興味を示した露草色の瞳をした黒猫が僕の元を離れ、金と紅のオッドアイをした黒猫の元に向かう。しかし、露草色の瞳をした黒猫がどれだけ様子を伺ったりにおいを嗅いだりしても、オッドアイの黒猫は全く反応しない。


 彼には露草色の瞳をした黒猫のことが見えていないのかもしれなかった。僕が茜音さんや藤黄老に認識されていないのと同じように。


 それでも露草色の瞳を持つ黒猫は、オッドアイの黒猫の隣にちょこんと座る。どうやらオッドアイの黒猫のことがひどく気になるらしい。ふさふさした毛と曖昧な輪郭が似ているせいか、二匹が並んでいるとまるで兄弟のようにも見える。


 藤黄老もオッドアイの黒猫を見てひどく驚いた。


「まさか……あれは鬼神(オニガミ) ……? しかもあの金と紅の瞳は蘇芳(すおう)か!?」


 すると茜音さんは嬉しそうに微笑んだ。


「はい。私が狩森の人々に命じられ、この家に隔離されるようになってからしばらく経ったある日、突然、兄さまが戻ってきたんです。以前に比べずいぶん小さくなってしまいましたけれど、あれは間違いなく兄さまです」


「しかし茜音、お前は言霊の才を持っておらんだろう。それなのに、蘇芳は自力でお前の元に戻ってきて、ずっとそばにいるというのか!」


「藤黄さまのおっしゃる通り、私は言霊の才を持ちませんし、兄さまと意思疎通を図ることもできません。でも兄さまは、私のことが分かっているのだと思います。たとえ記憶はなくとも、自分の妹なのだと。そして、こうして私を守ってくれているのです」


 それを聞き、僕は初めて気づいた。あの憎たらしいオッドアイの黒猫が、どうしていつも僕を敵視しているのか、その理由を。


(蘇芳さんが茜音さんを守っているのだとしたら、ある日突然現れ、狩森図書館に通い始めた僕のことを不審に思っても無理はない。ただでさえ蘇芳さんには言葉が通じないんだ。僕が怪談蒐集のために雇われたアルバイトだと伝わらなくて当然だ)


 蘇芳さんは現代でも変わらず、茜音さんのそばにいる。


 彼には既に人だった頃の記憶はない。もしかしたら、茜音さんのことも覚えていないのかもしれない。


 それでも彼は守ろうとしているのだ。ただ、茜音さんのためだけに、その身を捧げている。人間だった頃、茜音さんと交わした「ずっとお前のそばにいて見守っている」という誓いを守るかのように。


 そう考えると、僕は胸の中が熱くなるのだった。


 僕はこれまで、あの黒猫のことをただの憎たらしい奴だと思ってきた。威嚇ばかりしてくる、いけ好かない奴だと。でもきっと、その認識は正しくない。もし茜音さんのそばにいたいなら、むしろ味方につけなければならない存在なのだ。


 一方、藤黄老もまた、茜音さんと蘇芳さんの関係にひどく感激したようだった。


「そうか……そういう事もあるのだな。蘇芳はきっと、鬼神(オニガミ)となった今でも心のどこかでお前のことを覚えているのかもしれんな」


 鬼神(オニガミ)は人間であった頃の記憶はもちろん、理性や人格などの全て失う。だから本来は蘇芳さんが茜音さんのことを覚えているはずはない。以前の藤黄老であれば、茜音さんの言葉を歯牙にもかけなかっただろう。そんなことは、あり得はしないのだと。狩森神社ではそういった考え方が当たり前だったからだ。


 けれど、今の藤黄老は、むしろその事実を喜んで受け入れているように見える。まるで、真っ暗な暗闇の中で、一筋の光を見出したかのように。


「いざや桜が燃え、鬼神(オニガミ)の存在に大きな疑問が抱かれるようになり、それに倣って巫覡と鬼神(オニガミ)の関係も危険であり不適切であるとされるようになった。そもそも人と鬼は互いに相容れない存在なのだと。

 しかし、巫覡と鬼神(オニガミ)の間にも絆はあった。それは確かに人同士のものとは違う。鬼神(オニガミ)は言葉を喋らず、巫覡は言霊によって一方的にそれを操る。ゆえに部外者にはただの支配関係に見えていたかもしれない。

 だが、我々にとって鬼神(オニガミ)は家族だった。決して使い捨てる道具ではなく、共に生き共に戦い、そして寿命を迎えたら相手の死を看取る、親兄弟のような存在だった。お前たち兄妹(きょうだい)を見ていると思い出す。かつて巫覡と鬼神(オニガミ)が並び立っていた狩森の地の光景を。もう二度と、あの光景を取り戻すことはできぬであろうな……」


 藤黄老は遠い目をしてから、ぽつりと茜音さんに問う。


「茜音よ、儂が蘇芳を鬼神(オニガミ)にしたことを恨んでいるか?」


「いえ、兄さまは自ら望んで鬼神(オニガミ)となる道を選びました。ですから、私もその意思を尊重したいと思っていますし、納得もしています。ただ……桔梗のことは他の選択肢もあったのではないかと……今でも後悔しているのです」


 桔梗のことを口にする時、茜音さんの表情はひどく沈んでいた。二十年の時を経ても、茜音さんは桔梗のことを忘れていないのだ。


「うむ……お前たちの目には我らの判断がさぞや残忍であるように映ったことだろう。何故、狩森の一族は鬼や鬼神(オニガミ)に対してそれほど執着するのか、と」


「正直なことを申し上げると、確かにそのようなことを考えたことはあります。自ら〈鬼神(きしん)の法〉を受けると決めた兄さまのような事例はともかく、何故、桔梗のように〈鬼神の法〉を拒絶してきた者まで強引に鬼神(オニガミ)にしてきたのかと。

 あの悲劇さえなければ、いざや桜が燃えることもなかったでしょうし、狩森神社がここまで衰退することもなかったのではないでしょうか?」


 確かに茜音さんの言う通りだと僕も思う。そもそも何故、桔梗が〈鬼神の法〉に選ばれたのか。僕もそのことに対し、ずっと納得がいかないと思ってきたからだ。


 桔梗はあんなに〈鬼神の法〉を嫌がっていたのに。それをあんな形で強要するなんて、あまりにも情けが無さすぎる、と。


 すると、藤黄老はうなずいて言った。


「お前の考えは決して間違いではない。だが、狩森の一族が代々、〈鬼神の法〉を行ってきたのには理由がある。

 これは本来、狩森の長老会のみが知ることを許された伝承だ。だが、狩森一族が分裂を極めた今、その長老会も正常に機能を果たしているとは言い難い。よって茜音、万一のためにもお前にこの伝承を語っておくことにする」


 藤黄老のただならぬ雰囲気に、茜音さんも表情を引き締め、居住まいを正した。僕もその内容に強い興味を抱き、藤黄老と茜音さんの元に近寄ってその場に座る。


 何故、狩森神社はこんなにも鬼神(オニガミ)や〈鬼神の法〉にこだわってきたのか。


 僕もずっと疑問に思ってきた。


 そしておそらく、鬼神(オニガミ)や〈鬼神の法の根幹となる狩森一族の伝承を知ることが、現代の茜音さんや狩森図書館を理解する事に繋がっているのではないかと思うからだ。


 僕が固唾を飲んで見守る中、藤黄老は厳かに語り始める。


「お前も知っての通り、狩森一族は二千年もの昔から、他とは違う独自の信仰や文化を形成してきたとされている巫覡の一族だ。我が一族はその後、誕生したどの勢力にも与することなく、いざや桜と共に生きてきた。

 だが、実際に狩森の歴史が文書として残されるようになったのは七世紀ごろからだと言われている。それ以前の歴史は闇に包まれたまま、もはや子孫である我らすらその実体を知ることはできぬ。

 ただ一つ、言い伝えられてきた言葉がある。それは、『狩森一族は黄泉の国の民である』というものだ」


「黄泉の国……ひょっとして、伊邪那岐命(イザナギノミコト)伊邪那美命(イザナミノミコト)の神話に出てくる、死後の世界のことですか?」


「もちろんそうだ」


「私たちは死後の世界から来た民……? それはどういうことなのでしょう?」


 茜音さんはひどく戸惑った様子だった。


 それはそうだろう。死後の世界から来た民ということは、人間か否かはもちろんのこと、生きているか死んでいるかも定かではないという事ではないか。


 僕にもわけが分からない。一体どういうことなのか。


 僕は茜音さんと共に藤黄老の説明を待った。


 ところが、藤黄老も途方に暮れたように首を振る。


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