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俺より強いあの娘を殴りに行く。(一)

 殴られた頬は痛まなかった。

 忍はそういうことに慣れていないのだろう。

 もしかしたら人を殴る事など、生まれて初めてだったのかもしれない。

 勉強も、運動も中の上。なんでもそつなくこなす忍が初めて見せた下手糞な行為。

 ……これじゃ、殴ったほうが痛いだろうな。

 浩介は、そんなことを思いながら、街灯に照らされて白く浮かび上がったホームベースをみている。

 自宅の石浜工務店とゲームセンターロッキーの丁度中間にある上尾陸上運動公園。

 野球グラウンド、キャッチャーの座る位置に立っている。

 小学一年の春から中学一年の夏まで六年間、浩介は毎日このポジションに座っていた。

 雨の日も風の日も雪の日も、ここに座っていた。

 野球が好きだった。『一日一回ボールを握らないと死ぬ』とさえ思っていた。

 キャッチボールが、バッティング練習が、投球練習が好きだった。

 得意でないランニングすら、これが野球に繋がっていくと思うだけで楽しかった。

 なにより、キャッチャーというポジションが好きだった。

 皆と一緒に戦っているんだと実感できるここからの風景が好きだった。

「昔の……話になっちゃったなぁ」

 十六歳にとって、三年はもう取り戻せないと思うほど、はるか遠い昔だ。

 ふいに後ろから、肩を叩かれた。

「珍しいな」

 振り向くと二歳年上の大介が立っている。

 浦和学園うらわがくえん野球部と刺繍ししゅうの入ったトレーニングウェアを着ている。

 身長一八二センチ、浩介より丁度、十センチ高い、身体も一回り大きい。

 よく鍛えられた身体だ。

 三年間、野球の名門で、打ち、投げ、走りぬいた嘘のない身体だ。

「兄ちゃん。今日勝った? ってか負けるわけないか」

「おう、七回三安打、無失点。でも、フォアボールが四つだからな監督にガチ説教」

 参ったぜ。と笑う大介は、野球の名門浦和学園で背番号一を背負っている。押しも押されぬエースだ。夏の大会では優勝候補筆頭に上げられている、最も甲子園に近い九人の中心選手。

 ワンチャンドラフト指名まである。と浩介は兄を評価している。

 三年前まで、二人は上尾一の名バッテリーだった。

 所属していたリトルリーグの上尾ロッキーズを少年野球の全国大会へ連れて行ったことも二度ある。大介の速球と浩介のリードの前に、打率二割五分以上を記録した打者はいない。

「久しぶりに、やるか? グラブならあるぞ」

 大介がバッグからグローブを取り出し、ミットじゃなくて悪いな。と浩介に手渡す。

 浩介はよく手入れされているグローブを左手にはめた。

 野球の、匂いがする。

「暗いから、怖いんだけどな」

 自然と、ホームベースの後ろに座る。

「本気じゃ投げないって、七割程度だ」

 大介も当たり前のようにマウンドに登る。

 十球ほどゆっくりした投球で肩を慣らしてから、大介がワインドアップのモーションに入る。

 身体の軸がぶれない、いいフォームだ。真っ直ぐなフォームだ、そこから真っ直ぐな球が放たれる。

 ボールはシュゥっと風を切って迫ってくる。打てるもんなら打ってみな。ボールはそう言っている。相手のことは構わず、自分の意思を一方的に押し付けてくる。

 ……何かに似てる。

 浩介が思った次の瞬間。

 ずばん。

 音を立ててグラブに収まった。

 球速一三五キロ、威力のある直球がど真ん中に決まった。

「全然鈍ってないな、浩介」

「まだ、手ぇ抜いてるだろ、兄ちゃん。次、内角高め」

 浩介がボールを返す。大介は笑って、もう一度投球モーションに入っていく。

 兄弟はその動作を黙々と繰り返した。

「まだ、全然通用するじゃないか」

「もう無理だよ。三年もやってない」

「今からでも、間に合うんじゃないか?」

「間に合わないよ」

「どうして? お前ならいいとこいけるぞ」

「駄目だよ」

「何で?」

「本気で出来ないなら、野球に申し訳ない」

「もっと、楽にやればいいのに」

「遊びで、野球はできない」

 兄弟は、口は動かしていない。黙々と白球をやり取りしている。

 それでも、これだけのことがわかるのは、兄弟だからなのか、それともバッテリーだからなのか。

理由はわからない。だが伝わっていることだけは確かだ。

「浩介、このへんにしとくか」

 球数が二十を超えた頃、大介がそういった。

 もう少し、続けたい。

 浩介はそう思うが、大介の都合もある。

 投げ込みすぎて調子を崩しては大事な試合に差し支える。

 名残惜しそうに、浩介は左手からグラブを抜いた。


「そりゃ、浩介。お前が悪い」

 家までの道すがら、浩介からロッキーでの、忍との事の顛末を聞いたときの大介の言葉だ。

「なんで? 相手が女だから?」

 意味がわからない。勝手に怒って、勝手にルール違反をして、こっちを叩いたのは忍だ。

「そうじゃない。相手が誰でも、浩介が悪い」

「なんで? 殴られたのは俺だよ?」

「本気でやってるんだろ? 格ゲー。こんな言い方変だけど、遊びだけど、適当じゃないだろ?」

 浩介は頷く。真剣にやっている、適当ではない。

「なら、お前が悪い」

 大介は、もう一度同じ言葉を繰り返した。

 納得がいかない。大介の言っている事がわからない。

 毎日ゲームセンターに行ったり、夜中に音を立ててレバーを回していても文句を言わず。家族で一番自分のことをわかってくれる兄の言葉が、今は一つも理解できない。

「なんだそれ? って顔してるな」

 浩介は兄の顔を見る。その通り、なんだそれ? だ。

 大介は、しばし浩介の顔を見つめ、ぽつりと言う。

「……お前、野球辞める時何したっけ?」

「あ……」

 思い出したくない記憶が蘇る。

 三年前の夏、丁度この時期だった。


 あの夏、上尾宮市中学野球部は、創設以来初めて、埼玉県大会の準々決勝まで駒を進めた。

 全国ベスト8一回、ベスト4一回の上尾ロッキーズの名バッテリー石浜兄弟の活躍だった。

 兄の大介は一昨年から在籍していたが、彼の全力投球を取れるキャッチャーがおらず。

 この二年間は万年一回戦負けだった。

 この年に弟の浩介が入部してから、信じられない快進撃が始まる。

 練習試合を含め二十戦して、二十勝。

 ほぼ全ての試合が一対〇。

 二番の浩介が単打ヒットや、内野安打、四死球でなんとか出塁し、四番の大介がそれを返す。

 そうやって取った一点を、ほぼパーフェクトなピッチングで守りきる。

 チーム防御率は〇、二八。四試合に一点しか取られていない。

 石浜兄弟は二人で、弱小チームをここまで引っ張り上げた。

 ……練習もおおむね二人きり。

 つまり宮市はそういうチームだった。

 

 準々決勝の前日、大介が熱中症で倒れた。

 練習のしすぎが原因だった。

 大介が試合に出られないのにかこつけて、顧問は浩介をスタメンから外した。

 思い出作りと称して、三年のキャッチャーをスタメンに起用した。

 立ち上がってもセカンドに球が届かないようなヤツだった。

 浩介はこの先輩の名前を覚えていない。そのぐらい練習に顔を出さない男だった。

 試合は、野球とは呼べないようなお粗末なものだった。

 〇対十三。

 ベスト8ではめったにお目にかかれないスコアで宮市は負けた。

 それなのに、試合終了後の宮市ベンチ内には白い歯を見せるものが何人かいた。

 浩介はずっと下唇を噛んでいた。

 殴りたかった。このボンクラ共を殴って、土下座させてやりたかった。

 ……それでも、我慢したのは、兄の高校の推薦が決まりかけていたからだった。

「まぁ、なんだ。落ち込むことはないんだ」

 顧問がナインに声をかけた。言われなくても落ち込んでいる者など誰もいない。

「いい思い出だと思ってな。ここまで来れれば大したもんだ。うん、落ち込むことはないんだ。人生長いんだし、どっかで負けることだってある。大事なことは切り替えだ。な、たかが野球なんだし」

 ぶつん。

 浩介の中の何かがキレた。

「先生……よく聞こえなかったんですけど」

 やっと、それだけいった。訂正して欲しかった。さっきの一言をなかったことにして欲しかった。

「ん? 浩介。お前もあんまりがっかりするな、たかが野球」

 浩介は「駄目だ」とは思った。思ったが止まらなかった。止められなかった。

 そんな言葉を、まさかグラウンドで聞くことになるなんて。

 気がついたときには、浩介は顧問の首を締め上げていた。

「てめぇ! 今なんつった? たかが野球っていったか? たかが野球って言ったかよ! なんなんだお前ら。謝れ、野球に謝れ! 練習もしないで試合しやがって、トンネルすりゃ笑って、フライ落とせば笑って、ヘラヘラみっともない顔でグランドに立つんじゃねぇよ。練習にも出てこねぇ、ランニングもしねぇで試合しやがって大体お前ら……お前ら勝つ気あんのかよ!」

 その先は覚えていない。

 滅茶苦茶に顧問を殴った気もするし、殴る前にとめられた気もする。

 確かなのはその日を境に、宮市野球部そのものが無くなったということだ。

 推薦の消えた大介は、一般入試で浦和学園に入り。

 浩介はその日から一度もユニフォームを着ていない。


「思い出したか」

 浩介はもう一度頷いた。

「……俺が、悪いね」

「だろ?」

 大介が笑ったとき、浩介の携帯がなった。

 二人の頭上に『石浜工務店』の看板が見える。

「出たほうがいいぞ、いずなちゃんだろ?」

 忍とあった日に、そのことを話しているので、大介の中で忍は『いずな』のままだ。

「可愛いんだろ? ワンチャン彼女まであるぜ」

 わざわざコジローのモノマネまでして、大介は玄関に入った。

 大介は出ろといったが、それは電話ではなくトシからのメールだった。



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