第六十一話 鬼神の法
問われた重鎮たちは、またしても押し黙った。
しかも今度は、どこか気まずげに視線を彷徨わせている。我こそはと立ち上がる者はいない。それどころか、お前が鬼神になれと名指しされないよう、保身に走っているようにも見える。
それを目の当たりにして僕ははっきりと悟った。
「この人たちは、自分が鬼神になるのは嫌なんだ! そのくせ、桔梗や蘇芳さんのような若い巫覡たちには狩森のためと言いくるめ、半ば無理やり彼らを鬼神にしてきた……!
この人たちは我が身可愛さに、平気で他の人間を犠牲にしてきたんだ!! それも敢えて、より発言力の弱い人間を狙って……!」
この時、初めて桔梗の怒りが、そして憎しみと絶望の理由が分かった気がした。
この人たちはなんて身勝手なんだろう。なんて卑怯で無責任なんだろう。あまりの醜さに反吐すら出る。茜音さんもきっと彼らの欺瞞には気づいているに違いない。だからこそ、こうして直談判に乗り込んできたのだ。
しかし、茜音さんは最後まで怒りの感情を表に出すことはなかった。そして藤黄老と共に身を翻すと、もはや重鎮たちの方は一顧だにせず、その場を立ち去ったのだった。
それから周囲の景色が一変する。
気づけば僕は、御霊の丘の上、いざや桜のふもとに立っていた。目の前には茜音さんが立っている。蘇芳さんがかつてそうだったように、真っ白い着物をまとって。
それに腰のあたりまであった長い髪も肩のあたりでばっさり切っている。その姿は僕の知っている茜音さんにとても近い。
茜音さんは、すっかり焼け果て、幹や枝だけとなったいざや桜を見上げている。もはや花を咲かすこともなくなった哀れな桜の大木を。
(茜音さん……本当にこれから〈鬼神の法〉を受けるのか……)
茜音さんはいま、どんな心境なのだろう。
こんな形で〈鬼神の法〉を受けることになるなんて、当の茜音さんも思ってもみなかっただろう。
「何も茜音さんが全てを背負うことはないのに……!」
僕は思わずそう呟いた。
ただでさえ茜音さんは親友である桔梗をその手にかけているのだ。鬼になりかけていた桔梗を止めるには他に方法はなかったとはいえ、茜音さんはもう十分すぎるほど傷ついている。それなのに、この上、なぜ鬼神にならなければならないのか。とうてい納得がいかなかった。
けれどやはり僕の声は茜音さんには届かない。この世界では、僕は徹底して傍観者でしかないのだ。
その僕の隣には露草色の瞳をした黒猫がちょこんと座っていて、やはり同じように茜音さんを見つめている。
そこへ誰かがやって来た。藤黄老だ。
彼もまた、蘇芳さんの儀式を行った時と同じ服装をしている。そして、茜音さんに声をかけた。
「……どうだ。気持ちの整理はついたか、茜音」
「藤黄さま……」
茜音さんは困ったような顔をして微笑む。
「それが……いまこの時を迎えても、まだ実感が沸かないのです。まさか自分がこのような形でを受けることになるなんて……ここで兄さまを見送った時は思いもしなかった」
「もう六年になるか。お前の兄、蘇芳が〈鬼神の法〉を受けたあの日から」
「……はい」
茜音さんは頷いてから、俄かに表情を曇らせる。そして、ためらいがちに尋ねた。
「藤黄さま、兄さまの行方について何か掴めましたか?」
すると、藤黄老は首を横に振る。
「……いや。いざや桜が燃えた夜、多くの巫覡が死んだ。その結果、彼らが使役していた鬼神の多くが制御を失い、そのまま行方知れずになってしまった。お前の兄もその一体というわけじゃな。
実のところ、いざや桜に封じられておった鬼神の魂が四散したことより、現役の鬼神たちが行方不明になったことの方がよほど問題じゃ。現役の鬼神はまだ肉体という器を持っておるからの。その破壊力は魂のみのものとは比べ物にならん」
「そうですか……。それではなおのこと、私が鬼神となり、みなを探しに行かねばなりませんね」
茜音さんはそう言って笑った。けれど、その笑みはどこか無理をしているようにも感じられた。
藤黄老は小さく溜息をつく。
「やはりそれが目的だったか。茜音、お前の父や母の魂を取り戻したいという願いも決して嘘では無かろう。しかし、一番の願いは兄を探し出すことなのではないか? お前のことだ。父や母よりも現実的な脅威となり得る兄のことを放ってはおけなかったのだろう」
「もちろん、それはあります。兄さまに無事でいて欲しい。それと同じくらい、兄さまには誰かの命を奪うことはして欲しくないのです。人であった頃の兄さま自身がそのようなことを望まない人でしたから。けれど、私が〈鬼神の法〉を受ける決意をした理由は他にあります。それは桔梗のためなのです」
「ほう……桔梗の?」
藤黄老さんは茜音さんの言葉に興味を抱いたのか、片方の眉を上げた。
「はい。私は以前から桔梗が苦しんでいるのを知っていました。けれど結局、何もすることができなかった。今でも後悔しているのです。他に方法はなかったのか、狩森の外であれば桔梗も生きることができたのではないか……と。
……申し訳ありません。狩森の巫覡として生まれ育ちながら、このようなことを口にしてしまって」
確かに、狩森神社を取り仕切る立場にある藤黄老にとって、神社の否定に繋がりかねない茜音さんの言葉は決して快いものではないだろう。けれど、藤黄老はゆるゆると首を横に振る。
「良い。お前の言葉はあくまで桔梗のことを想ってのものであることは分かっている」
「藤黄さま……」
「だが、狩森の人間は狩森の外では生きていけぬ。我々は他とは違うのだ。これまでもそうだったし、これからもそうだ」
藤黄老は、いやにきっぱりとそう言い切った。万有引力の法則を説明する時の物理の先生が、そこに一片の疑問も差し挟んでいないのと同じように。
何故、そうまで断言できるのか。僕は首を傾げるが、一方の茜音さんは違和感を抱かなかったらしい。愁いを帯びた瞳を伏せ、声を震わせた。
「それはそうかもしれません。でも私は、唯一の親友に生きていて欲しかった。たとえどんな形であっても、生きていて欲しかった……!」
茜音さんの心の内を思うと、僕も胸が張り裂けそうだった。
どんなに願っても、桔梗は甦らない。
桔梗が壊してしまったたくさんのものも、もう二度と取り戻せないのだ。
いざや桜の下にたたずむ茜音さんと藤黄老の間を、晩秋の冷たい風が吹き抜けていく。すっかり燃え尽き、残骸のようになったいざや桜が、風に晒されびゅうびゅうと物悲しげな音を立てる。
やがて茜音さんは、再び口を開いた。
「藤黄さま、もう一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「何だ、申してみよ」
「桔梗の遺体は見つかりましたか?」
僕は、ハッとして茜音さんを見つめた。桔梗は茜音さんの放った五本の矢にその身を貫かれた後、崩れ落ちてきたいざや桜の枝ともども火に包まれたはずだ。僕もその様をこの目で見ている。だから、いざや桜の周辺……ちょうど僕たちが立っている辺りをくまなく探せば、必ず桔梗の遺体は見つかるはずだ。
ところが、藤黄老は眉間にしわを寄せ、殊更に低い声で言う。
「……いや。燃え朽ちたいざや桜の周りを何度も探したが、あの娘の遺骸は見つかっておらん」
「そうですか……」
桔梗の亡骸は見つからなかったのか。
それほどまでに火の手の勢いが激しく、いざや桜を包んだ灼熱の炎が全てを焼き尽くしてしまったからか。
それとも……それが彼女の犯した罪に対して下された審判なのか。
いずれにせよ、茜音さんにとっては辛い結末であるに違いない。
僕は焦げて真っ黒になった御霊の丘の頂上を見渡した。そこには生物の気配はなく、ただ殺伐とした光景が広がるばかりだった。まるで、この世のありとあらゆる存在は全て、最後にこのような有様になり果てるのだと言わんばかりに。
その残酷さを突きつけられ、僕はあらためて思い知らされる。いざや桜は人の心を救わない。あくまでただ、そこに在るだけなのだと。
茜音さんは胸元で、冷え切って指先の赤くなった両手をぎゅっと握りしめる。
「確かに桔梗は、いざや桜を燃やすという大罪を犯しました。そのせいで、大勢の狩森の巫覡や神職たちが亡くなったのも事実です。でも……できればせめて、桔梗をこの手で埋葬してあげたかった……!」
藤黄老は、そんな茜音さんを哀れに思ったのだろう。茜音さんの肩に手を添え、彼女を励ますのだった。
「茜音よ、お前は正しいことをしたのだ。自分を責めてはならん」
「ありがとうございます。けれどそれでも、私は桔梗がやったことの責任を取るつもりです。私にはそれを果たさなければならない義務がある。何故なら……桔梗の命を奪ったのはこの私なのですから」
茜音さんの瞳にはとても強い光が宿っていた。もう誰も彼女の決意を覆すことはできない。藤黄老もそれを悟ったのだろう。とうとう観念したように、茜音さんに出発を促した。
「……来なさい。そろそろ〈鬼神の法〉を始めるとしよう」
「はい」
見ると、神職の格好をした男性が迎えに来ていた。蘇芳さんの時と同じように。
茜音さんは藤黄老と共に神職の男性のあとに続き、石段を下りていく。
彼らがこれからどこに向かうのか、教えられなくとも容易に想像がついた。きっと鬼神になるための部屋……暁の石室だ。
けれど、蘇芳さんの時と違って茜音さんを見送る者はいない。彼女は独りだ。
それも当然だろう。茜音さんの両親は既に〈鬼神の法〉によって他界しており、鬼神となった兄の蘇芳さんは行方不明。そして唯一の親友だった桔梗も今はもうこの世にいない。茜音さんの大事な人はみな手の届かない遠くへ行ってしまったのだから。
今の茜音さんは正真正銘、一人ぼっちなのだ。
でも、そんなのどう考えてもおかしい。あまりにも茜音さんが可哀想だ
。茜音さんは桔梗や家族、ひいては狩森の人々全員のために全てを背負って鬼神となる決断をしたのに。誰にも見送られず、ひとり孤独に暁の石室に向かわねばならないなんて。
(茜音さん、本当は辛いだろうな。どんなに気丈に振舞っていても、〈鬼神の法〉を受けるのが平気なわけがない。本当は怖いはずだ。心細くて仕方ないはずだ。誰かにそばにいて欲しいだろうし、送り出して欲しいはずだ。ただ、それを口にできないだけで……!)
茜音さんのことを想うあまり、思わず僕は呟いていた。
「いざや桜の木のもとに君を待つ……」
確か鬼神になる者と、それを見送る家族や友人、恋人たちは、こうして誓いを交わすのだ。たとえ鬼神になったとしても、必ず生きていざや桜の下で再会しようと。
その言葉を聞いていたのか、露草色の瞳をした黒猫がまん丸の目をして僕を見上げる。
僕は思わず赤くなって反論した。
「な……何だよ。いいだろ、別に。僕がいざや桜の誓いを口にしたって!」
そして再び石段を下りていく茜音さんの背中を見つめる。
「……分かってるよ。僕の声は茜音さんには届かない。でも、それでも茜音さんの無事を祈りたいんだ。僕では桔梗や蘇芳さん、そしてご両親の代わりにはなれないかもしれないけど……同じくらい茜音さんを想っているつもりだから」
黒猫はじっと僕を見つめていたが、やがて僕の足に体を摺り寄せてくる。この黒猫が僕にこういう親しげな態度をとったのは初めてだ。これまで常に僕を導いてくれたけれど、常に一定の距離を取っていたし、僕のことをどう考えているのかは分からなかった。
「何だよ、急に。どうしたんだ?」
すると黒猫は、なあん、と鳴く。
それを聞いて僕はさらに驚いた。この黒猫、ちゃんと鳴けたのか。これまで「シャーッ」と言って毛を逆立てているところしか見たことがなかった。
黒猫が何故、急に僕に親愛の情を示したのかは分からない。ただ、黒猫が僕の口にしたいざや桜の誓いに反応したことだけは分かった。
「……そうか。お前も茜音さんのことが心配なんだな」
僕が身を屈め、黒猫の体をなでると、今度は黒猫は逃げなかった。それどころか、気持ちよさそうにごろごろと喉を鳴らす。
「大丈夫だ。茜音さんはきっと戻ってくる。蘇芳さんのように。……今回もそれを信じよう」
その時、突然、周囲の風景が変化し始めた。東から太陽が昇り、天井に至ると、今度は西に向かって沈んでいく。そしてすぐに再び東から太陽が昇る。
「な……何だ?」
最初はひどく驚き戸惑ったが、やがて気付いた。凄まじい速さで一日一日が過ぎ去っていくのだ。
太陽が昇り、そして沈む。それが九十九回、繰り返される。つまり九十九日が経ったということだ。季節もめぐり、雪が降り積もったあと、それが解け、御霊の丘のふもとでは梅が花をつけ始める。
(九十九日……確か、〈鬼神の法〉を受けて眠りについた巫覡が目を覚ます予定の日だ。この日、目を覚ますことができた巫覡は鬼神になる。そして、目覚めることができなかった巫覡は、〈鬼神の法〉に耐えきれずそのまま死んでしまう……)
僕は藤黄老が蘇芳さんにしていた話を思い出した。
「茜音さん……茜音さんはどうなったんだ?」
茜音さんは無事に〈鬼神の法〉を乗り越えることができたのだろうか。僕が声を上げると同時に、黒猫が走り出した。黒猫は石段を駆け下りていく。僕もすぐさま、それを追いかけた。
黒猫が向かったのは、僕の想像通り、御霊の丘の東側にある暁の石室の入り口だった。そこでは他の神職の格好をした人々と共に、険しい表情をした藤黄老が立っていた。
藤黄老の顔色はだいぶ改善していた。この九十九日間で、いざや桜が燃えた混乱のさなかに負った怪我はかなり回復したようだ。しかし藤黄老の表情に晴れやかさはない。しかめ面をしたまま、他の神職たちに尋ねる。
「茜音はまだこの暁の石室の中から出てきておらんのか」
すると、神職の男性たちは揃って頷いた。
「茜音に〈鬼神の法〉を施してから九十九日……もし儀式が成功しておるなら、当に石室の外に出てきているはずだ。しかしそれが姿を現しておらぬとすると、最悪の事態も考えねばならぬやもしれんな……」
藤黄老はそう言ってため息をつくと、鍵を使って石室の入り口の格子扉を開け、松明を掲げながら他の神職の人々と共に石室の中に入って行く。
つまり、茜音さんは〈鬼神の法〉に耐えきれず、そのまま帰らぬ人となってしまったのだろうか。
「そんな……茜音さん……!」
僕は右手を握りしめて胸に当て、その右腕に嵌めている水晶の腕輪念珠を、腕ごと左手で掴んだ。そして両眼を閉じ、一心に祈った。
(お願いです。どうか茜音さんを守ってください。茜音さんが無事でありますように……!)
自分が神さまに祈ったのか、それとも仏さまに祈りを捧げたのかは分からない。腕輪念珠に祈ったなら、祈った先はきっと仏さまになる。けれど、茜音さんは狩森神道の巫覡なので、彼女の無事を祈るなら本来は狩森神社が祀る神さまに祈るべきなのだろう。
でも、正直なところどちらでも良かった。
茜音さんを守ってくれるなら、たとえ悪魔に魂を捧げても構わない。
それから、僕と黒猫も藤黄老に続いて暁の石室の中に足を踏み入れた。石造りの階段をひたすら下り、最下層に伸びる真っ暗な隧道をひたすら進んでいくと、やがて開けた小部屋に出る。
暁の石室は蘇芳さんが〈鬼神の法〉を受けた時のままだった。藤黄老たちは手にしていた松明を使って篝火に火を灯す。そして石室の中にある石棺に向かった。
藤黄老は他の神職たちに向かって、石棺の蓋を開けるよう指示をする。彼らは石でできた蓋を少しずつ動かし始めた。石棺の蓋は重いのだろう。彼らの動きはとてもゆっくりで、僕はそわそわして仕方がなかった。
茜音さんは生きているのだろうか。いや、もしかしたら……。
そんな悪い予感で頭がいっぱいになる。
(いや、茜音さんは生きているはずだ。だって、未来の時代で僕と出会うんだから……!)
だが、それにしたって、絶対という保証はないのだ。一刻も早く茜音さんの無事を確かめたい。気持ちばかりが逸る。
やがて神職の男性たちは、石棺の蓋を半分ほど開けた。そして藤黄老が石棺の中を覗き込む。
――ところが、その瞬間。
「こ……これは……!」
藤黄老は驚いた様子で仰け反った。
「一体、何があったんだ?」
僕も石棺のそばに駆け寄る。
すると、石棺の中に横たわっていた人物がゆっくりと上半身を起き上がらせた。
それは茜音さんだった。白い着物をまとい、肩のあたりで切り揃えた艶やかな髪が揺れている。九十九日前、焼けたいざや桜のふもとで見た時のままの姿だ。
どこにも変化はなく、人間だった時のまま。
ただ、顔や腕といった肌の露出した部分に何やら呪言のようなものがびっしりと書き込まれている。蘇芳さんが受けた〈鬼神の法〉を、確かに茜音さんも受けたのだ。
「良かった、茜音さんは無事だ! でも……茜音さんは鬼神になっていない……? どういうことなんだ?」
僕の抱いた疑問は、当然、藤黄老も抱いただろう。
「茜音……お前、鬼神にはならなかったのか……? いや、鬼神になれなかった人間は〈鬼神の法〉に耐えきれず、普通は死ぬ運命にあるはずだ。茜音、お前は何故、鬼神になることなく、その姿のままで生きている……?」




