第六十二話 審判の時
「藤黄さま、ここは……? あれから九十九日がたったのですか?」
茜音さんは目を覚ましたばかりだからか、意識はまだ少しぼんやりしているように見えた。
けれど、口調ははっきりしているし、藤黄老の顔や名前も覚えている。何より蘇芳さんの時と違って、その言動からは人間らしさが感じられる。僕はそのことに喜びを隠せなかった。
「茜音さんには記憶がある! 言葉も話せるし、人格もある……! 鬼神になった者は、それらを全て失うはずだ。つまり茜音さんは、鬼神になっていないということになるのか……?」
〈鬼神の法〉を受けたのに、そんなことがあり得るのだろうか。
藤黄老も驚きを通り越して狼狽さえしている。いつもの威厳はそこにはない。我を忘れるほどの驚愕に見舞われているのだ。
「これは一体、どういうことなのだ? 茜音、お前は一体……!?」
藤黄老は茜音さんに手を伸ばした。しかし、その指先が茜音さんに触れかけたその瞬間、藤黄老は弾かれたかのようにその手を引っ込めた。そして額に大粒の汗を浮かべ、何か異様なものを見るような目を茜音さんに向ける。
「いや……お前から放たれておるのは間違いなく鬼の気配だ。どういうことじゃ……? 人が人のまま鬼に……? 馬鹿な、理論上はあり得ん! だが……これは事実だ!!」
そのリアクションに不安を抱いたのか、茜音さんは藤黄老に尋ねた。
「藤黄さま……? 私は一体、どうなったのですか……?」
「落ち着いて聞け。茜音よ、お前は鬼神になることなく、人のまま鬼の力を得たのだ……!!」
「……。人のまま……鬼の力を得る……」
それはつまりどういうことなのだろう。何故、茜音さんだけそのような中途半端な状態になってしまったのか。茜音さんも同じ心境であるらしく、呆然としている。
結局、〈鬼神の法〉は成功したのか、それとも失敗したのか。みな何とも言えず、困惑するばかりだった。
(よく分からないけど……多分、茜音さんのようなケースはすごく稀なんだ。藤黄老でさえ、初めて目にするという反応だった。このことが狩森神社の中で大問題にならなければいいけれど……)
だが、残念なことに、僕の抱いた懸念はすぐに現実のものとなってしまうのだった。
そこで再び視界が白光に包まれる。
目を開いた時、僕と露草色の瞳をした黒猫は、神社の施設の一つである参集殿の中に移動していた。
参集殿の大広間には大勢の巫覡や神職が集まっている。もちろん、例の重鎮たちも一緒だ。ムスッとした顔で、腕組みをしたり大きな溜息をつきながら、最前列で胡坐をかいている。相変わらず態度が悪い。そして剣呑な視線を壇上に向けている。
壇上の上に座し、重鎮たちを含め集まった人々を前にしているのは 茜音さんと藤黄老だ。茜音さんはきれいに身支度をし直し、いつもの巫女装束を身にまとっていた。藤黄老も立派な神職の衣装に身を包んでいる。
けれど、二人の表情は硬い。大きなプレッシャーを感じているようだ。
その様子から、この会合が茜音さんや藤黄老にとって厳しいものになるだろうことは想像がついた。おそらく、茜音さんの受けた〈鬼神の法〉の結果が、早くも狩森神社の中で問題視されてしまったのだろう。そして二人はその説明を強いられているのだ。
参集殿に集まった人々の数は多い。高校の体育館もの広さがある広間には、老若男女がぎゅうぎゅうに詰め込まれるようにして座っている。狩森神社の関係者のほとんどがこの場に集っているのではないか。
だが、みな黙ったまま口を開かない。怒っているというより、どこか戸惑っているように見受けられる。
誰ひとり言葉を発しない中、重鎮の一人が苛々とした様子で沈黙を破った。
「……つまり、藤黄老の説明をまとめると、狩森茜音は〈鬼神の法〉を受けたにもかかわらず鬼神にはならず、おまけに死ぬこともなく生き残ったというのか!」
すると、それを機に、他の集まった人々が口々にざわめき始める。
「まさか、そんなことがあり得るのでしょうか?」
「いいや、馬鹿な。そんな話は聞いたことがない!」
「しかも、姿はどう見ても人間のままですよね?」
「信じられん……何から何まで、これまでの狩森の歴史には無かったことだ!」
「原因は一体、何なのでしょうか?」
「そんなもの、初めから決まっておる! 火を放たれたことによって御神体としてのいざや桜の力が弱まったのだ! そのため、鬼神として中途半端なまま〈鬼神の法〉を終え、暁の石室から出てきてしまったのだ!」
「つまりこの娘は、半端に生きていて半端に死んでいる状態だということですね。人としての自我を失わなかった代わりに、本来、鬼神として得るはずだった力も十分に得られなかった……と。全く、これでは何のために危険を冒してまで〈鬼神の法〉を受けたのか、分からないではありませんか」
ある程度、想像していたことだが、集まった人々の多くが茜音さんに厳しい目を向けている。茜音さんが無事に生きて戻ったことを喜ぶ者は、ほぼ一人もいない。
特に重鎮たちの眼差しは冷徹で、言葉もひと際きつかった。それ見たことかと言わんばかりだ。
(この人たちは相変わらずだな。何だか狩森神社全体のためみたいな顔をしているけど、結局は自分の保身しか考えていないんだ。茜音さん、こんな奴らに負けるな、頑張れ……!)
僕の重鎮たちに対する印象は最悪だ。そのせいか、余計に茜音さんのことを応援してしまう。
当の茜音さんはじっと耐えるように批判の言葉に耳を傾けていた。それを見かねたのか、藤黄老が身を乗り出し、反論の言葉を口にする。
「まだ茜音の受けた〈鬼神の法〉が失敗に終わったと決まったわけではない。何しろ、我々にとって全てが初めて経験することばかりなのだ。もう少し時間をかけて様子を見るべきであろう。みなにこの場に集まってもらったのは茜音の処遇を決めるためだ。儂はこれまで通り、茜音を狩森の巫覡として扱うべきだと思っておる」
それを聞き、重鎮の一人がとんでも無いとばかりに声を荒げた。
「何ですって……? 鬼神にすら成り損なったただの鬼を、巫覡として迎え入れるおつもりなのですか!?」
「抵抗があるのは分かる。だが、狩森の未来のためにも、儂はそうすべきだと思っている」
藤黄老は宥めるような口調で重鎮たちを説得した。しかし、参集殿はなおも騒然となる。
「そんな……あり得ません! いくら藤黄老のお考えでも、それだけは……!!」
強い反対の言葉を発したのは、鬼神を連れ、全身を防具で固めた、武装した巫覡たちだった。鬼神と巫覡との関係性が曖昧になる事で最も影響を受けのは、鬼神と共に現場で鬼の調伏を行ってきた彼らだからだろう。
しかし藤黄老は忍耐強く相手の理解を得ようとする。
「茜音が〈鬼神の法〉を受けたのは、狩森神社の窮地を救いたかったからだ。鬼神としてこの世の各地に散り去った同胞を救いたかったからだ。その気持ちだけは信じてやってくれ」
「藤黄老、しかし……!」
巫覡たちはなかなか納得がいかないようだ。いざや桜が燃えたことによって、多くの巫覡が亡くなり、それによって彼らの使役していた鬼神が行方不明になってしまった。ただでさえ巫覡と鬼神の関係性が揺らいでいる中、不安を隠せないのだ。
それを察し、重鎮たちはここぞとばかりに藤黄老を責め立てる。
「藤黄老、あなたはこの期に及んでもそこの娘を庇うのですか?」
「藤黄老はこの娘に対して甘すぎる!」
「私も同感です。そもそもこんなことになった原因の一端は、藤黄老にもあるのですよ!」
「何……?」
藤黄老は眉根を寄せるが、重鎮たちの勢いは止まらない。
「このようなことを申したくはないのですが、藤黄老、あなたが茜音に〈鬼神の法〉を受けることを許可したことにも問題があるのではありませぬか?」
「その通りだ! やはりあの時、この娘に〈鬼神の法〉など受けさせるべきではなかった!!」
「そもそも、いざや桜を焼いたあの巫覡……桔梗といったか? あの娘はそこの茜音と常日頃から仲が良かったという話じゃないか。まさか二人で手を組み、今回のことを仕組んだ……などということはあるまいな?」
「それに、聞けばあの桔梗といいう娘、狩森神社に強い不満を抱いていたというではないか。神社に貢献しない者ほど身勝手で利己的な主張をする。愚かしいことよ。挙句の果てに、鬼神になりたくないあまり、いざや桜に火を放つとは……!」
「まったくだ。己の実力を考えれば、むしろ喜んで鬼神になるべきであろうに、そんなことも分からんとは……嘆かわしいことよ!」
茜音さんは無表情で重鎮たちの罵倒を聞いていた。だが、膝の上では両手をぎゅっと握りしめており、その手の甲には血管がくっきりと浮かび上がっている。
茜音さんはきっと、桔梗を揶揄されたことに対しての怒りを抑え、反論をぐっと呑み込んでいるのだろう。それが痛いほど伝わってくる。
(茜音さん……!)
僕はハラハラして仕方がなかった。何も知らず、何の責任も取らず、好き勝手なことばかり言う重鎮たちの態度に茜音さんの堪忍袋がいつ切れてもおかしくないと思ったからだ。
しかし重鎮たちの暴走は止まらない。
「やはり、茜音には何らかの処罰を下すしかあるまい」
「そうだ、何事もけじめは必要だ。我らの先祖が代々、守ってきた御神体であるいざや桜を焼失させた責任を取らせねばならぬ」
それを聞き、僕は声を荒げずにはいられなかった。
「そんな……! どう考えてもおかしいじゃないか、茜音さんがいざや桜に火をつけたわけじゃないのに!」
どさくさにまぎれ、重鎮たちは全ての責任を茜音さんに負わせようとしている。
何故、桔梗が鬼になってしまったのか。何故、彼女がいざや桜に火をつけたのか。根本的な問題には全く目を向けることなく、茜音さんを生贄にして全てを闇に葬ろうとしている。
そのことに僕は強い憤りを覚えずにはいられない。
彼らは、自分たちが桔梗に〈鬼神の法〉を受けさせると決めたことがそもそもの発端だということを失念しているのではないか。いや、敢えてそこから目を背けていると表現した方が正しいのかもしれない。
ならば、それが責任逃れではなくて一体何だというのだろう。
狩森神社の神職や巫覡の中にも、きっと僕と同じことを考えている者はいるに違いない。けれど、彼らが声を上げるとは思えなかった。重鎮たちが怒り狂っている中で意見をすれば、彼らの怒りが自分に降りかかってくるのは目に見えている。みなそれを恐れているのだ。
このままでは、茜音さんが悪役にされてしまう。そして全ての責任を押し付けられ、体のいい生贄にされてしまう。
そんなことさせるものか。僕はそう憤ったものの、すぐに思い出してしまった。今の僕には茜音さんを助けるどころか、この世界に干渉することすらできないということに。
一体どうしたらいいのだろう。
どうしたら、茜音さんの助けになれるだろう。
一体、どうしたら……。
するとその時、突然、参集殿の後ろの方で誰かが手を上げた。
「すみません、その前に一つ窺いたいことがあるのですが」
「……何だ、白緑? 言ってみよ!」
発言を許された巫覡が立ち上がる。それは一人の少年だった。年齢はだいたい、僕と同じか少し下だろう。ちょうど巫覡になったばかりという年頃だ。
彼は凛とした顔立ちをしており、くっきりした瞳には理知的な光が宿っている。重鎮たちが剣呑な視線を向ける中、少年は物怖じすることなく堂々と発言した。
「狩森の巫覡が〈鬼神の法〉を経ず、生きながらにして鬼になった……これは私たちにとって由々しき事態であることは皆さんもご承知の通りのことと思います。しかし、聞けば桔梗さんは、以前から自身が鬼神となることをひどく恐れていたというではありませんか。重鎮の方々は、それを把握しておられたのですか?」
「何……!?」
「昔から〈鬼神の法〉に対してる良い恐怖感を示す巫覡は一定数、存在しました。なればこそ、桔梗さんがその恐怖から鬼となることも、ある程度、予測できたはずです。何故、皆さま方は何も対処しなかったのですか?」
白緑と呼ばれた少年は重鎮たちにそう問いかけた。
彼の口調はとても静かで、けれど同時に毅然としていた。中途半端な説明では到底、彼を納得させることはできないだろう。
その態度が癪に障ったらしい。重鎮たちの眉は瞬時につり上がった。
「何だと? 貴様、我々に楯突くつもりか!?」
「若造は余計な口を挟むな! 何も理解しておらぬ未熟者め、己の立場をわきまえよ!!」
次々と怒号を上げる重鎮たち。しかし、白緑は全く怯むことなく、発言を続ける。
「いいえ、私には……私たちにはそれを知る権利があるはずです。私の兄、織部はあなた方の指示の元、燃えるいざや桜を鎮火しようとして命を落としたのですから!」
僕は目を見張った。
白緑は織部さんの弟なのか。確かに言われてみると、顔立ちが似ているような気がする。
織部さんは若い巫覡たちの憧れであり目標だった。きっと白緑も、そんな兄を誇らしく思っていただろう。そう思うと、胸が痛んだ。自慢の兄を失った白緑はどれほど怒り、そして悲しんだだろう。
すると、白緑と共にいた多くの若者も立ち上がった。そして、口々に疑問の声を上げる。
「私の姉も、いざや桜が燃えた際に亡くなりました!」
「私の弟も同様に、鬼神の魂に喰われました!!」
「うちは両親が……弟妹はまだ幼いのに……!!」
「教えてください! 何故、私たちは家族を奪われなければならなかったのか! どうかそれを説明して下さい!! あなた方にはその責任があるはずです!!」
立ち上がった若者たちの数は百人近くに及んだ。彼らの瞳にも大きな怒りと悲しみが滲んでいる。
さらに、白緑を含めた若者たちの多くは負傷しており、体のあちこちに包帯やガーゼのような布を当てていた。おそらく彼らはいざや桜が燃えたあの晩、御霊の丘に居合わせていたのだ。
そして、みな知っている。重鎮たちが神職や巫覡の命より、いざや桜の鎮火を優先させたことを。
それにはさすがの重鎮たちも怯んだようだった。
「ぐ……貴様ら……!」
言葉を詰まらせる重鎮たちに、白緑たちは質問を畳みかけた。
「そもそも、狩森の巫覡が自ら鬼となったのは、これが初めてなのでしょうか? 過去にも同じ事例は幾度となく起きていたのに、あなた達がそれを隠蔽してきたのでは? そして狩森神社にとって都合の悪いことは全て闇に葬ってきたのではありませんか!?」
「そのようなこと、あるはずがなかろう!!」
「信じられませんね。巫覡の命を軽んじ、他の何よりもいざや桜を優先するあなたたちの言うことなど!!」
外野である僕にも分かった。この時、重鎮たちと狩森の若い巫覡の間に、大きな亀裂が入ったのだということが。
それも仕方のないことかもしれない。片や切り捨てる側であり、片や切り捨てられる側。そもそも相容れるはずがなかったのだ。
それが今まで問題なく回っていたのは、狩森神社の中の特殊な秩序が惰性で保たれていたからに過ぎない。
参集殿での会合が終わっても、その亀裂が修復されることはなかった。
「狩森神社の上層部は、僕たちのことを体の良い奴隷だとしか思っていない!!」
「いざや桜が燃えた時、よく分かった。私たちはあの人たちにとって使い勝手のいい捨て駒にすぎないということを!」
「もとはといえば、全て〈鬼神の法〉のせいだ! 鬼神の存在が無ければこんなことにはならなかった! もう時代錯誤の咒術はやめるべきだ!! ただ、一般の巫覡が犠牲になるだけ……! そしてそのぶん、上層部は己の懐を温める……こんなことが許されるはずがない!!」
若い巫覡が憤り、そう声を上げれば、狩森神社の重鎮たちがそれに反論する。
「何を馬鹿げたことを……!」
「一時の感情に任せて、二千年ものあいだ存続してきた狩森神社の伝統を捨てるべきではない!」
「〈鬼神の法〉にしても、確かに時代遅れの禁術かもしれん。だがしかし、その禁術があったからこそ、狩森神道は世に一定の影響力を及ぼすことができた!」
「全ては狩森のため、狩森の一族が生きのびるためだ!!」
両者の意見は相反したまま、歩み寄ることも妥協し合うこともなかった。それどころか、時が経てばたつほどその対立はどんどん激しく先鋭化していく。
いざや桜の焼失と、それによる鬼神の魂の現出。それらによる損害はあまりにも大きく、もはやどんな策を用いても対立や分断を埋めることはできないのだ。




