第六十三話 狩森炎上
客観的に見ると、どちらの意見も理解できなくはない。
若い巫覡たちは狩森神社の上層部のやり方に不満と不信感を抱いている。桔梗がいざや桜に火をつけたことに関しても、実行犯である桔梗より彼女を追い詰めた上層部や重鎮たちに怒りを覚えているようだ。
もしかしたら、彼らもまた桔梗が抱いていた「自分もいつか鬼神になるかもしれない」という恐怖を抱いていて、桔梗に共感しているのかもしれない。
一方、重鎮たちはこれまでも狩森神社のやり方でうまくやって来た、自分たちが狩森神社を支えてきたのだという自負がある。だからこそ、御神体であるいざや桜を失ったからといって、それを変えることはできないのだ。
彼らにとって、これまで続けてきたことを変えるということは、自分たちのやって来たことに対する否定に他ならないから。
それでも、いざや桜が……御神体が残ってさえいれば、異なった立場にいる者たちの心を繋ぐことができたかもしれない。
しかし、そのいざや桜は燃えてしまった。
狩森の巫覡を一つにまとめるシンボルはもはや存在しないのだ。
だから、真っ二つに分かれた両者が手を取り合うことは二度とない。
もう、二度と。
僕のその予想は見事に的中してしまった。
どこからか、若い巫覡たちの叫ぶ声が聞こえてくる。
「もう古い悪習は終わりにしよう! これからは僕たちの手でいざや桜や〈鬼神の法〉に頼らない狩森神道を作り出す! 新しい世に合った形に狩森神社を変えていこう!」
すると今度は、重鎮たちが若い巫覡たちの声を押し潰すようにして叫ぶ。
「狩森神道を変える……? 何と愚かな! そもそもいざや桜を燃やしたのは誰だ!? 精進を怠り、己の境遇に文句ばかり言い、甘えきった若造どものせいでこんなことになったのではないか! それを棚に上げて、一体、何を変えるというのだ!! 狩森神道は先人たちの試行錯誤の結果、今の体制になった。それに軽々しく手を加えるなど、あってはならんのだ!!」
最初は互いの考えを主張し合っていただけだった。
ただ、より良い未来を掴みたい、それだけのはずだった。
しかしそれはやがて罵り合いと化し、怒りと憎しみの混じった誹謗中傷合戦となり果てていく。もう、誰もそれを止められない。
二つに分かたれた狩森一族は、さらにバラバラになっていく。
やがて飛び交う怒号の中に、悲鳴やすすり泣きの声が混じるようになる。そして、耳をつんざくほどの絶叫が響き渡った。
――その瞬間。
「狩森神社が燃えている……!」
誰かが火の不始末を起こしたのか、それともいざや桜が燃えた時の様に故意に火を放ったのか。真相は僕にも分からない。
とにかく、狩森神社にどんどんと火の手が広がっていく。境内はもちろん、社務所や神楽殿、拝殿や本殿など、容赦なく火の海に呑まれていく。
多くの巫覡や神職、狩森神社を支えてきた人々はみな、その火の海から脱出しようと我先に逃げ惑う。
あたりはすさまじい騒ぎに包まれた。僕はそばにいた露草色の瞳をした黒猫を抱き上げる。
「ここは危ない。僕たちも逃げよう!」
黒猫もそれに異論はないらしく、僕に抱き上げられたまま大人しくしている。
そのまま、他の人々と同じように神社の外を目指して走っていると、視界の端に巫女装束の女性の姿が映った。
彼女は逃げ惑う群衆とは全く逆の方向……神社の本殿や拝殿の方に向かって歩いている。逃げる人々と肩がぶつかりよろめいても、決して足を止めることはない。
「あれは……茜音さん!?」
僕は足を止め、背後を振り返った。そこにいたのは、やはり茜音さんだ。
けれど茜音さんは様子がおかしい。どこか虚ろな目でふらふら歩いている。まるで幽鬼のようだ。いつもの茜音さんらしくない。
狩森の人々の争いに傷つき絶望したのだろうか。それとも、鬼神となっても狩森神社の崩壊を食い止められなかったこと後悔しているのだろうか。
僕たちはこの世界に干渉することができない。もちろん、茜音さんにも。でも、それでも僕は茜音さんを追わずにはいられなかった。黒猫を抱いたまま、逃げ惑う人にぶつかりそうになりつつも、必死で茜音さんに近づく。
「茜音さん、待ってください! 茜音さん! そちらは危険です。一緒に逃げましょう!!」
しかし、やはり僕の声は茜音さんに聞こえていない。現に茜音さんは歩を進める足を止めず、僕の方を振り返りもしない。
ただ、茜音さんの瞳は空虚だったけれど、決して弱々しくはなかった。むしろ、妙に力強い。何か強い感情に突き動かされているかのように。
「このままではいけない……。鬼神の魂を……みなが戻ってくる場所を守らなければ……!」
茜音さんは、うわ言のようにそう繰り返す。
「茜音さん……!」
茜音さんの気持ちは痛いほどよく分かる。周りの人間がどれだけ自分の感情や環境の変化に翻弄されようと、自分のやるべきことを果たそうとする。とても茜音さんらしいとも思う。
特に茜音さんは、あちこちに散っていった狩森の鬼神たちの魂を連れ戻すために〈鬼神の法〉まで受けたのだから、なおさら自分の使命を果たしたいという気持ちが強いだろう。
けれど、狩森神社はくまなく炎に包まれていて、もはや一人の人間の意志でどうにかなるようには思えなかった。
僕は大声で茜音さんに呼びかける。
「茜音さんの気持ちは分かります。でも、この状況はあまりにも危なすぎる……! 一度、安全なところへ行ってそれからこの先のことをゆっくり考えましょう! きっと何か良い方法が見つかるはずです!!」
しかし茜音さんの歩みは止まらない。やはり、僕の声は茜音さんには届かないのだ。
それでも、僕は諦められなかった。このままでは茜音さんまで炎に飲まれ死んでしまう。それをただ黙って見ているなんてできなかった。
僕は茜音さんに駆け寄って行ってその腕を掴もうと手を伸ばした。ところがその時、胸の辺りで抱き上げていた黒猫が僕の頬にぺしっと猫パンチをする。
「いたっ……な、何をするんだよ?」
猫パンチといっても、ちょっと前足が当たったくらいで全く痛くはなかった。でも、突然、顔に触れられて驚き、僕は思わず足を止めてしまった。
すると黒猫はイカ耳になって僕を睨み、なあご、と怒ったような声で鳴く。
一体どうしたのかと訝しく思っていると、バキバキ、メキメキと物騒な音がし、燃え盛る松の大木が轟音を立てて目の前に倒れ込んできた。黒猫が僕の頬を叩かなければ、きっとその下敷きになっていただろう。
僕はこの世界の人や物に干渉できないし、触れることもできない。だから、燃え盛る松の木の下敷きになっても無傷だったかもしれないが、それでも用心するに越したことはない。
たとえばこの世界で僕が巨大な落石の下敷きになったとしても、無傷でいられる保証はないのだ。
「お前……僕を助けてくれたのか?」
僕はそう尋ねるが、黒猫は答えない。その露草色の瞳を、燃え盛る松の木の奥に向けている。
僕もハッとしてそちらに目をやった。
「そうだ、茜音さん……茜音さんはどうなったんだ?」
僕は途中で立ち止まったから、倒れる松の木から逃れられた。でも、あのまま直進した茜音さんはどうなってしまったのだろう。最悪の場合、倒れる松の木に巻き込まれてしまったかもしれない。そう思うと、不安で居てもたっても居られなかった。ハラハラしながら燃える松の木の向こうを見つめる。
すると、不意に炎の向こうで人影が揺らめいた。茜音さんだ。
「茜音さん! 良かった……!」
僕は喜びのあまり声を上げた。しかし茜音さんは立ち止まらない。どんどん燃え盛る狩森神社の奥に向かって歩を進めてしまう。
既にあたりは紅蓮の炎に包まれていた。普通の人間であれば、とても立って歩くなどできない状況だ。一酸化炭素中毒による呼吸困難で倒れるか、全身に火がついて燃え上がるかのどちらかだろう。
しかし、茜音さんは何事もなく狩森神社に最奥部に身を投じる。
彼女が何故、烈火の中でも無事でいられるのか、僕には分らない。〈鬼神の法〉によって鬼神の力を得た茜音さんは、もしかしたら人の姿をしていても、もはや人ではないのかもしれない。
でも、それでも僕は呼びかけずにはいられなかった。
「茜音さん! 待ってください、茜音さん! 一人で行っては駄目だ!! いくら使命を果たすためとはいえ、自分から一人になってしまっては駄目なんだ!!」
しかし、その声もやはり茜音さんには届かない。そもそも、ごうごうと音を立てて吹きすさぶ炎が僕の声を簡単にかき消してしまう。
けれど、僕は叫んだ。
力の限り叫んだ。
「茜音さん、どうか忘れないでください! あなたは決して独りではないということを……!!」
しかしその時、とうとう僕の周りも激しい炎に包まれた。
特に熱さは感じないし、煙で息苦しいということもない。けれど、自分のすぐ目の前に燃え盛る炎が迫るさまは、身の毛がよだつほどの恐怖を感じる。
さらに、周囲の建物や木々が悲鳴のような音を立てながら崩れていった。まるで世界の終りのようだ。あまりの恐ろしさゆえか、意識まで徐々に遠のいていく。
「茜音さん……!」
朦朧とする意識の中、僕はそれでも猛火の向こうに消えていく茜音さんを見つめていた。しかし、それもとうとうぷつりと途切れる。そして、すべてが真っ白になり、何もかも分からなくなってしまった。
それからどれくらい経っただろうか。
水の底から小さな泡が浮かび上がるようにして、僕は不意に意識を取り戻す。
(ここは……? 僕はあれからどうなったんだ……?)
そこはやけに静かな場所だった。何かが燃える音も、人々が逃げ惑う足音も聞こえない。ただ、コチ、コチ、と何かが一定のリズムを刻む音が聞こえてくるだけ。
この音は何なのだろう。うっすらと目を開くと、何かぷにぷにとした柔らかいものが僕の額に触れた。
「何だ……?」
訝しく思っていると、露草色の瞳をした黒猫の顔が目に入る。どうやら、黒猫が倒れた僕の顔をつついていたらしい。ぷにぷにしていたのは、黒猫の肉球だったのだ。
僕は起き上がって黒猫の頭を優しく撫でる。
「お前……無事だったのか。良かった。僕と一緒に炎に呑まれたのかと思った」
僕が横たわっていたのは、どこかの民家の中だった。畳が敷かれた部屋で、十畳以上の広さがある。
部屋の中は戸口以外の壁のほとんどを本棚で覆われていた。天井に届くほどの高さがある本棚には、多くの書物や巻物、あるいは洋書などがずらりと並んでいる。また、そこに収納しきれなかったらしい本や巻物が畳の上のそこかしこに積み重なっている。そのせいか、部屋は実際の広さよりかなり狭く感じられた。
「すごいな……何だか、ちょっとした図書館みたいだ」
その部屋の片隅に、茜音さんがいた。正座をして文机に向かい、一心に何かを紙に書き留めている。
彼女の周囲にはたくさんの紙の束が積まれていた。どうやらそこに書かれているものを一つの文書にまとめているようだ。
「茜音さん……! そうか、茜音さんも無事だったのか。本当に良かった……!!」
茜音さんの容姿は全く変わっていない。燃え盛る狩森神社の参道を、本殿や拝殿に向かって幽鬼のように歩いていた時のままだ。
ただ、服装には大きな変化が表れていた。それまで着用していた巫女装束ではなく、ごく普通の一般的な着物姿をしている。茜音さんの過去を知らなければ、誰も彼女が巫女だったとは気づかないだろう。
「ここはどこだろう? 狩森神社ではないみたいだけど……」
民家に置かれている家具のほとんどは和家具だった。その中で、ただ一つだけ目を引くのは大きな柱時計だ。和で統一された空間の中で、西洋式のそれはひどく目立つ。先ほどから聞こえていた音の正体はこれだったのだ。
僕はすぐに、その柱時計がどこかで見覚えのあるものだと気付いた。
「この柱時計は、狩森図書館の……! そうか、やっぱりこの世界で起きたことは、僕たちの時代に繋がっているんだ」
それにしても、ここはどこなのだろうか。木造建築物の中だが、明らかに狩森神社の雰囲気ではない。そもそも、狩森神社は既に焼け落ちたはずだ。そうなると、余計に気になってくる。茜音さんはどこに身を寄せているのだろう。この家には茜音さん以外の住人はいないようだが。
僕が部屋の中を見回していると、縁側の方から何やら声が聞こえてきた。
「精が出るな、茜音。元気にしておったか? いつ来てもお前は変わらずだ」
すると茜音さんは、はっとして筆を止め、立ち上がって縁側の方に向かう。そこには一人の老人が立っていた。
この人は誰だろう。近所の人だろうか。そう思っていると、茜音さんは思わぬことを口にする。
「藤黄さま、こちらにお寄りになられるなら、知らせて下されば良かったのに」
「え、この人が藤黄老!?」
僕がびっくりしたのは藤黄老の姿が激変していたからだ。
藤黄老は狩森神社で最後に目にした時と比べ、さらに年を取っていた。頭は総白髪で、顔のしわも格段に増えている。茜音さんが外見上は全く年を取っていないのに対し、藤黄老は少なくとも十歳以上、老けているように見える。
服装も威厳のある神職姿ではない。裾を端折った着物の上に道中合羽を羽織り、下は股引に脚絆、草鞋という出で立ちだ。さらに振分荷物を肩から下げ、手には先ほどまで頭に被っていたのだろう菅笠を提げている。
神職というより、時代劇に出てくる旅人みたいな格好だ。
「良い、良い。堅苦しいことはなしだ。今はもう、昔とは違うのだからな」
藤黄老はからからと笑う。確かに、その表情から以前のような厳めしさは感じない。むしろ、何か憑き物が落ちたかのように晴れ晴れとしているように見えた。
「少しお待ちになってください。いま、お茶を淹れますから」
そう言って、茜音さんは部屋を出て行き、お盆にお茶とお茶請けをのせて戻ってきた。お茶請けは和菓子ではなく、シンプルなクッキーだ。僕が狩森図書館で茜音さんに出してもらったものと全く同じ。そして、それらを縁側に腰掛けていた藤黄老に出す。
「いや、有難い。今日は歩き通しでな。それにしても……これは何だ?」
藤黄老はクッキーを珍しそうに眺めている。この時代はまだ、西洋のお菓子は一般的でないのだろう。茜音さんは微笑んで説明をした。
「これはクッキーといって、外国から入ってきたお菓子なのだそうです。最近、市井で流行っているのだとか。良かったら召し上がってください。なかなか美味ですよ」
茜音さんに勧められて、藤黄老はクッキーを一つ摘まみ口に運ぶ。
「……うむ、西洋の煎餅という感じか。それにしても甘いな」
どうやら、藤黄老は甘いものがそれほど好きではないらしい。何とも言えない微妙な顔をしている。その反応を目にし、茜音さんはくすくすと笑った。
「実はそれ、私が手作りしたものなのです。たまたまレシピと材料が手に入ったので、記録作業の気晴らしに」
「記録作業?」
「はい。今、残った狩森の巫覡の方たちが集めて下さった鬼神に関する調査文書や、鬼神に関すると思われる目撃情報などを蒐集して、資料としてまとめているんです。将来、何かの役に立つかもしれませんから」
つまり、この部屋の壁を覆わんばかりに立ち並んでいる本棚に並んでいる書物や巻物の数々は、ほとんどが鬼神に関する調査記録書だという事か。
僕はあんぐりと口を開けた。これらが全て茜音さん一人の手によるものだなんて。一体、どれほどの労力がかかったことだろう。
そういえば、狩森図書館で怪談を蒐集する時、茜音さんはとても筆が速かった。もしかしたら、こういった膨大な作業で自然と鍛えられ、結果として速筆になったのかもしれない。
「そうか……大したものだな」
藤黄老も茜音さんの部屋の本棚を眺め、感嘆交じりにそう言った。茜音さんは、はにかみつつもその目的を口にする。
「藤黄さまも、世に散っていった鬼神たちや、彼らの魂の行方を追っていらっしゃるでしょう? ですから、私も何かしなければと思ったのです。私は狩森神社の命令でこの屋敷を離れることができませんが、資料の蒐集くらいならできますから」
「それで、こんなに書棚が多いのか」
「ええ。……といっても、半分は趣味のようなものです。巷には怪談や奇譚が溢れていますから。ひょっとしたらその中に鬼神の行方に関する手がかりが紛れているかもしれないと考え、一緒にまとめているのです。かれこれ二十年くらい、そういった話を集め続けていますので、資料の量も増える一方で。どう収納したものかという点が悩みどころですね」
茜音さんはどことなく楽しそうだった。御霊の丘やいざや桜の管理をしていた時と同じように。気の遠くなるような作業であっても、茜音さんにとってはやりがいのある仕事なのかもしれない。全てはきっと、鬼神の魂を救うという使命を果たすためだ。
藤黄老はそんな茜音さんを眩しそうに見つめる。
「二十年……いざや桜が燃えてから、もうそんなに経つか……」
その言葉に、僕はひどく驚いた。
いざや桜が燃え、狩森神社で内紛が起こり、そして神社そのものも消失してしまった。あれからもう二十年も経っているのか。どおりで、藤黄老も年を取るわけだ。
一方で、茜音さんには全く変化がない。彼女はもう人間ではなく、鬼神なのだ。だから人と同じようには生きられないのかもしれない。
それが良いことなのか悪いことなのか、僕には分らないけれど。




