蜘蛛豹
この時、豹は内心かなり焦っていた。
四人の人間を一度に捕らえる事については特に問題がある訳ではない。
しかも、経験上危険である事がわかっている男と、何やら嫌な予感がして仕方がない大剣を背負った女についてはいつもよりも多めの糸を絡めつけておいてある。
というか、大剣の女については、最も糸が密になった場所へと誘い込む事が出来たおかげで、最初から他の者より大きい圧力をかける事に成功している。
この女には人間どころか、大抵の魔獣ならその場に釘付けに出来る程の強力な圧力がかかっているはずなのだ。
にもかかわらず、女は背中の剣に手をかけている。
それまでの動きから見て、剣を抜く事までは出来ないとは思うのだが、とはいえ、早々に動きを止めないとまずい事になる事は、本能が教えてくれている。
だから、標的を変える事にしたのだ。
もう一本、糸を繋げば、いくらなんでも動けなくなってくれる事だろう。
もう一人、槍の女もまだ辛うじて動く事が出来るようだが、それについても、もう一つの糸を向かわせている。
既に絡めた糸の数とこれまでの動きから見て、これでまず間違いなくこの女も動けなくなる。
そうなればもう怖いものはない。
他の二人の動きは既に止まっているので、後は一人づつゆっくり食していけばいい。
いつも通りの食事の時間だという訳だ。
しかし、にもかかわらず、不思議と気持ちが落ち着かない。
というよりも、体中が警鐘を鳴らしている。
その感覚に困惑しているその間に、大剣の女と槍の女、二人を狙った二本の糸がほぼ同時に獲物を捕らえた事が、それぞれ糸を通して伝わってくる。
魔力が糸に吸い取られる感覚が有り、二人の女に圧力が加えられた事がわかる。
それとほぼ同じタイミングで、槍の女が倒れ伏す姿が目に入ってくる。
あの場に倒れたという事は槍の女はもう確実に動けない。
一方、大剣の女の方にも念押しの一本を絡める事に成功している。
これで、もうこちらの女も剣を抜く事は出来ないはずだ。
つまり、この場にいる全員の動きを止めた事になる訳で、後は一匹づつ喰らっていくだけでいい。
彼等にとっては万事休すだという訳だ。
だが豹は、そうする事を躊躇した。
そして、躊躇した事によりその場から動かなかった事が、この豹のその後の運命に大きく影響を与える事となるのだった。
その少し前、アーダの足には新しい糸が絡みつき、アーダは上からの強い圧力を受け、押し倒される様に勢いよく地面に激突していた。
地面と言ってもそこは硬い溶岩の上だ。
その衝撃は土の地面の比ではない。
しかも、アーダが倒れたその場所には、既にたくさんの糸が張り巡らされている。
それはつまり、アーダがその上に倒れたその瞬間に、更に強い圧力がアーダを襲うという事に他ならない。
しかし、アーダにはやり遂げたという実感が有った。
右手にしっかりとした感触が有ったからだ。
アーダが右手に持っていたのはラビアローナの槍だ。
槍には石突きに豹の糸が付いている為、自身も大きな圧力に見舞われている今のアーダの力では持ち上げる事は適わない。
しかし、槍を倒すくらいの事なら容易にできる。
アーダはそれを利用して、フィノの足元の糸を切断する事を目論んだのだ。
自分の足元の糸を切るためには槍を逆さにしなければならない。
その為にはかかる圧力に逆らって槍を持ち上げ、回転させる事が必要だ。
それは、この時のアーダには難しい事だった。
対してフィノの足元の糸ならば、比較的簡単に切る事が出来る。
狙いを付ける為に少々動かなければならなかったが、その位置まで移動できれば、後はそこで倒ればいいだけだからだ。
そしてその目論みは成就した。
槍は確かにフィノの足元の糸を貫き、結果、フィノを枷から解放する事に成功した。
正確に言えば、フィノを捕らえていた糸の全てを断ち切った訳ではなかったのだが、フィノが剣を抜く事が出来る程度には、糸を切断事するが出来たという事だ。
そして、アーダが地に伏した次の瞬間には、フィノはもう剣を振り回していた。
最初の一振りで残っていたフィノの周りの糸を全て立断ち切り、次いでアーダの側に飛び、そこでの一振りでアーダを糸から解放する。
「ありがとね、アーダ」
「そんな事は後でいい。それより…」
「了解、任せて」
フィノはアーダの言葉を遮って、豹に向かって駆けだした。
足元にはまだたくさんの糸が張り巡らされたままなので、フィノは大剣を身体の前で回転させ、その糸をぶち切りながら走っていく。
それでも時折少しだけ速度が落ちている事から、たまに切れていない糸が付く事もある様だが、それくらいではフィノの勢いは止められない。
次の一振りでその原因を取り除き、ぐんぐん豹へと近づいていく。
この豹がどれだけ強いのかはまだわからないが、まともに戦りあえばフィノの方が強い事はまず間違いない。
つまり、豹がフィノに向かってくるようならば、決着はすぐに着くという事だ。
しかし、豹はそんな行動はとらなかった。
フィノが豹の元へと到達するその直前に、豹はそれまでに放出した全ての糸を捨て、後ろに一歩大きく飛び退くと同時に、フィノに向かって新な糸を射出した。
糸は、豹のすぐ目の前で剣を大きく振りかぶるフィノに当たり、その所為で、フィノの動きが一瞬止まった。
が、フィノはその糸を強引に引きちぎり、すぐに豹を追いかける。
しかし、その間に豹は逃げに転じていた。
豹は逃げに徹する事を決めたようで、後ろを振り向く事なく、尋常ではない速さで一直線に去って行く。
あの速さで逃げられてはさすがのフィノも追いつけない。
「フィノ、どいて」
その時、ルティナの声がして、フィノは慌てて横に飛んだ。
直後、フィノのすぐ横をかすめるようにして、ルティナの矢が通り過ぎていく。
何もできないまま岩の上に縫い付けられ、ルティナは内心かなり頭に来ていたのだ。
ルティナの矢はまっすぐ逃げる豹の背中に確かに命中した様に見えた。
しかし、それでも豹は速度を落とすことなく、大きな岩を飛び越えると、そのままその岩の向こうに消えていった。
結局、豹はギリギリの判断で獲物を諦めた事により、何とかその命までは失わずに済んだのだった。




